14.

 たくましい腕を枕にして、すぐ近くにある彼の顔を見つめる。
彼は俺の頬を優しくなでて、軽くキスをしてくれる。それから華奢な俺を……そっと抱き寄せてくれる。
俺がすっぽり入ってしまう彼の大きな胸が大好き。温かい手も、優しい目も、全部全部 大好きだ。
俺は彼の胸に顔を埋めてさっきの余韻に浸った。耳には彼の心臓の音がドックンドックンと聞こえていた。
俺は思った。もう何一つ我慢する必要はない……と。
「もっと強く抱きしめて」
マサトは俺が欲しがるものをなんでも与えてくれた。俺の望みを、なんでも叶えてくれた。 苦しいぐらい強く抱きしめられると、もうこのまま死んでもいいと思うほどの幸せを感じた。
汗を吸ってしわくちゃになり、ベッドの隅に追いやられてしまったシーツがちょっとだけ恥ずかしい。 その最中 行為に夢中で気付かなかった天井の鏡が……ものすごく恥ずかしい。
俺は薄闇の中 彼に気付かれないように天井の鏡を見つめた。そこに映し出されていたのはもちろんベッドで抱き合う俺とマサトの姿だ。
中学・高校と6年間サッカー部だった彼は、イヤミにならない程度の筋肉を身にまとっていた。二の腕の筋肉はほどよく盛り上がっているし、腹筋は割れている。
それに比べて俺はあまりにも貧弱だった。たしかに自分が痩せている事は自覚していたけど、マサトに抱きしめられている俺はまるで子猫のように小さく見えた。
でももう鏡を見るのはよそう。せっかく彼と一緒にいるんだから、どうせなら鏡越しではなくちゃんと彼自身を見つめていたい。

 「マサト……」
「ん?」
すぐ近くで彼の声がする。世界で1番大好きな彼の声が。
俺は大きく脈打つ彼の胸に頬を寄せた。彼はもうすぐ遠くへ行ってしまう。 その前に言うべき事は全部話しておきたい。俺はそのために今日彼と会ったようなものだから。
「俺、マサトが初恋の人なんだ」
「え? 本当?」
ちらっと彼の顔に目を向けると、そこにはいつも以上に優しいマサトの笑顔があった。 嬉しそうにそう言って俺を見つめる彼の目を見た時、愛されている事を実感した。
「マサトは、俺が初めて本気で好きになった人なんだ」
彼は俺の手を取って中指の付け根あたりにキスをしてくれた。 少し体の火照りがおさまったと思っていたのに……指に感じた熱が徐々に体全体へ広がっていく。
「だから俺……本当はもっとかっこよく出会いたかった」
その時、彼が耳元でクスッと笑った。
俺はマサトと最初に会った日の事を思い出していた。
さびれた駅のホーム。最悪な気分の俺。そこへ突然現れた救世主 それがマサトだった。
冷静になってあの時の事を思い出すと、本当に恥ずかしくなる。 でもその時俺は、冷静な頭で別な事を考えていた。
もしもあの時現れたのがマサトじゃなくて全然別の人だったら……そうしたら、俺はきっとその人に身をゆだねたりはしなかった。手をつないでホテルへ行く事もなかった。
俺は、助けてくれたのがマサトだったから気を許したんだ。 彼なら絶対に俺を守ってくれる。あの時俺は心のどこかでそう思っていた。

 俺はベッドの上で彼に背を向け、腰のあたりまで掛け布団を引き上げた。 最初の行為が終わってから10分も経っていないのに大事なものがまた反応を示していて……俺は彼にそれを知られるのがすごく恥ずかしかったんだ。
彼はすぐに俺を追い求め、今度は背中からきつく抱きしめてくれた。彼の体温を受け止める時、俺はすごく安心する。
「優クン、すごくかわいかったよ」
マサトは俺の耳元でそう囁いたけど、俺は最初の日の事を言われているのかついさっきの事を言われているのかはっきり分からなかった。
「優クンこっち向いて」
彼の吐く息が耳に降り注がれ、大事なものがますます強く反応を示した。
ベッドの向こうに見えるソファーがとても懐かしい。そこに座ってマサトの入れてくれたコーヒーを飲んだ時がすごく懐かしい。
そしてソファーの向こうには小さな食器棚と電気ポットが見える。 俺はあの食器棚の中に白いマグカップがある事を知っている。
マサトは強引に俺の体を自分の方へ向かせ、ちょっとソフトなキスをしてくれた。 とってもとっても甘いキスだった。
2人の唇が離れた時、俺は彼の頬にエクボを見つけてまたそれを右手の人差し指で突いた。 薄暗い部屋の中でも頬の窪みははっきりとよく見えた。
「優クンが泣いちゃった時、すごくかわいかったよ」
彼に真っ直ぐ見つめられながらそんな事を言われて、カッと頬が熱くなった。 さっきの彼の発言は最初に会った日の事を言っていたようだ。
今度は彼が頬にキスをしてくれた。目には見えないけど、彼はその唇で俺の頬の熱さを知ったのかもしれない。

