卒業

 1.

 早咲きの桜が満開の3月。今日、僕の通う中学校で卒業式が行われた。 といっても僕はまだ2年生だから卒業生を送り出す方の役目だった。
僕はこの日が来る事をずっとずっと恐れていた。それは、この日が過ぎたらもう学校で田中先輩と会えなくなってしまうからだ。

 卒業式は学校の体育館で行われた。体育館の外には強い風の音が響いていた。
卒業生である田中先輩は、もちろんステージの上で校長先生から卒業証書を受け取る。
僕は体育館の片隅で椅子に座り、その様子を瞬きもせずに見つめていた。
その時彼はすごく堂々としていた。
背筋をピンと伸ばして長い足をスッと前へ出し、先輩は一歩一歩静かに階段を上ってステージの上へ現れた。 その途中 彼は一瞬だけ自分の足元へ視線を送った。
校長先生に一礼し、真っ直ぐに両手を伸ばして卒業証書を受け取る仕草はとても立派に見えた。
灰色のブレザーと、紺色のズボン。そして白いワイシャツの胸元には水色のネクタイ。
僕と先輩が同じ制服を着るのは今日で最後なんだ……
卒業証書を受け取ってステージを下りる細身な彼のシルエットを見た時、その思いが胸に広がって薄っすらと目に涙が浮かんだ。

 卒業式が終わった後一旦教室へ戻り、僕のクラスはそれからすぐに解散となった。
その後僕は一目散に廊下へ飛び出し、3年生の教室がある1つ上の階へ行くために白い階段を駆け上がった。 それはもちろんもう一度田中先輩の姿を見るためだった。
その時1つ上の階の廊下は混雑していた。 3年生のクラスもほとんどが解散したようで、廊下には卒業生とその父兄が溢れていた。
僕はザワめく廊下をゆっくりと歩き、田中先輩のクラスである3年C組の教室へと近づいた。
その途中、何度も卒業生とぶつかった。 着物姿で卒業式にやってきた誰かの母親の帯がブレザーのボタンに引っかかって慌てる一幕もあった。
やがて僕は廊下に溢れる人ごみの向こうにずっと好きだった人の姿を見つけた。
先輩はその時教室の前でたくさんの女子生徒たちに囲まれていた。 僕は相当急いで先輩のところへやってきたつもりだったのに、もっと早く彼の元へ駆けつけた人が大勢いたようだった。

 彼は女子生徒たちからいっぱいプレゼントを受け取ったようで、花束や紙袋などを両手にたくさん抱えていた。
先輩との別れを惜しむ女の子たちは彼を囲んでシクシクと泣いていた。 僕はその人たちの輪には入れず、廊下の隅でその様子を眺める事しかできなかった。
先輩は泣きじゃくる女の子たちを見つめて困った顔をしていた。 伏し目がちな切れ長の目には戸惑いの表情が見え、少し癖のあるフワフワな髪が彼の真っ白な頬をくすぐっていた。
先輩は何度か頭を振って頬をくすぐる髪を払い除けようとしていた。 その時彼の両手は塞がっていたから、思うように髪をかき上げる仕草ができないようだった。
廊下の窓から差し込む春の日差しが、一瞬先輩の胸元を明るく照らした。この時まだ彼のネクタイは健在だった。
男子と女子の制服はズボンかスカートかの違いだけで、胸に結ぶ水色のネクタイは男女共通のものだった。
僕らの通う中学校では、卒業する時に自分のネクタイを好きな人に渡すのが恒例になっていた。 もしもネクタイを渡した相手から同じようにその人のネクタイをもらえたら、その2人は両思いという事になるのだった。
結局僕は最後まで先輩に近づく事ができなかった。
本当は先輩に一言ぐらい声をかけたいという思いもあったのに、僕はただ遠巻きに彼の姿を見つめている事しかできずに終わった。


 たった1人で校舎を出ると、頬に春の風を感じた。
校舎の前には友達と一緒に記念写真を撮る卒業生の姿がたくさんあった。
卒業生は全員卒業証書の入った黒い筒を手にしていた。彼らのほとんどはすでに胸元のネクタイを失っていた。

