38.

 チビに言われた通り、仕事が終わると急いでアパートへ帰った。
その途中にコンビニへ寄って、少しだけ買い物をした。
スポーツドリンクと、ハウスみかん。それは僕が風邪をひいた時に、いつも母さんが用意してくれたものだった。
一段抜かしで階段を上り、弾む息を整えながら玄関のドアを開く。それからすぐに、部屋へ駆け込んだ。
「ただいま!」
チビはベッドで丸くなっていた。顔は真っ青で、エアコンを点けているのに汗だくだ。
細い肩を揺さぶると、彼が口の中で何かを言った。でもそれは、ほとんど声になっていなかった。
「どうした? 大丈夫か?」
「さ……むい」
口許に耳を寄せてみると、ようやくその訴えを理解した。
即座にエアコンを停止させ、ふとテーブルの上に目を向ける。
そこには茶碗に盛られたお粥があった。それは出かける前に僕が置いていったものだ。 ちゃんと食べるように言っておいたのに、口を付けた形跡はまったくない。
エアコンの影響がすぐに消えるはずもなく、部屋の中は冷え切っていた。 真夏の間はこの状態が気持ちよかったのに、今は少し肌寒く感じる。
「チビ、ちょっと待ってろよ」
ベッドの横に腰掛けて、ハウスみかんを手に取った。少しでもいいから、彼に何か食べさせてやらなくてはいけない。
急いでみかんの皮をむくと、甘酸っぱい香りを鼻に感じた。
「ほら、口開けて」
チビの目は、どこか遠くを見つめていた。
小さな口がわずかに開いた時、半ば強引にみかんを一粒押し込んでやった。
「ゆっくり味わって食べてごらん」
しかし彼の口はまったく動こうとしなかった。まるで食べる事を拒否しているかのようだ。
僕は右手で彼の背中をさすった。少しでも早く体を温めてやりたいと思ったからだ。
するとゲホッと小さく咳が出て、チビの口からみかんの粒が吐き出された。
朝はよく晴れていたのに、午後には太陽が影を潜めていた。僕は日の当たらないこの部屋で、必死に彼の看病を続けていた。

 冷たいタオルを額に当てても、それはすぐに温くなってしまう。
病状はどんどん悪化していくようだった。朝は微熱がある程度だったのに、今は額も頬も異常に熱い。
僕はキッチンとベッドを何度も往復して、こまめにタオルを代えてやった。
チビはとても苦しそうだった。時々変な咳をするし、汗はちっとも止まらない。
そんな彼を見つめていると、できれば僕が代わってやりたいと思った。 健康体の自分が、まるで罪人のように思える。楽しい時もつらい時も、彼と同じでいたいのに。


 夕闇が迫ってきた時、僕はある決断をした。このまま夜を明かすのが、不安で不安でたまらなかったからだ。
「チビ、病院へ行こう。今タクシーを呼ぶから」
シャツのポケットから携帯電話を取り出し、電話帳を開いてタクシー会社の番号を探す。
うろ覚えだけれど、たしか駅の裏に内科と外科の病院があったはずだ。
ちょっとした風邪なら、注射と薬で治るだろう。もしも重い病気なら、通院を余儀なくされるかもしれない。 そうなったら、いったい医療費はどのぐらいかかるのか……
こんな時にお金の事を考えなければならないなんて、自分は甲斐性のない男だと思った。
いろんな思いが頭を渦巻いて、ますます不安が増大する。
チビが病気になるなんて、今まで考えた事もなかった。彼は常に笑顔を振りまいて、僕を癒してくれるものと思い込んでいた。
チビの笑顔を取り戻さなければ、きっと明日はやってこない。
そんな気がして唇を噛むと、やっと目当ての番号を探し出す事ができた。だけど僕は、結局どこにも電話をせずに終わった。

「病院へ行ってもムダだよ。だってボクは、猫だから」

 背中にその言葉を浴びて、携帯電話が手の中から滑り落ちた。 それは大きな音をたてて床を飛び跳ね、最後はテーブルの足にぶつかった。
シーンと静まり返った部屋に、苦い言葉の余韻が漂う。ちゃんと目は開いているはずなのに、一瞬何も見えなくなった。
その一言で、すべてが変わってしまった。チビの言葉は、僕の心を引き裂いたのだ。
最初に会った時から、彼が猫だという事は分かっていた。でも本人の口からそれを聞いたのは、今日が初めてだった。
僕はチビが猫だという事を、ずっと認めたくないと思っていた。 だから彼に確かめる事もしなかったし、自らそれを口にする事もなかった。
なのにこんな形で、いきなり現実を突きつけられてしまった。この時僕は、1番聞きたくない言葉を聞いてしまったのだ。


 振り返ると、どうしようもない現実がそこにあった。
体を動かすのもつらいはずなのに、チビは両手を伸ばして僕の温もりを求めた。
「お願い、こっちへきて。淋しいよ」
今日はきっと、1人で過ごす時間がとても長く感じた事だろう。
僕は少しのお金のために、チビを1人にした。彼が何を言おうと、ずっとそばにいてあげればよかった。
心が真っ二つに割れたまま、ゆっくりと布団へ潜り込む。
2人を照らす太陽は、雲の陰に隠れていた。チビをぎゅっと抱きしめると、二色の髪が首筋に触れる。
結局僕は何もしてあげられない。こうして抱きしめるのが精一杯だ。
彼はすっかりやつれていた。それでもわずかに微笑むと、青白い頬にくっきりとエクボが浮かんだ。
両手で抱く細い体は、火傷しそうなほど熱い。呼吸も安定しないし、目の光も弱々しくて、なんだかとても頼りない。
僕は右手の指でチビの顔をなぞった。2つの目と、小さな鼻と、かさつく唇。そしてエクボ。
指先に伝わるのは、間違いなく人肌の感触だ。それなのに、僕と彼では何が違うというのだろう。
チビはどうして猫なのか。猫でありながら、何故こんな姿で僕の前に現れたのか。
分からない。僕には何も分からない……
「少しボクの話をしてもいい?」
淡い茶色の目が真っ直ぐに僕を見つめた。でも今は、それを直視する事ができなかった。
体に負担がかかるから、今はあまり喋らない方がいい。それに僕は、何も知りたくない。
だけどもう1人の自分が、必死に心に訴えかける。彼の話を聞くべきだ……と。