窓の向こうで
1.
静かなはずの日曜の朝。
なのに、今日に限って外から聞こえてきた男の声。僕の安眠を妨害する
その声は、かなり低音だった。
「それ、そこに置いて」
ヤケに近い所で声がする。
僕は上半身だけ体を起こし、ベッドの横の半分だけ開いている窓から外
の様子を伺った。僕の部屋は2階だ。窓の向かい側には同じように隣のア
パートの窓がある。
昨日までカーテンのなかったその窓に薄いレースのカーテンが掛かって
いる事に僕は気がついた。
四角い窓は全開だった。白いレースのカーテンは弱い風を受けてヒラヒ
ラと揺れていた。
目線を左下へ向けると、家の前の路上に止まっている白いトラックが見えた。
ああ…そうか。隣のアパートに誰か引っ越してきたんだ。
僕はもう一度枕に頭を乗せて仰向けに寝た。
頭の上にある目覚まし時計をちらっと見ると、8:10というデジタル表示
がはっきりと見えた。
外は曇っている。したがって今日は窓から差し込む強烈な太陽の光で起
こされる事はなかった。
いつもならもっとゆっくり眠れる朝だったのに…
だいたい近所迷惑も考えずにこんな早い時間から引越し作業を始めるな
んて、きっとろくなもんじゃない。
「ドライバーある?」
またすぐ近くで声がした。今度はちょっとハスキーな声だ。
向こうは窓が全開だから、しかたがない。
僕は防音策として頭から掛け布団をかぶった。
僕は中学3年 受験生。今朝の4時まで受験勉強をしていたんだよ。
頼むから、もう少しだけ寝かせてくれ…
それから僕はしばらく寝た。だけど今度は暑くて目が覚めた。
それもそのはずだ。僕は掛け布団をかぶりっ放しで寝ていたんだから。
仰向けのまま重い掛け布団を蹴って深呼吸する。
もう全身が汗だくだった。
綿のパジャマが肌に引っ付いている。
前髪も、額に貼り付いている。
「あちぃ…」
僕は起き上がり、隣を見習って薄いカーテンを引いたままで窓を全開にした。
空はまだ曇っていたが、外の気温は上昇しているようだった。
窓を開けてもほとんど部屋の中へ風が入ってこない。
もうすぐ8月。本格的な夏がやって来る。
だから、そろそろ暑くなるのもしかたのない事だろう…
僕は真面目な受験生。
午前11:30に起きてから汗を洗い流すためにシャワーを浴び、それからカップ
ラーメンを一気食いした後、またすぐ机に向かった。
わざわざオーダーして造ってもらった木の学習机と椅子。
机の高さは丁度いいし、椅子の座り心地も最高だ。
僕はこげ茶色のシンプルな学習机に愛着を持っていた。
変な物がついていないから自由に本棚を設置したり、少し勉強に疲れると
心地いい高さの机に突っ伏して仮眠を取ったり…
とにかくこの学習机は、いつも僕と共にあった。僕の頑張りをちゃんと見
ていてくれた。
友達の少ない僕にとって、この学習机と椅子は親友にも値した。
この椅子に座っているのが好きだから、勉強がはかどるというものだ。
僕はそれから集中して、ずっと勉学に励んだ。
その日は苦手にしている数学の問題集を何冊もかたづけた。
そしてそろそろ疲れがたまってきた夕方頃、またすぐ近くで声がした。
「う…うぅ」
なんだ、今のは。
僕は手に持っていたシャーペンを机の上に置き、椅子に腰掛けたまま
後ろを振り返った。
窓際に置かれたベッドの周りには、漫画の本と参考書が数冊投げ出されて
いた。箪笥の上には随分と埃がたまっている。
ちょっと疲れたし、気分転換を兼ねて掃除でもするか。
僕はお気に入りの椅子から立ち上がり、灰色のカーペットに膝をついてま
ずは漫画の本と参考書を拾い上げた。
漫画の方は受験が終わるまで封印するとその時決めた。僕は押入れの戸を
開けてダンボールの箱を開き、その中に漫画の本をしまいこんだ。
そして、参考書は机の上の本棚へ…と思った時、またすぐ近くで声がした。
「あ…うぅ…」
なんだ?さっきも呻き声を聞いたような気がするぞ。
僕はベッドの上に乗って薄いカーテン越しに窓の外を見た。
目覚まし時計は午後6:20と表示されていたけど、7月半ばのその時まだ外は明るかった。
僕が二度目に目を覚ました時、向かい側の窓からはもう声が聞こえなかった。
窓は相変わらず全開だったけど、2階だから泥棒に入られる心配もないだ
ろうし、引越し作業が一段落して部屋の主は出かけていったんだろうと勝
手にそう思っていた。
でも近くで声がするとしたら、向かい側の窓しかない。
そして、気がついた。
朝見た時はレースのカーテンしかついていなかったのに、今は厚手の水色
のカーテンが引かれていた。
それにしても妙だ。外はまだ明るいのに、どうして厚手のカーテンを引く
んだろう。しかも、カーテンの奥には電気もついていなかった。
「出る…」
僕は、その一言を耳にしてやっとすべてを悟った。
カーテンの奥ではきっと…セックスが行われている。
この話を誰かに打ち明けたら、きっと人は僕を鈍感なヤツだと言うに違いない。
僕だってもう中学3年だ。どうやって子供が作られるかくらい知っている。
もしも向かい側の窓から聞こえたのが女の声だったら、僕にもすぐにピン
ときたはずだ。
だけど…僕が聞いた呻き声は二種類の男の声だったんだ。