田中先輩は、いったい誰にネクタイを渡すんだろう。

その事を考えながら卒業生たちの横を通り抜けると、僕の目にまたじわっと涙が浮かんだ。
僕はネクタイを失った先輩の胸元を見たくはなかった。だからそうなる前に帰る方が賢明だと思っていた。
校門へ続く道の両側には桜の木が植えられていて、その枝には薄いピンク色の花が並んでいた。
空には太陽が輝いていた。強い風が吹くとその花びらが枝を離れて宙に舞い、時々春の日差しを遮った。
満開だった桜は今日の強い風ですべてが散ってしまいそうな勢いだった。
宙に舞った花びらの幾つかが僕の頬にまとわりついた。校門へ続く道の上は、薄いピンク色のじゅうたんになりつつあった。
僕は今日ピンク色のじゅうたんの上を歩いて帰り、明日はまたこの道を歩いて校舎へ向かう。 でも先輩は今日この道を歩いて帰ったらもう2度とここへは来ないのかもしれない。
そんなふうに思うと、地面に舞い落ちた綺麗なピンク色の花びらがすごく悲しく感じた。

 家へ帰ると、急に僕の目から涙が溢れ出した。
学校からの帰り道ではぐっと涙を堪えていたのに、玄関の鍵を開ける時にはもう頬に感情が溢れ出していた。
ヨロヨロしながら家へ上がってやっと自分の部屋まで辿り着いた時、もうすでに涙を抑える気力は失われていた。 部屋へ入って鞄を投げ出し、ドアに寄り掛かってフローリングの床にへたり込むとあとは泣きじゃくるだけだった。
明日からもう先輩は学校へ来ない。
もう廊下ですれ違う事もないし、先輩が校庭で友達と遊んでいる姿を教室の窓から覗き見る事もできない。
学校帰りにこっそり先輩の後をつけて一緒に彼の家まで行く事ももう絶対にできない。
今日失われた数々の出来事を頭に浮かべると、次から次へと涙が頬へ零れ落ちた。 窓の向こうの光に目を向けても、春の日差しは僕の涙を乾かしてはくれなかった。
涙のフィルターの向こうに窓枠が歪んで見えた。その横にある白い本棚へ目を向けると、やはりそれも歪んで見えた。
僕の視界は大雨の日のガラス越しに見る景色と同じで、どこを見ても何を見てもすべてが歪んでいた。
でも本棚の1番上の段のある1ヶ所を見つめると、その時突然視界がクリアになった。
そのあたりには小学生の時から読み続けている野球マンガの本が並んでいた。
長く続く連載マンガの第12巻。その1冊は僕と先輩の小さな結び付きをいつも僕に思い出させてくれた。


 あれは僕が中学校へ入学して間もない頃の事だった。
よく晴れた日の放課後。僕はあの日、家へ帰る前に近所のスーパーへ立ち寄った。 授業が終わって学校を出た時母さんから僕の携帯に電話が入ってお遣いを頼まれたからだ。
「帰りにスーパーへ寄ってバターを買ってきて。後でお金をあげるから」
耳に当てた携帯から母さんのそんな声が聞こえた時、僕はお遣いなんてちょっと面倒だと思った。 スーパーへ寄ると家まで少し遠回りになるからだ。
でもお遣いをして帰れば母さんはその代金として少し多めにお金をくれる。 それが分かっていたから、僕は母さんの言いつけを守って結局スーパーへ立ち寄った。
僕が向かったのはその頃新しくできたばかりの大型スーパーだった。 その駐車場はやけに広く、3階建ての店舗は学校よりもずっと大きく見えた。
僕は自動ドアから店の中へ入り、まずは食料品売り場へ向かった。スーパーの中はすごく明るくて妙に天井が高かった。
食料品売り場はそれほど混んではいなかった。 僕はあまり人のいない売り場を悠々と歩き、バターとスナック菓子を1つずつ抱えてレジへ向かった。
スナック菓子は余計な買い物だったけど、僕は母さんがちゃんとその代金を自分にくれる事を知っていた。

