16.

 空には大勢の星が輝いていた。月は僕の頭上に存在していた。
道路の雪は融けてしまったけど、夜になって外の気温が下がると水に変わった雪が凍って路面がツルツルになっていた。
外灯の下を通る時に吐き出した白い息は、たばこの煙のように弱い風に揺られてどこかへ消えていった。
僕が歩くと、時々地面がガリッと音をたてた。それは僕の踏み潰した氷が砕け散る音だった。
今朝髪を切りに行ったせいか、首筋や頭のてっぺんがいつもより涼しく感じた。
今日で長かった冬休みも終わりだ。明日からはとうとう新学期が始まる。
僕と誠はついさっきまで武志と一緒にいた。宿題をやり終えた僕たちは武志に会ってノートを貸してあげたんだ。
武志はあまり元気がなかった。身内に不幸があったのだから、それもそのはずだった。 でも3人で話しているうちに彼は少しずつ元気を取り戻していったようだ。
僕たち3人は午後8時まで喫茶店で語り合い、その後あっさりと解散していた。
誠は時々テーブルの下で僕の手を握った。武志がトイレに立った時、彼は人目を忍んで短いキスをしてくれた。
その時の事を思い出すと、外の気温も忘れて胸が熱くなった。

 今、僕の左手にはテニスコートを囲むフェンスが長く続いている。このフェンスが途切れたら、すぐに僕の家が見えてくる。
そっとフェンスに触れてみたいけど、冷たそうだからやめておこう。
何故だか辺りがとても静かだ。遠くに見えるどこかの家の門灯はやけに淋しげだった。
僕は歩く速度を早めて先を急いだ。家へ帰ったら誠に電話して2人きりで話をしたいと思っていた。
やがて我が家が見えてくると、僕はすごくほっとした。それは家の窓に明かりが灯っていたからだった。
僕がインターフォンを鳴らすと、内側から母さんが玄関のドアを開けてくれる。 僕にはそれが分かっていたから、ポケットの中の鍵をまさぐる事はしなかった。
僕にはもう不安も苦しみもない。孤独を感じていた頃の自分とはとっくにサヨナラした。今の僕はきっと誰の目からも幸せそうに見えるだろう。
僕は鼻歌を歌いながら早足で我が家へ辿り着いた。
早く家に入って体を温めたい。なのに僕は家の前へ着いた途端、足に根が生えたかのように一歩も動けなくなってしまった。
とても信じられない思いがした。見つめる視線の先には、たしかに竜二がいた。

 「よぉ」
2メートル前に立つ竜二は、震える声でそう言った。その声を聞くと、不覚にも心臓がドキドキした。
切れ長の目と、人懐っこい笑顔。僕が死ぬほど求めたそれは、すぐ目の前に存在していた。
彼はいつから僕の家の前にいたんだろう。それははっきり分からなかったけど、竜二が長い時間寒空の下にいた事はたしかだった。 その証拠に、彼の頬は真っ赤だった。そして2つの耳も同じように赤かった。
僕の心臓はドキドキしたままだった。
竜二はいつも僕を苦しめてばかりいる。こんな時になって僕の所へやってくるなんて…これは、僕に対する2度目の裏切りだ。
「今、ちょっと話せるか?」
竜二が人懐っこい笑顔を見せたのはほんの一瞬だけだった。
彼が顔を引きつらせてそう言った時、僕はどうしてもそれを拒む事ができなかった。
見上げた空には大勢の星が輝いていた。月は僕たち2人を優しい光で照らしていた。

 僕たちはテニスコートを囲むフェンスを乗り越え、凍りついた芝生を踏みしめてコートのそばのベンチに腰掛けた。
フェンスは予想通り冷たかった。そしてベンチは予想以上に冷たかった。
僕は竜二と2人で家へ入る事はしなかった。それは彼が外で話したがっている事を悟ったからだ。僕は今でも竜二の考えている事なら大体想像がついた。
冷たいベンチに腰掛けると、2人同時に真っ直ぐ前を見つめた。
テニスコートの上にはジュースの空き缶が転がっていた。妙にゆるんだネットは風に揺れていた。 フェンスの向こうには、明るい外灯の光が見えた。
「久しぶりだな。元気だったか?」
僕は竜二の吐く真っ白な息の行く先を目で追いかけた。彼の息はあっという間に冷たい空気に融けてしまった。
「家へ来るなら電話してくれればよかったのに」
僕はわざと半分笑いながらそんな言葉を口にした。でも横目で見る彼はちっとも笑ってはいなかった。
その後僕は彼が口を開くまで待つ事にした。 僕にはちゃんと分かっていた。竜二は今、何か大事な事を僕に打ち明けようとしている。

