2.

 外へ出ると、真っ直ぐな道を急いで駆け出した。埃っぽい地面は春の日差しに照らされていた。
駄菓子屋さんの軒下を通り抜け、鉄筋工場の倉庫の前を横切り、それから銀行の駐車場を斜めに突っ切ると、僕はすぐに細いアスファルトの道へ出た。
するとまず最初に目に付くのが横山さんちの庭の真っ白な花畑だった。 綺麗に整備された花畑の横を駆け抜けると、白い花たちが風に揺れて僕に力強く手を振ってくれた。
先輩の家はもう近い。 僕は今までに何度も彼の後をつけた事があるから、自宅から彼の家へ行く最短距離の道がしっかりと頭に叩き込まれていた。
学校の帰り道、先輩はいつも横山さんちの花畑を覗いて真っ白な花の成長に目を細めていた。
先輩は真っ直ぐ整列した花たちが風に揺られて手を振ると自分もにっこり笑って白い花たちに手を振り返していた。
そうして花畑に別れを告げると、彼は次に西川さんちの前を通る事になる。西川さんちは三角屋根で、壁の色は薄い茶色だった。
そして茶色い家の前には木造りの犬小屋があった。そこをねぐらにしているのは柴犬のミミだ。 木造りの犬小屋にはちゃんと "ミミ" という表札まで掲げられていた。
赤毛のミミは先輩と仲良しだった。彼が通りかかると、ミミはいつもシッポを振ってクーンと甘えた声を出すのだった。
すると先輩は彼女の前にしゃがんでミミの頭をいつもそっと撫でてやった。
ミミの長い舌が先輩の真っ白な手をペロペロ舐めると、彼はいつもミミの頭に顔を近づけた。
僕はミミが先輩とキスしそうになるのを何度も何度も見た。 僕はいつも電信柱の陰から仲のいい2人の様子を見てハラハラしていたんだ。
この時僕が西川さんちの前を駆け抜けると、強い風に乗ってミミの激しく吠える声が背中を追いかけてきた。
柴犬の彼女はどうやら僕の事が嫌いらしい。でもそれはしかたのない事だった。だって、僕とミミは恋敵なのだから。

 ミミに吠えられながら西川さんちの前を駆け抜けると、その隣には表札のない大きな家があった。その家は横に長い平屋で、庭がやけに広かった。
広い庭は僕の肩と同じぐらいの高さの垣根で囲まれ、その向こうには桜の木が5〜6本並んで植えられていた。
2〜3日見ないうちに桜の花は大きく開き、この時は強風に煽られて木の枝がしなっていた。 そして早咲きの桜の花びらは次々と散っていき、そこだけ歩道のアスファルトの上にピンク色のじゅうたんが敷かれていた。
花びらで作られたじゅうたんの上を駆け抜けると、靴の裏にフワフワした感触があった。
僕は今ピンク色のじゅうたんの上を駆け抜けて先輩に会いに行く。そして彼にネクタイを渡した後もう一度この道を引き返す。
僕が今度この道を逆に駆け抜けたら、もう2度とここへは来ない。
先輩は明日もこの道を歩いてどこかへ出かけるだろう。でも僕がここで靴の裏にフワフワしたものを感じるのは今日で最後になるだろう。


 「はぁ……はぁ……」
部屋を飛び出してから最短距離を通って先輩の家の前へ辿り着くと、急に走ったせいか僕はすっかり息切れしていた。
ピンク色のじゅうたんの上を駆け抜けた僕の足元には桜の花びらがたくさんまとわり付いていた。 ズボンの裾を右手で叩くと、小さな花びらが歩道の上に散った。
先輩の家は屋根が赤くて壁は目に優しいアイボリーカラーだった。
その壁をじっと見つめた時、僕は一瞬先輩がもう家の中へ入ってしまったかと思って少し心配になった。 でもふと玄関のドアへ目を向けた時、彼がまだ帰宅していない事を確信した。
銀色に光るドアの取っ手には白いビニール袋が掛けてあり、その中には雑誌のようなものが入っているようだった。 もしも先輩がすでに帰ってきていたら、そのビニール袋は今頃彼の家の中にあるはずだった。
僕は顔に浮かぶ汗を右手でそっと拭き取り、先輩の家の前で彼が帰ってくるのを待つ事にした。