 面倒なお遣いが済むと、僕はフラフラと明るい通路を歩いて回った。
大型スーパーの中には誘惑がたくさんあった。 食料品売り場を通り過ぎるとゲームコーナーとCDショップが並んでいて、その向かい側には本屋もあった。 僕はついついそちらの方へ足を進め、フラッと本屋へ立ち寄った。
その本屋はわりと広くて、横に立ち並ぶ本棚の前にはポツポツと人の姿があった。
僕は参考書や辞書などが置いてある本棚を素通りし、奥の方にあるマンガの本のコーナーへ行ってみた。 それはずっと読み続けていた野球マンガの新刊がそろそろ出る頃だと思っていたからだ。
その予感が当たった事を知った時、僕はすごく嬉しかった。
お気に入りのマンガの第12巻。 その表紙には顎の尖った主人公の少年の顔が大きく描かれ、平積みになったその本の横には 『最新刊 本日発売』 という手書きのプラカードが立て掛けてあった。
僕はすぐにそのマンガの本を1冊手に取って本屋のレジカウンターへ向かった。 その時は早く家へ帰ってそのマンガを読みたいという思いが先行していた。
本屋の小さなカウンターに目当てのマンガの本を持っていくと、黒いエプロン姿の女の人が素早くレジを打って僕に本の代金を請求した。
「420円です」
僕はそう言われ、ブレザーのポケットの中から青い財布を取り出した。 小さな財布のファスナーを開けると、そこにはコインがぎっしり詰まっていた。
財布の中には百円玉が2枚入っていた。僕はまずその2枚を白いカウンターの上に置いた。 その後は財布の中に散乱する十円玉や五円玉を次々とかき集めてカウンターの上に乗せていった。

 お金が足りない事に気づいたのは、財布の中のコインをほとんど出し尽くした後の事だった。
その時すでに白いカウンターの上にはたくさんのコインがメチャクチャに置かれていて、レジ係の女の人が迷惑そうな顔でその金額を数えていた。
「あと十円です」
彼女にそう言われた時、僕の財布の中には一円玉が7枚残っているだけだった。 僕はもう一度ブレザーのポケットに手を入れてその中にお金が残っていないかどうかをたしかめた。 でもその時ポケットの中は空っぽだった。
カウンターの上に目を向けると、僕が買おうとしていたマンガの本がもう白い紙袋に入れられている事を知った。
目線を上げると、何か言いたげに僕を見つめるレジ係の女の人とバッチリ目が合った。
僕はその人と見つめ合ったままひどく気まずい数秒間を過ごした。この時僕の掌にはジワッと汗が滲んでいた。
「これ、君のじゃない? そこに落ちてたよ」
その時、横から身を乗り出してカウンターの上に1枚の十円玉を置いた人がいた。その人の手は大きくて、白く透き通っていた。
僕はびっくりしてその人の顔を見上げた。彼はいつの間にか僕の横に居て穏やかに微笑んでいた。
その人は十円玉をカウンターの上に置いたその手で少し癖のあるフワフワな髪をそっとかき上げた。 その人の切れ長の目が僕の目にはっきりと映し出された時、突然自分の心臓の動きが激しくなるのを感じた。
彼は僕と同じ制服を着てそこに立っていた。身長の高さや顔つきから、その人が僕より先輩であるという事はすぐに察しがついた。
僕はその時彼に何かを言おうとした。でも自分がいったい何を言うつもりだったのかはまったく覚えていない。
実際に僕と彼が2人で本屋のカウンターの前に佇んでいたのはほんの数秒の間だけだった。 彼はその後すぐに僕に背を向けて本屋を出て行ってしまったのだった。
その時僕は慌てて彼を追いかけようとした。 でも本屋の女の人に呼び止められて買ったばかりのマンガの本とレシートを受け取っているうちに彼の姿を見失ってしまった。

 その頃僕はまだ彼の事をよく知らなかった。
十円玉の彼。
田中先輩の名前を知らなかった僕は、その頃彼を勝手にそんな呼び名で頭に記憶していた。 でも十円玉の彼の正体が分かるまでにそう長い時間はかからなかった。