 僕たちはしばらく無言のままでそこにいた。その間にフェンスの向こうを4〜5人の人たちが通り過ぎて行った。
やがて僕の体は冷え切ってしまい、感覚が麻痺して外の寒さをまったく感じなくなった。
ある時、空に浮かぶ雲が大きく動いて頭上の月を覆い隠した。竜二がゆっくりと口を開いたのはちょうどその時だった。
「俺、女と別れたんだ」
その声は僕の心にグサリと突き刺さった。呼吸が苦しくなり、頭に血が逆流していくのが分かった。
「…どうして?」
僕は喉を押さえながらなんとかその言葉を彼にぶつけた。でも呼吸が苦しくてそれ以上言葉を続ける事はできなかった。
「あいつが別の男と一緒にいるのを見たんだ。その事を問い詰めたら…他に好きな人ができたから別れようって言われたんだ」
嘘だ。だって、竜二と彼女はいつも一緒にいたはずだ。2人はすごく仲良しだったはずだ。 その2人がそんなに簡単に別れてしまうはずなんかない。
「ごめん。こんな時ばかりお前に頼るなんて…俺、すごくずるいよな」
「…」
「本当はもっと早く話を聞いてもらいたかったんだ。でも俺、ずっと友達を顧みなかったから…なかなかお前に会いに来る勇気が出なかったんだ」
渇いた喉に冷たい空気が入り込むと、ますます呼吸が苦しくなった。
あまりにも苦しくて思わず俯くと、竜二の手に涙が零れ落ちるのが見えた。 再び顔を出した月の光は、彼の手に落ちた大粒の涙を宝石のようにキラリと輝かせた。
僕は心臓をえぐられる思いがした。心が痛くて胸を押さえても、その痛みが緩和される事はなかった。
すっかり感覚のなくなった僕の頬を涙が流れ落ち、その雫が冷え切った手の甲に次々と降り注がれた。
竜二の悲しみは僕の悲しみだった。
僕はこの痛みを知っている。これは前にも味わった事がある痛みだ。 これは、仲むつまじい竜二と彼女の姿を見てしまった時の痛みとまったく同じだ。

 『あまり無理するなよ。初音が我慢してるのを見るとすごくつらいんだよ』
僕の耳に、誠の声が響いた。
あの時僕は誠の胸で泣いた。誠がそばにいてくれたから、心の傷を癒す事ができた。
今になってようやく分かった。
あの時、誠もすごく苦しかったんだ。僕が泣いている時、本当は彼の心も涙を流していたんだ。
それが分かった時、今まで以上に彼を愛しく感じた。
そして僕は考えた。もしも今誠がここにいたら、いったいどうするだろうか…と。
その答えは明白だった。誠は竜二の悲しみが癒えるまでずっと彼のそばにいるだろう。人の痛みが分かる彼は、きっと間違いなくそうするだろう。
今の僕には誠の考える事が手に取るように分かった。僕たちは、離れた所にいてもいつだってちゃんと分かり合えた。
だから僕は僕のやり方で竜二の傷を癒してあげたいと思う。彼を抱き締めてあげる事はできないけど、一緒に泣いてあげる事はできそうだから。

 僕は彼の隣で泣きながら、いろんな事を考えた。
入学式の最中に、竜二が話しかけてくれた時の事。
緑のトンネルの下を、彼と2人で歩いた時の事。
夏休みに一緒にプールへ行った時の事。
彼に誘われて苦手なボーリングをしに行った時の事。
不思議な事に、今思い出すのは楽しい事ばかりだった。 竜二を求めていた頃はただただ苦しかったのに、つらい思い出はとっくにどこかへ吹き飛んでいた。
こっそり母さんのスカートをはいてみた時の記憶さえ、今の僕には甘酸っぱい思い出だった。
冬のテニスコートで涙を流す今も、きっとそのうちいい思い出に変わる。
今の僕には、ちゃんとそういう事が分かる。
隣で鼻をすする竜二の姿はとても痛々しかった。両手で顔を覆う彼が、すごくいじらしく感じた。
かっこよく伸びた彼の髪に触れると、竜二が力なく両手を下げた。 彼は溢れ出す涙を隠そうともせず、子供のような目で僕をじっと見つめた。
「竜二には、僕がいるよ。僕だけじゃなくて、誠も武志もいるよ。明日になれば、皆に会えるよ」
竜二は黒いコートの袖で大粒の涙を拭った。そして僕も冷たい両手で涙を拭った。
僕たちは、2人一緒に悲しみとサヨナラした。彼の切れ長の目は、うさぎのように赤くなっていた。


 竜二の気持ちが落ち着くまで、僕はずっと彼のそばにいた。そして僕にそんな事ができたのは、誠のおかげだと思っていた。
竜二はちゃんと分かっていただろうか。本当に彼を慰めたのは誠だという事を、彼はちゃんと理解していただろうか。
体が芯まで冷え切った頃、僕たちは再びフェンスを乗り越えて凍った道路へ出た。
地面を踏みつけると、路上の氷の砕ける音が辺りに大きく響いた。
明るい外灯の下で彼を見上げた時、悲しみを乗せた冬の風が彼の長い髪を突然大きく乱した。
「初音は、優しいな」
竜二は両手で髪型をサッと整えた後、僕に小さくそう言った。彼の吐く白い息は、あっという間に風に吹かれて消えていった。
彼は長い前髪で真っ赤な目を覆い隠そうとしていた。でも僕は前髪の隙間にある彼の目をちゃんと見ていた。
「俺、初音が女だったらきっとお前の事好きになってるよ」
冗談とも本気ともつかない彼の言葉。僕はその言葉に冗談とも本気ともつかない返事をした。
「じゃあ僕、今度は女に生まれてくる事にするよ」
「…」
「その時僕は、絶対竜二を見つけるからね。きっと君を探してみせるからね」
前髪の隙間に見える彼の目が、やっといつものように微笑んだ。彼はやっと僕が好きだった人懐っこい笑顔を見せてくれた。
「じゃあ、明日学校で会おう」
竜二の言葉に僕が頷くと、彼はコートのポケットに両手を突っ込んで僕に背を向けた。
彼が凍った大地を踏みしめると、氷の砕け散る音が僕の耳に心地よく響いた。
竜二は二度と振り向かなかった。僕は少し丸まった彼の背中をただ黙って見送っていた。
この時、彼との恋は本当に終わってしまった。そして彼との新しい恋は今始まったばかりなのかもしれない。
でも僕たちがいつか結ばれるとしたら、それはずっとずっと遠い未来の出来事に違いない。

終わり