 歩道のアスファルトの上を見知らぬ人たちが次々と通り過ぎていった。その中には僕と同じ制服を着た生徒も時々混じっていた。 黒い筒を持った卒業生が通りかかると、また少しだけ胸が苦しくなった。
先輩の家の向かい側にはレンタルガレージが10個ぐらい並んでいて、そのすべてに灰色のシャッターが下ろされていた。
ある時目の前を黄色のスクーターが走り抜けていき、そのタイヤが道に転がる小さな物を踏み潰した。
その小さくて丸い物が一瞬光を放ち、僕は道路の端の方に落ちていたそれをじっと見つめた。
最初はそれが十円玉かと思って拾おうとした。 でもよく見るとそれはコインではなく、ビールか何かの栓である事に気づいてため息が出た。
そして僕は先輩と初めて会った時の事をまた思い出した。
僕には今でも分からない。あの時彼がレジカウンターの上に置いた十円玉は本当に僕のものだったんだろうか。
それともあの十円玉は先輩の優しさだったんだろうか。

 しばらく先輩の家の前に立っていると、さっきまで吹いていた強い風がしだいに弱まっていった。 そしてもう僕と同じ制服を着た人がそこを通りかかる事はなくなった。すると僕は少しずつ不安になってきた。
卒業式が終わってからもう随分時間がたつ。
もしかして先輩は校舎を出てから真っ直ぐ仲のいい友達とどこかへ出かけてしまったのかもしれない。
今日は僕にとって彼とお別れする悲しい日だけど、先輩にとっては人生の節目となる大事な日だ。
友達をいっぱい持つ彼が仲間とそのお祝いに出かけてしまっても何ら不思議ではなかった。
頭上に輝く太陽はまだ高い位置にあった。左を見ても右を見ても、先輩の影はまったく見当たらなかった。
僕は結局彼にネクタイを渡せないまま夜を迎える事になってしまうんだろうか。でもそんなのは絶対に嫌だった。
僕は今日、絶対に先輩を卒業したいと思っていた。先輩が今日人生の節目を迎えたように、僕も自分の思いに節目をつけたかった。
その気持ちは本心なのに、先輩とサヨナラする事を思うとまた目に涙が浮かんだ。
僕が毎日学校へ行くのが楽しみだったのは、学校へ行けば先輩に会えると思っていたからだった。
1日に何度も彼とすれ違うと、その日は眠りに着くまでずっと元気でいられた。
その逆に学校で何日も彼に会えない日が続くと、なんとなく気持ちが落ち込んだ。
僕はろくに話した事もない彼にずっと振り回されていた。今この時春の日差しの下で涙を浮かべているのも、全部先輩のせいだった。

 彼の事を考え始めるといつもあっという間に時間が過ぎてしまう。
僕は多分すごく長い間先輩の家の前に立っていた。
直立不動で春の風を浴びながら、僕は黙って彼の帰りを待っていた。


 田中先輩の姿がやっと見えたのは、僕の目の前を22台目の車が走り過ぎていった後の事だった。
彼を待つ間は何もする事がなかったから、僕はしかたなく目の前を走っていく車の数を数えていた。 でもこの道は車の通りがすごく少ないから、その数を目で数えるのはとても退屈な作業だった。
22台目の車が目の前を走り過ぎた後先輩の姿が見えたと僕は今言った。でもそれは少し語弊があるかもしれない。
先輩はたしかにその瞬間に僕の視界へ飛び込み、歩道の上を歩いて僕の立ち位置へ向かってきた。
でもその時彼はあまりにもたくさんの荷物を胸に抱えていた。 その荷物は先輩の目のあたりまで高く積み上げられていて、この時彼の顔はほとんど見えなかった。
遠くの方から荷物が歩いてくる。その時僕はそう感じていた。
胸に抱える荷物を必死に支える真っ白な手と、紺色のズボンに包まれた長い足。 僕は見間違えるはずのないその手と足で田中先輩を識別していた。
たくさんの荷物を抱えた先輩は、この日横山さんちの花畑を覗く余裕がなかった。
真っ直ぐ整列した花たちはきっと風に揺られて先輩に手を振っただろう。 でも多くの荷物を抱えた彼はその花に手を振り返す事ができなかった。
そして彼は僕の恋敵であるミミを構ってやる余裕もなかった。
先輩が西川さんちの前を通り過ぎる時、ミミはいつものようにシッポを振ってクーンと甘えた声を出していたはずだ。
でも彼は胸に抱える荷物を支えるのに必死で、恐らくミミに微笑みかける余裕すらなかっただろう。
彼は花畑に目を奪われる事もなく、ミミの頭を撫でる事もなく、歩道の上を真っ直ぐに歩いて僕のそばへやってきた。