 それから1週間後の、学校の昼休み。
クラスメイトは僕も含めて全員が弁当を食べ終わり、教室の中はザワついていた。
僕はその時仲のいい友達と数人で教室の隅にかたまってお喋りしていた。
僕ら以外のクラスメイトも友達と話しているか居眠りしているか、だいたいそのどちらかだった。
いつも黒板に向かって整列されている40余りの机はそれぞれ皆が仲のいい人と弁当を食べるためにくっ付け合っていて、食事の後誰もそれを直そうとしないために授業中とは随分違った並び方になっていた。 4月の日差しが窓ガラスを通して教室を照らし、机の上は白く光っていた。
僕の髪が突然涼しい風になびいたのは友達とお喋りを始めてから5〜6分過ぎた時だっただろうか。
反射的に窓の方へ目を向けると、教室の白いカーテンが外の風を受けてフワッと膨らんでいるのが見えた。
カーテンの向こうには3人の髪の長い女子生徒の影があった。 彼女たちは窓の外を見つめて何故だかはしゃいでいるようだった。
「走った! ほら、あそこ」
「がんばって!」
外の風に乗って上ずった女子生徒の声が僕の耳まで届いた。 僕と一緒にお喋りしていた友達は彼女たちの声をまったく気にしていなかったようだけど、 僕はその人たちが何を見て騒いでいるのかほんの少し興味を持った。
仲のいい友達は僕の知らないゲームの話題ですごく盛り上がっていた。 僕は彼らの話に退屈し、ソロソロと窓に近づいてそこから校庭を眺めた。
僕は窓を開けたりはしなかったけど、窓ガラス越しに外の明るい景色を漠然と見つめていた。
輪になってバレーボールをしている生徒や、鉄棒の上に乗っかって友達と話している生徒。 そして、生徒たちの間を走り抜けていく人たち。
広い校庭には昼休みを楽しむ生徒たちが大勢いた。
「やっぱり田中先輩が1番かっこいいよね」
「右に走った!」
「田中先輩がシュートするかも!」
僕はこの時カーテンの内側で叫んでいる女子生徒の実況を聞いていた。 すると彼女たちが校庭にいるどの人を見つめているのかすぐに分かった。
僕はその時彼女たちと一緒に校庭を走り回る男子生徒の姿を目で追った。するとその人が十円玉の彼である事にすぐ気がついた。
少し癖のあるフワフワな髪と、切れ長の目と、白い肌。僕はそのすべてに見覚えがあった。
天気がよかったその日、彼は校庭で友達とサッカーをして遊んでいた。 その時サッカーをしているメンバーは10人ぐらいいるようだった。
田中先輩は長身で、足が長いせいかすごく走るのが早かった。
誰かが彼に長いパスを出すと、土煙を上げてサッカーボールが転がっていく。 すると彼はあっという間にボールに追いついてゴールの前で待つチームメイトに素早くパスを送るのだった。
しばらく彼を見つめていると、女の子たちが騒ぐのが本当によく分かった。
先輩はたしかにかっこよかった。けだるそうにブレザーを脱ぎ捨てる仕草や、ワイシャツのボタンを開ける仕草。 そして胸元のネクタイを緩める仕草が、なんともいえず決まっていた。
「先輩がこっち向いた!」
興奮気味な黄色い声が僕の耳をつんざいた時、僕はドキドキして胸が苦しくなった。
田中先輩は校庭の隅にブレザーを放り投げ、それから僕たちの方を真っ直ぐに見つめた。 そして彼は透き通るような白い右手で少し癖のあるフワフワな髪をかき上げたのだった。
僕はその時、本屋での出来事を鮮明に思い出していた。
白く透き通った手が十円玉をカウンターの上に置き、やがてその手は彼のフワフワな髪をかき上げた。
僕はきっと、あの瞬間から先輩の事が好きになっていた。

 僕にはライバルがいっぱいいた。田中先輩は女子生徒にすごく人気があって、皆がいつも彼に注目していた。
明るい廊下で先輩とすれ違う時、僕の胸はぎゅっと誰かに掴まれたように痛くなった。
先輩はいつも友達に囲まれていた。彼は廊下を歩く時大抵5〜6人の仲間たちと一緒にいた。
胸に痛みを感じながら廊下を歩き、遠目に見える先輩との距離がどんどん縮まってくると僕はすごく緊張した。
先輩の白い肌はいつも太陽に透けていた。彼には明るい光がとてもよく似合っていた。
前から歩いてくる先輩との距離がどんどん近づいてくる。 少し癖のあるフワッとした髪がもう目の前に見えてくる。
彼との距離が更に縮まると、右目の下にある小さなホクロまでがはっきりと僕の目に映し出された。
でも、いつもそこまでだった。 僕は先輩に近づくといつも恥ずかしくて俯いてしまい、彼の顔をまともに見る事ができなくなった。
でも僕はたった一度だけ先輩とすれ違う時に軽く腕がぶつかった事がある。
その日の僕は1日中ハッピーだった。一瞬だけ彼と触れ合った腕には、微かな先輩の温もりがいつまでも残されていた。

