9.

 さぁ困った。このタイミングは非常に難しい。
俺たちはケーキを食べ終わった後からほとんど口も利かず、ただ壁に寄り掛かって並んで座り、冷蔵庫の上に乗っかっているテレビを見ていた。
その夜は特別おもしろいテレビ番組が放送されていたわけではない。
ブラウン管に映し出されるのはさほど興味の持てないドキュメンタリー番組や株式ニュースばかりだった。
チラッと腕時計に目をやると、もうそろそろ日付が変わろうとしているのが分かった。
そろそろ誕生日もおしまいだ。明日も仕事だし……いつもなら眠りに就く時間でもある。
だけど俺は、どうしても『そろそろ寝るぞ』の一言が言い出せずにいた。
あまり深く考えず彼をアパートへ連れて来てしまったが、押入れの中には布団が一組しかない。
それはもちろん、1枚の布団で彼と一緒に寝なければならない事を意味していた。

 なんだか尻が痛い。腰も痛い。体中が痛い。緊張したままでずっと畳の上に座っていたから、筋肉が固まっている。
引き続きすり切れた畳のボサボサした部分を手で引きちぎりながら『寝るぞ』のタイミングを計っていると、彼の頭が突然俺の肩に寄り掛かってきた。
俺は思わず肩に触れた茶色い髪の匂いをかいだ。彼のサラサラな髪は、少年の香りがした。 俺のように汗まみれで働く労働者の匂いではなく、何も知らない子供のような……なんとなく懐かしい香りがした。
どうしてこんな無垢な少年が俺に懐いてきたりするんだろう。
日に当たって色褪せ、破れてしまったふすま。すり切れた畳。何かあればすぐにガタガタと揺れてしまうこの部屋。
こんな部屋に……彼は似合わない。
ドキドキしながらチラッとその小さな顔を覗きこむと、彼は半分目を閉じて今にも眠ってしまいそうな表情をしていた。
「眠いのか?」
「……うん」
彼は小さくそう言って、潤んだ目を両手で擦り始めた。
今しかない。俺はそう思い、とうとう『寝るぞ』と発言する事を決意した。
「じゃあ……寝ようか」
うっ……『寝るぞ』のつもりが、何故か柔らかい言い方になってしまった。
だが彼が小さくあくびをしながらコクリと頷いたので、俺は立ち上がって破れたふすまの戸を開け、その中から湿りがちな布団をヨイショ、と取り出した。
少年は相当眠いと見えて、畳の上で体育座りをしたままトロンとした目で俺がベッドメイク(?)するのを見つめていた。
せんべい布団の上に白いシーツを張り、いつも使っているソバガラの枕と懸賞で当たった水玉模様のクッションをその上に並べて置く。
彼はそれを見た瞬間倒れ込むように布団の上へ寝転がり、そのままの体制でけだるそうにチビティーシャツと綿パンを脱ぎ捨てた。

 俺はまるで幽霊のように枕元に立ち、パンツ1枚の姿になった彼を見下ろしていた。
彼の体はとても綺麗だった。シミもほくろもないし、肌は真っ白で透き通っていて……細くて真っ直ぐな足はとても長い。それは本当に、まるっきり汚れを知らない子供の体だった。
すり切れた畳の上には彼が脱ぎ捨てた洋服がしわくちゃなまま放り出されていた。
唯一彼の肌にまとわり付いているのは、真っ白なトランクスだけ。今俺がそいつを無理矢理剥ぎ取ったら……彼はどんな顔をするだろう。
「お兄さん、寝ないの?」
枕代わりのクッションに頭を乗せて相変わらず目を擦っている彼が、幽霊のようにヌボーと立っている俺を見上げ、少し掠れた声でそう言った。
俺は何気なく真っ黒に日焼けした自分の両手を見つめた。爪の間には塗料が入り込み、ごつくて硬くて、とても汚い手だった。
こんな手で彼に触れてしまったら……彼まで一緒に汚れてしまいそうな気がした。

 俺は部屋の電気を消して真っ暗にしてから、彼の寝ている位置とは1番離れている布団の端に横になった。
それからさっき彼がやったように、寝ながらティーシャツを脱ぎ、その後ジーパンのベルトを外した。 なんだかベルトのカチャカチャという音がとてもいやらしく聞こえる。
俺はその後ジーパンを脱ぎ捨て、足元に置いたタオルケットを蹴って半分は彼に掛けてやり、後の半分は自分の体に掛けた。
部屋の中は真っ暗だったけど、もうこの暗闇はお手の物だ。俺は枕の位置からタオルケットの位置まで、暗闇の中のすべてを把握していた。
でも、今夜はいつもと大きく違っている事がある。 いつもは体を伸ばして大の字で寝ているこの俺が、布団の端で丸くなっている事だ。それはもちろん、数十センチ向こうに彼がいるせいだった。
「お兄さん、ずっと1人暮らしなの?」
俺に自分の居場所を伝えるかのように、彼の透き通る声がそう言った。
完璧に把握しているはずの暗闇での距離感が少し鈍っているようだ。彼は思ったよりずっと近くにいる。彼の甘い吐息を、すぐ側で感じる。
「18の時からずっと1人だよ」
「淋しくない?」
「もう慣れたよ」
暗闇の中に響くのは、透き通るような彼の声と、緊張気味な俺の声。 そして珍しく調子のいいクーラーの作動する音が、辛うじて俺の心臓の音をかき消してくれていた。
「また……遊びに来てもいい?」
そう言われても、俺はすぐに返事ができなかった。
俺は彼の話など上の空だった。パンツの中でシンボルが自己主張を繰り返し、それを抑えるのにひと苦労だった。

