10.

 夢を見た。
俺は涼しい風の中、タオルケットに包まって眠っている。そして俺のすぐ隣には、カワイイ彼が眠っている。
俺の鼻には無垢な少年の香りが漂っている。
瞼の向こうが明るい。でもまだ意識の半分以上が眠っていて、とても目を開ける元気はない。
最初にガサゴソと動いて起き上がったのは、カワイイ彼の方だった。
彼は小さな声で『おはよう、お兄さん』と言い、まだ目の開かない俺の頬にチュッとキスをしてくれる。
こんな朝がずっと続けばいいな……と、俺は思う。
彼はそっと布団を抜け出し、洋服を着始めたようだ。それはなんとなく、気配で分かる。
そろそろ起きなきゃならない。じゃないと、仕事に遅れる。
時計なんか見なくても起床の時間はすでに頭が覚えていて、『起きなきゃやばいぞ!』と脳が危険信号を体に送っている。
あぁ……でも、目が開かない。どうしてだろう。昨夜夜更かしをした記憶なんかないのに……
脳は『起きろ!』と叫んでいるし、体は『まだ眠っていたい』と叫んでる。
あと5分。そうだ、あと5分たったら起き上がろう。瞼の向こうは相当明るい。でもあと5分だけ眠っていよう。

 またまた夢を見た。
少年が玄関で靴を履こうとしている。彼は靴紐を結ぶのに少し手こずっているようだ。
あぁ……靴を履くという事は、彼はもう帰るつもりなんだ。
淋しい……すごく淋しいよ。あと5分。俺が起き上がるまでのあと5分でいいからここにいてくれ。お願いだ……
『お兄さん、僕帰るね』
少年の透き通るような声が、すぐ側で聞こえた。やけにリアルにすぐ側で聞こえた。
やっぱり帰っちゃうのか。もう少しだけ側にいてほしいのに……

『お兄さん、いつも僕の事見てたよね』
『これからは……僕がお兄さんの右手になってあげるよ』
『誕生日プレゼントを用意して待ってるから、今日は家に泊まりに来て。プレゼントはここじゃ渡せそうにないから』
『じゃあね、お兄さん。また一緒にお風呂に入ろうね』
『それから……僕の名前はトモノリっていうんだよ。これからは、トモって呼んでね』

 バタンとドアの閉まる音がした。すると……布団の下の床が大きく揺れた。
ギシギシと音をたてながら、足音が遠ざかっていく。すると、床の揺れも徐々に徐々に小さくなっていった。
錆びついた階段を下りるカンカンカン、という音が……はっきりと耳に聞こえてくる。
俺はその瞬間、パッと目が開いた。
カーテンの向こうが明るい。部屋の景色は全体的にカーテンと同じ緑色だ。
布団の上に上半身を起こして部屋の隅に追いやられたちゃぶ台の上を見つめると……そこには、大きなケーキの箱が乗っかっていた。
クンクンと鼻を鳴らして空気の匂いをかぐと、とっても懐かしい香りがした。
その時、俺はさっきまで見ていた夢を思い出した。俺は寝起きで、まだ頭がぼんやりしていた。

 まず頬へのキス。それから、洋服を着る気配。そして、靴を履く気配。
……待てよ。あれは本当に夢だったのか?
俺はもう一度ちゃぶ台の上に目をやった。するとそこには、間違いなく空になったケーキの箱が乗っかっていた。
そしてクンクンと鼻を鳴らして空気の匂いをかいだ。すると……とっても愛しい少年の香りがした。
俺は頭の形に凹んだソバガラの枕を見つめ、それからその横に並ぶ水玉模様のクッションを両手で抱えた。
柔らかいクッションに顔を埋めてクンクンと匂いをかぐと、やはり少年の香りがした。
待て。待てよ。
昨夜彼はここへ来た。ケーキを持ってここへ来たんだ。それは夢じゃない。現実だ。少年の香りも、ケーキの箱も、ちゃんとここにある。
少しずつ少しずつ頭が冴えてきた。
彼は俺に何を言ったんだっけ。たしか、二言三言何か言っていたはずだ。
『思い出せ! 早く思い出せ!』俺の脳は必死にそう叫んでいた。俺は彼の香りがするクッションに顔を埋めながら夢のような現実の中で彼が言った言葉をなんとか思い出そうとしていた。

『いつも僕の事見てたよね』
『僕がお兄さんの右手になってあげるよ』
『今日は家に泊まりに来て』
『これからは、トモって呼んでね』

 断片的に、少しずつ彼の声が脳に響いた。心臓がドキドキして、耳が熱くなる。脳が目を覚ますにつれて、どんどんいろいろな事が思い出される。
あれは夢じゃなかったんだ。
彼は……いつも俺が自分を見つめていた事に気付いていた。
最初に彼と言葉を交わした日、俺は彼の家の立派すぎる風呂を借りた。
俺がシャワーを浴びていた時……彼は何をしていた?
きっと……俺が脱いだジーパンのポケットの中にある免許証を見つめ、俺の名前を知り、誕生日と住所を控えていた。
バースデーケーキは? あれはいつ注文した物なんだろう。彼は自らケーキ屋へ出向いて『ダイスケくん』と名前を入れてもらうように注文をつけたんだろうか。
ケーキが潰れるのも忘れ、会いたかったと言って俺に抱きついた彼。淋しいと言って目を潤ませた彼。あの時、頬に触れた彼の唇は震えていた。
頬へのキス。そして……唇へのキス。
どうして……どうして今まで何も気付かなかったんだろう。
彼はまた来てねと言って見送った俺が全然遊びに来ない事で傷ついただろうか。 どうして自分の名前すら聞いてくれないのかと悩んだだろうか。時にはその事で泣いたりしただろうか。
彼は今……俺が本当に今日の夜自分の所へ来てくれるかどうか不安を抱えているんじゃないだろうか。
俺がクッションに顔を埋めて考え込んでいたその時、錆びついた階段を下りるカンカンカン、という足音が止んだ。
顔を上げると、部屋の景色はまだカーテンと同じ緑色のままだった。
よく耳を澄ますと、土を蹴るタッタッタッという足音が微かに感じられた。彼はきっと……大地の上に下り立ったのだ。

