37.

 翌朝目覚めた時、チビの体が熱い事に気付いた。その顔は少し赤くて、明らかに熱がある様子だった。
カーテンを開けて部屋に日差しを入れ、冷たいタオルを彼の額に乗せる。
それから僕は、急いでお粥を作り始めた。今日は適当な口実を作って、仕事を休もうと思っていた。
「トシくん?」
しばらくすると、弱々しい声で名前を呼ばれた。でもその時は調理に夢中で、振り返る事ができなかった。
「お前、昨日から具合が悪かったのか?」
片手鍋を振りながら、そっと聞いてみた。だけど返事は返ってこない。
チビは最近疲れているようだった。いつも寝てばかりいるし、セックスをねだるような事もない。
もしかすると、慣れない家事が思った以上に彼の負担になっていたのかもしれない。
そう思うと、少し胸が痛くなった。

 「起きれるか?」
両手で背中を支えてやると、彼はなんとか体を起こす事ができた。
裸でいるのはまずいから、とりあえず上だけパジャマを着せてやる。
「寒くない?」
体を震わせているくせに、チビは黙って首を振った。目は虚ろだし、呼吸も少し乱れているようだった。
「裸でいるから風邪をひいたんだよ。今日は1日暖かくして寝てような」
パジャマのボタンを留めた後は、すぐに栄養補給だ。
スプーンに乗せたお粥に息を吹きかけ、少し冷ましてから口許へ運んでやった。 しかしチビは二口ぐらい食べたところで、もういらないと言いたげに首を振った。
額をそっと合わせると、彼の体温が肌に伝わる。それほど高熱ではない事が分かり、僕は少しほっとした。
「今日は仕事を休んでずっとそばにいてあげるよ」
二色の髪を撫でてやり、安心させるために微笑んだ。でも彼は、一切笑顔を見せなかった。
「ボク、1人で平気だよ。だからトシくんは仕事に行って」
「行かないよ。お前の事が心配なんだ」
「大丈夫だから、行って。その代わり、仕事が終わったらすぐに帰ってきてね」
「でも……」
「本当に平気だから、心配しないで」
チビは有無を言わせぬ口調で何度も「行け」と言った。
それでもしばらく食い下がったけれど、彼は仕事を休む事を絶対に許してくれなかった。

 僕は複雑な心境でアパートを出た。チビの見送りは、もちろんない。
外から窓を見上げると、なんとなく悲しい気持ちになった。
チビは最初の頃、僕の背中に抱きついて仕事へ行くのを止めようとした。なのに今日は、逆に背中を押された。
それはきっと、彼が成長した証しだった。
仕事を1日休めばそれだけ給料が減る。そうしたら、ただでさえギリギリの暮らしがもっともっと圧迫される事になる。 チビはそういう事を知っていて、何度も僕に「行け」と言ったのだ。
「行かないで」と言われると困るし、「行け」と言われると悲しい。
そんな僕は、やっぱりすごくわがままなのだろう。


 仕事中は、ずっと落ち着かなかった。何をしていても上の空で、その日は久しぶりにグラスを割ってしまった。
ガシャンと大きく音がして、割れたガラスが床の上に散乱する。 グラスに残っていた氷は、派手に飛び跳ねて壁の近くまで転がっていった。
「あぁ……最低」
床の上にできた水たまりを、しばらくぼんやりと眺めた。 すぐに片付けなくてはいけないのに、どうしても素早く動く事ができなかったのだ。
そうしているうちに、店長が慌ててやってきた。さすがに彼は機敏で、すでに掃除用具を手にしていた。
ずっと突っ立っているわけにもいかないので、とりあえずしゃがんでガラスの破片を拾い始めた。
僕は怒られる事を覚悟したけれど、頭の上には意外な言葉が降り注がれた。
「お前、今日はおかしいぞ。何かあったのか?」
多分僕は、誰の目から見てもおかしかったのだろう。その言葉を聞いた時は、そう思わざるを得なかった。
「猫の体調が思わしくないんです。だからちょっと心配で……」
指先に軽い衝撃を感じて、その返事は立ち消えになった。 ガラスの破片が人さし指に突き刺さり、そこにじわっと赤い血が滲んだ。
「もういいから、ここは俺に任せろ。事務室の棚に薬箱があるから、すぐに傷の手当てをしろよ」
「すみません……」
指先を舐めると、口の中に血の味が広がる。思わず顔をしかめながら、僕はゆっくりと立ち上がった。

 店長はほうきを使ってガラスの破片を隅に寄せ、雑巾で濡れた床を拭き始めた。
その手が動くたびに、紺色のネクタイが揺れていた。せっせと働く彼を見下ろすと、二宮の言葉が自然と頭に浮かんできた。
「人間の姿をした猫は、淋しい人の前に現れる妖精みたいなものだ」
店長は独身だ。それでいて恋人がいる様子もないし、趣味を楽しんでいる気配もない。
そんな彼は、チビが猫だと気付いていた。だったら、もしかして……
「何をボサッとしてるんだ?」
動き出せずにいる僕を、彼が訝しげに見上げた。
「店長も、淋しいんですか?」
そう尋ねると、今度はきつく睨まれてしまった。彼はすぐに下を向き、吐き捨てるようにこう言った。
「バカヤロー。早く行け」