 暗闇の中で彼が寝返りを打った。
彼の吐く息が首の辺りに吹きかかる。彼は恐らく……俺の方に向き直ったのだ。
「ねぇ、お兄さん……彼女とかいる?」
「い……いないよ」
「本当に?」
「もうずっと……右手が恋人だよ」
俺の返事に彼がフフッと笑った時、真っ暗な部屋に突然新たな騒音が加わった。

 大変な事になってしまった。隣の部屋のオッサンが……いきなり女とやり始めたんだ。
このアパートは異常に壁が薄い。ちょっと大きな声を出すと全部隣へ筒抜けになってしまう。
「あぁ……ん。いやぁ……ん」
陶酔しきったような女の声が壁の向こうから鮮明に聞こえてくる。
最悪だ……これにはさすがに俺も少年も言葉を失ってしまった。
隣のオヤジめ! どうしてこんな日に限って女を連れ込んだりするんだよ!
「う……ん。あぁ……ん。いやぁ……」
壁の向こうからは悩ましげな女の声が聞こえてくるし、首の辺りには少年の吐息が感じられる。
部屋の中はクーラーが効いてかなり涼しかったのに、額から汗が噴き出した。
あっちからもこっちからも誘惑がいっぱいで、もうどうしようもないほどシンボルがバカでかくなっていた。
「……もう寝ろよ。ちょっと隣が騒がしいけど」
俺は彼に背を向け、無理矢理目を閉じた。とっても眠れそうになかったが、それでも目を閉じた。
「お兄さん、忘れ物」
「あぁ……ん」
クーラーの撒き散らす風に乗って、女の呻き声と彼の透き通る声が俺の耳に届いた。
次の瞬間、あろう事か彼は俺の背中に抱きつくように近づき、その小さな右手で何かを探していた。
「ねぇ、こっち向いて」
「……ん?」
うっ……声が裏返ってしまった。かっこ悪い。イカン。落ち着かねば。俺は大人なんだから、シャンとしなければ。
俺は恐る恐る彼の方へ顔と体を向けた。 すると彼の手が俺の鼻に触れた。そして彼は暗闇の中で俺の頬の位置をつかみ、その辺りにチュッとキスをしてくれた。
「おやすみなさい、お兄さん」
「……ああ……おやすみ」
俺も、恐らく彼も、その後すぐに仰向けになって目を閉じた。
だが隣の女の声は更にヒートアップし、そのうちふすまがガタガタと揺れた。
「いやぁ……ん」
まったく……今日はなんという夜なんだ!
俺は頭を掻きむしりながら寝返りを打って少年に背を向けた。
そしてそっと右手をパンツの中へ入れてみた。その後すぐに取り出した手は……明らかに濡れていた。
「あぁ……ん!」
隣の女はその頃、クライマックスを迎えていた。
俺は目を閉じてはいたが眠れるわけなどなく、それどころか頭と体はギンギンに冴えていた。
やりてぇ……朝まで我慢できるかどうか分かんねぇ……
でも、ここでモゾモゾやったら絶対彼にバレるし、トイレでやるにはドアの壁が薄すぎるし、すぐ隣で寝ている彼には到底手出しできないし、もう本当に……どうしようもなく最悪だ。

 やりてぇ……やりてぇ……やりてぇ……
羊を数えるかのように心の中でそう連呼していると、そのうち隣の女の声が止み、背中の後ろからはスースーと寝息が聞こえてきた。
クソ……みんな好き勝手やりやがって! どうして俺だけがこんな思いをしなくちゃならないんだよ。

 悶々とした夜は、永遠に続くかと思うほど長かった。
俺はその夜、恐らく寝返りの回数で世界チャンピオンになった。きっと1分あれば3回ぐらいは寝返りを打っていたと思う。
真っ暗な部屋の中にはクーラーの作動する音と、少年の寝息と、俺のため息だけ。この部屋にはそれ以外に何もなかった。
俺がやっとウトウトし始めたのは、カーテンの向こうが明るくなりかけた頃の事だった。
朝が近くなって活動し始めた鳥の声を聞くと、やっと少しずつ意識が遠のいていった……
その頃外から淡い光が差してきて、部屋の景色は薄っすらとカーテンの緑色に染まっていた。