 俺は急いで立ち上がり、緑色のカーテンを素早く開けた。 そして眩しい朝日に目を細めながら、建て付けの悪い窓をガタガタ鳴らして少しずつ開けた。
だが古すぎるガラス窓は大きさが窓枠と微妙にずれていて、なかなかすんなりとは開いてくれなかった。
頼む。ちゃんと言い訳をさせてくれ。
俺はずっと彼が好きだった。どうしようもなく好きだった。
でも……あんなにカワイイ子が俺みたいに冴えない男を好きになってくれるとは絶対に思わないよ。俺は自分の事をよく知ってる。そんな淡い期待を抱くほど身の程知らずじゃないんだ。
でも俺……本当は、少しは彼の気持ちに気付いていたのかもしれない。 ただ気付かないふりをしていたかっただけなのかもしれない。
だって……だってさ、彼があまりにもカワイイから……どう扱っていいのか分からなかったんだ。
拾ってきたママチャリなら安心して乗れるけど、ピカピカの新しいチャリだともったいなくて乗れないんだ。
俺はいつもそうやって生きてきたんだ。思いを胸に秘めて夢の中で生きるのが精一杯なんだ。俺はそんなちっぽけな男なんだ……
でも、こんな俺でも時には流れ星が願い事を叶えてくれる。彼はその事を……俺に教えてくれた。

 「チクショー」
俺はいくら踏ん張っても開かない窓をとうとう両手で外した。そして薄汚いガラス窓を布団の上に放り投げ、天を仰いだ。
空は青かった。しかも、雲一つない晴天だ。今日も暑くなりそうだ。
俺はパンツ1枚の姿で窓から身を乗り出し、狭い路地に彼の姿を探した。
窓から転落するギリギリの所まで頭を突き出すと、大地の上を軽やかに歩く少年の背中をやっと見つけた。彼は、まだ大声で叫べば声が届く距離にいた。
もう少し行くと、立派な松の木が植えてある誰かの家の庭に差しかかる。彼はきっと……そこから左へ曲がってしまう。
「ト……トモー!」
俺はこれ以上ないぐらいの大声でその名を呼んだ。もしも彼が振り返ってくれたなら……本当に夢が現実に変わる。

 そこからの事は、全部スローモーションに見えた。
彼は太陽の下でピタッと立ち止まり、クルリと振り返って俺にゆっくりと何度も右手を振った。 彼は朝日に透ける茶色の髪を揺らしながら、笑顔で俺に手を振ってくれていた。
「今日も一緒に遊ぼうねー!」
少年はそれだけ叫ぶとまたクルリときびすを返し……それから松の木に向かって走り出してしまった。
彼の名前はトモノリ。
彼の右手は俺のもの。
あの柔らかい唇も、形のいい鼻も、真っ白な肌も、全部俺のもの。
本当に……本当に?
「好きだーっ!」
俺は知らないうちに大声で叫んでいた。だが興奮気味にそう叫んだ時、松の木の向こうに彼の姿が消えた。
それと同時に、隣の部屋の窓がガラッと開いた。そして中から顔を出した角刈りのオッサンが苦々しい顔でギロリと俺を睨み付けた。
スローモーションは……そこで終わりを遂げた。
「てめぇ、朝からうるさいぞコノヤロー!」
怖い。だが……これも現実だ。
俺は頬のこけた角刈りのオッサンにすみません、と頭を下げた。するとオッサンはフン、と鼻を鳴らしてバタンと窓を閉めた。
それにしても、どうして隣の部屋の窓はあんなにスムーズなんだろう。

 俺はパンツ1枚の姿で両の腰に手をあて、夏の空を見上げた。
空は真っ青だった。まるで絵に描いたかのような青空だった。きっと今日も、暑くなる……
ふと視線を落とすと、パンツの中で真っ直ぐに立ち上がっているシンボルと目が合った。そいつもまた、青い空を見上げていた。
『ご苦労さん。一晩よく我慢したな。いつもなら朝のお勤めをしてスッキリさせてやるところだけど、今日はもう少し我慢してくれたまえ』
俺はパンツの上からシンボルを見つめ、そう言って聞かせた。
美しい青空が俺を見下ろしていた。だが腕時計に目をやると、俺の顔まで真っ青になった。
「やばい! 仕事に遅れる」
俺は布団の横にきちんとたたんで置いてあるジーパンを手にとってすぐに足を通した。
彼がこれをたたんでいってくれたと思うと……また少し興奮した。
俺は取り外したガラス窓を適当に窓枠に収め、3分後にはアパートを飛び出していた。
貧乏人に暇はない。もう夢見ていられる時はとっくに過ぎ去った。でも、今日のきつい仕事を終えた後……俺はもう一度夢を見る事ができる。
汗をかきながら走り続け、青い空を見上げると、急に嬉しくなって思わず1人でニヤけた。
今までこれほど仕事に行くのが楽しいと思った事はなかった。
今日はいつもよりがんばって仕事に励もう。そしてクタクタになって彼の所へ行き……思う存分かわいがってもらおう。

終わり