 そのたくましい腕に抱きしめられると、もう体中が彼を求めて止まなくなる。 でもあまりにも大きな体格差がちょっと悔しい。
「俺もマサトみたいになりたい」
「……どんなふうに?」
彼が何度もソフトなキスを繰り返すから、俺たちの会話は途切れ途切れになった。 でも間違いなくキスも会話のうちだ。マサトもきっとそう思っていた。
「俺……ガリガリに痩せてるから……」
彼はキスをしながらまたクスッと笑った。
「マサトみたいに……もっと男らしくなりたい」
俺はその言葉を口にした時、自分の中に変化が起こった事を感じていた。 だけどその時は自分がどう変わったのかよく分からなかった。 ただ、俺が変わったとしたらそれは絶対にマサトのせいだと思っていた。
マサトは俺の細い肩を指でなぞり、いつもの彼らしい言葉で優しく俺を包んでくれた。
「僕は優クンよりちょっとだけお兄ちゃんだから、少し成長が早いだけだよ」
「そうかな」
「僕は今のままの優クンが大好きだよ」
俺は嬉しくて、また彼の胸に顔を埋めて小さく息を吸った。マサトの匂いを決して忘れないように。
「甘えん坊だなぁ、優クンは」
彼にそう言われて頭をなでられた時、俺はドキッとした。そんな事を言われたのは生まれて初めてだったからだ。

 俺たちは何をするというわけでもなく、ただ一緒に時間を過ごした。
一緒にいられる時が残り少ない事は2人ともよく分かっていたから、とにかくお互いの温もりを感じていたかった。
マサトはイギリスから毎日メールするよと言ってくれたけど、きっとしばらく彼の声を聞く事はできなくなる。
だから俺はマサトの声を忘れないように……彼の話す言葉を一言一句聞き逃さないように、必死に耳を傾けていた。
「ねぇ、僕の事いつ好きになったの?」
「最初から好きだった」
「最初って、いつ?」
「駅のトイレで抱きしめてくれた時……じゃなくて、肩にコートをかけてくれた時」
「じゃあやっぱり、僕の方が先に優クンを好きになったんだ」
「……え?」
フカフカのベッドが、俺たちの心地よい居場所だった。
彼は頭からずれてしまった枕の位置を右手で直し、へその下までずり落ちた掛け布団を胸のあたりまで上げ、腕枕している左腕で俺を抱き寄せて、ちゃんと体制を整えてから俺がすごく幸せになるような事を告白してくれた。
彼の頬に唇を寄せると、いつもエクボの出るあたりがすごく熱くなっていた。