 教室の窓から先輩の姿を見る事も、ドキドキしながら彼とすれ違う事も、どちらも僕は大好きだった。 でももっと好きなのは学校帰りに彼の後をつける事だった。
先輩は毎日3人の友達と連れ立って帰っていた。校舎を出る時、彼はいつも仲のいい友達と談笑していた。
でも先輩の友達は間もなく1人ずつ去っていく。 灰色のブレザーを着た4人の男たちは、やがて3人になり2人になり、いずれは先輩1人だけになるのだった。
僕は少し距離を置いて彼らの後方を歩き、先輩が1人になるまで根気よく待ち続けた。
校舎を出て校庭の前を横切り、道を右に曲がったところでまず1人が消える。先輩はその人に手を振って彼に今日の別れを告げる。
それから更に道を左へ曲がり、交差点に差し掛かったところで2人目が消える。 先輩はその人にも手を振って彼に今日の別れを告げる。
そして3人目が消えるのはバス通りにある写真館の前を通り過ぎる時の事だった。 先輩はやっぱり最後の友達にも手を振って、彼に今日の別れを告げるんだ。
これでやっと先輩は1人きりになる。そして僕は彼の姿をいつも最後まで追いかけた。
1人きりになった先輩は騒がしいバス通りを軽やかな足取りで歩いていく。 彼はいつも左の肩に黒いスポーツバッグを掛けていた。そのせいか、後ろから見ると先輩の左肩は少し上がっていた。
やがて先輩はバス通りを離れ、あまり車の通らない細い道へ入っていく。先輩の家は静かなその通りに面しているからだ。


 僕は制服のブレザーの上からたった一度だけ先輩とぶつかった右の腕に触れてみた。
あれはもうずっとずっと前の出来事なのに、そこにはまだ先輩の温もりが残っているような気がした。
僕は涙を拭いて立ち上がり、静かに本棚の前へと移動した。
お気に入りの野球マンガの第12巻。
その本を手に取ると、未だに答えの出ない疑問がいつもすぐ頭に浮かんだ。

先輩、あの十円玉は本当に僕のものだったんですか?
それともあれはあなたの優しさだったんですか?

大切にしまっておいたマンガの本の表紙には顎の尖った主人公が描かれていた。 その少年の顔を穴が開くほど見つめていると、しだいにその主人公の顔が先輩の顔に変わっていった。
少し癖のあるフワフワな髪と、透き通った白い肌。切れ長の目。そして右目の下にある小さなホクロ。
そのすべてが目に浮かぶと、嫌でも心臓がドキドキした。
これ以上泣くまいとしてぐっと体に力を入れると、胸と喉がすごく苦しくなった。
ネクタイを緩めよう……
僕はそう思い、右手をそっと胸元に持っていった。そして水色のネクタイを軽く掴むと、またある疑問が頭に浮かんだ。

僕が卒業する時、このネクタイをいったい誰に渡すんだろう……

すると今度は瞼の奥に先輩の顔が浮かんだ。
僕は田中先輩が好きだ。だからこのネクタイを渡す相手は彼以外に考えられなかった。
そう思った時、僕は今すぐ先輩にこのネクタイを渡したい衝動に駆られた。
先輩は今日中学校を卒業したけど、僕も今日で先輩を卒業したいと思った。 どこかで気持ちの区切りをつけないと、この片思いが一生続くような気がしたからだ。
今日を境に僕はもう今までのように先輩を見つめる事が難しくなる。
もしかして先輩が中学校を卒業する日こそ僕が先輩を卒業するのに相応しい日なのかもしれない。
僕はいつか必ず先輩を卒業しなければならない。それが今日という日なら、僕は今すぐ彼にこのネクタイを渡したい。
先輩はさっき両手に大荷物を抱えていた。彼はきっとあの荷物を下ろすために真っ直ぐ家へ帰るだろう。
今から先輩の家の前で彼を待ちぶせすれば、きっとそう遠くない未来に彼と会う事ができる。 そうすれば僕は大好きな人にこの水色のネクタイを渡す事ができる。
その思いが心全体に広がると、僕は居ても立ってもいられずすぐに家を飛び出した。