 「あの日僕は家庭教師のバイトを終えて家へ帰るために電車に乗ったんだ。 そして電車の駅を4つ通り過ぎた頃にはもう人のかたまりに押し潰されそうになっていた。 でも次の駅で降りて3分歩けばすぐに家へ着くから窮屈なのももう少しだと思って我慢してた。 でも……僕が降りるはずの駅に着いた時、優クンが電車に乗ってきたんだ」
俺はあの日の事を余す所なく思い出そうとして悪い頭を回転させていた。 マサトが言っているのは、まだ俺たちが知り合う前の事だ。
「優クンは覚えているかな? 僕はあの時ドアの近くに立っていたんだ。優クンはしばらく僕のすぐ目の前にいた。 あの時、こうして抱きしめている時と同じぐらい近いところに優クンがいた。 君の顔がすぐ近くにあった。手の届く所にあった。あの時、僕の心臓の音が聞こえなかった?」
だんだん記憶が蘇ってきた。
俺はあの日の放課後、同じクラスの友達の家へ遊びに行った。 その家を出たのは5時過ぎだっただろうか。俺はその後1人で電車に乗って……そしてマサトと出会ったんだ。
夕方の満員電車はひどく不快だった。俺はあの時立っているだけでやっとだった。 右と左の足の間には誰かの鞄が入り込んでいたし、頭の後ろには冷たい金属の感触があった。 でも……そうだ。電車の揺れに任せて倒れた先には誰かの胸があった。 だけどそれがマサトの胸だったかどうかは分からない。
あの時……あの時俺の目の前にマサトがいたのか? 本当にそうなのか?
でも多分、俺がドアの付近に立っていたのはほんの短い時間だった。 俺はドアが開くたびに電車に乗り込んでくる人波に押された。そして気がつくと目の前に椅子があって、そこにはちょうど1人だけ座れるスペースが空いていた。
どこをどう押されて椅子の前へ辿り着いたのかは全然分からなかったけど……もう人に圧迫されるのが嫌だったから、俺はほっとしてすぐ椅子に座ったんだ。
「優クンを一目見た時から……もう目が離せなくなった。電車を降りられなくなった。ずっとずっと君を見てた。 だから……君が困っている事はすぐに分かった」
マサトは枕に頬を乗せて、じっと俺の目を見つめていた。 俺は胸がいっぱいで、呼吸が苦しくなった。
俺は椅子に座った後、つり革につかまって半分眠っているサラリーマンや潰されそうになりながら足を踏ん張っているOLを漠然と見つめていた。
隣に座っているオヤジの整髪料の香りがきつくて、早く電車を降りたいと思っていた。
突然電車が大きく揺れたのは、あの後だ。あれは綾子からメールが来て、その返信をした直後の事だった……
「僕は、君を守りたいと思った」
今までにないほど力強い声でマサトがそう言った。
本当に、最初からずっと俺の事を見てたの?
電車のドアの横で押し潰されそうになっている時も?
綾子にメールを送信している時も?
突然電車が揺れて……頭が真っ白になってしまったその瞬間も?

 「なんだか、ちょっと恥ずかしいな」
今度は彼の方が体をひねって俺に背を向けた。その瞬間、ベッドが軋んだ。
俺はすぐに彼を追い求め、その大きな背中を後ろからきつく抱きしめた。
その瞬間俺の目から感情が溢れ出した。しわくちゃになったシーツの上には頬を流れ落ちた涙の粒が零れた。
「全部見てたんだね?」
「……うん」
「最初から全部分かってて……助けてくれたんだね?」
俺がひどい涙声でそう言ったので、びっくりして彼が振り返った。
今日は泣きたくなかったのに、泣き顔を見せたくなかったのに、すごく自然に涙が溢れ出た。
あの時の惨めな気持ち。恥ずかしい思い。 彼はきっとそれを全部知っていて……その上で俺のすべてを受け入れてくれたんだ。
つまらない俺でもいい。かっこ悪い俺でもいい。マサトがそう思ってくれている事はすぐに分かった。
「優クン、どうしたの? 泣かないで」
もう次から次へと涙が零れ落ち、あの時みたいにしゃくり上げて泣いた。 マサトと会って以来、本当に泣いてばかりだ。
「泣かないでよ、お願いだから」
マサトは困ったような声でそう言いながらまた腕枕をしてくれた。そして俺をぎゅっと抱きしめ、泣き止むまでずっと背中をさすっていてくれた。
俺はなかなか涙を止められず、彼の腕枕を濡らした。 俺はその時、1人で泣いた夜にサヨナラした。涙で濡れた枕の感触は……もう忘れた。

 俺はいったいどのぐらいの間泣き続けていたんだろう。
多分体の水分が全部なくなるまで。もう一滴の涙も出なくなるまで。
もう涙はいらない。マサトがいれば、他には何もいらない。
彼とキスを交わして頬と頬を寄せ合うと、彼のエクボを肌で感じた。
どうしても彼が欲しくてたまらない。他には何もいらないから、今すぐ彼が欲しい。
「ねぇマサト……さっきの、もう1回して」
遠慮がちにわざと甘えた声で気持ちを伝えると、彼のハスキーな声が俺の耳元でこう囁いた。
「僕は、君と1つになりたい」