 彼が僕の姿に気づいたのは、先輩と僕との距離が5メートルぐらいに縮まった時の事だった。
先輩は胸に抱える荷物の隙間から僕を見つめ、そのまま更に足を前へ進めた。
彼が歩道の上で立ち止まったのは、僕たちの距離が1メートルに縮まった時の事だった。
この時少し癖のある先輩の髪にピンク色の花びらが1枚引っ付いていた。
僕は先輩が抱えている紙袋と赤いバラの花束の隙間に彼の目を見つけ、死ぬほど緊張しながらじっとその目を見つめた。
彼の切れ長の目には少し驚きの表情が伺えた。
でも、それもそのはずだ。誰だって自分の家の前に人が1人ヌボーッと立っていたら多少は驚くに違いなかった。
しかしこの時は僕もかなり驚いていた。チラッと見えた彼の胸元に、まだしっかりと水色のネクタイが存在していたからだ。
その事実をこの目で確認すると、しばらくおとなしかった心臓が急にドキドキし始めた。
まさか先輩がネクタイを結んだまま帰ってくるなんて思ってもみなかった。 彼のネクタイはとっくに誰かの手に渡ってしまったと思っていた。

 紙袋と花束の隙間に見える先輩の目が優しく僕に微笑みかけた。
春の風が、少し癖のあるフワフワな彼の髪を音もなく揺らした。
僕はその時自分の胸元に両手を近づけ、2年間使い続けたネクタイを急いで外した。
僕は先輩と向き合う事に慣れていなかった。 早く用を済ませてここから立ち去らないと、ドキドキする心臓が壊れてしまいそうな気がした。
荷物が多くて身動きの取れない先輩は、僕がネクタイを外している間黙って歩道の上に立っていた。
早くネクタイを外したいのに、気持ちが焦っていつものようにうまく結び目がほどけなかった。
それでも僕はなんとか自分の胸から水色のネクタイを剥ぎ取り、それを素早く先輩のズボンのポケットに無理やり押し込んだ。
すると荷物の隙間に見える彼の目が大きく見開いて更なる驚きを表現した。 その時、僕の横を23台目の車が猛スピードで走り抜けていった。
『サヨナラ、先輩』
僕は心の中でそう叫び、その真っ白な乗用車を追いかけるように風を切って走り出した。 先輩の横を通り抜ける時、僕と彼の腕が微かにぶつかった。

 これで思いは遂げた。これで僕は先輩を卒業した。
さっき来た道を真っ直ぐに引き返すと、垣根の向こうで揺れている満開の桜の木の枝が見えてきた。
僕は再び歩道に敷かれたピンク色のじゅうたんの上を駆け抜け、急いで家へ帰ろうとした。
靴の裏にはさっきと同じようにフワフワした感触があった。弱い風に吹かれて、桜の花びらが次々と枝から舞い降りてきた。
「待って!」
ピンク色のじゅうたんを踏みしめる僕の耳に、先輩の大きな声が響いた。
僕はその時、西川さんちの手前までやってきていた。 まだ木造りの犬小屋は見えてこなかったけど、敏感な柴犬のミミはすでに僕を威嚇するように吠え始めていた。

 僕は早くそこから逃げ出したかった。なのに先輩の声が僕にブレーキをかけた。 ピンク色のじゅうたんの上には、いつの間にか立ち止まっている自分がいた。
僕は振り返り、荷物をいっぱい抱えた先輩の姿をぼんやりと見つめた。
驚いた事に、彼はソロソロと歩いて僕に近づこうとしていた。
春の日差しが荷物を抱えて歩く先輩の姿を照らしていた。先輩はゆっくりとした足取りで僕に近づいてきた。
この時僕はまったく動く事ができずにいた。 先輩に背を向けて逃げ出す事も、彼に駆け寄る事も、どちらも僕にはできなかった。
卒業式帰りの先輩は当然のようにまだ中学校の制服を着ていた。
灰色のブレザーと、紺色のズボン。そして胸には水色のネクタイ。
恐らく彼が家に帰って私服に着替えてしまったら、もうその制服を身に着ける事は2度とない。 だからこれが先輩の本当に最後の制服姿になる。
僕は今日、先輩を卒業する。もう明日からは先輩への思いを捨てて新しいスタートを切る。
僕のその思いに変わりはなかった。だから卒業写真の代わりにしっかりと彼の制服姿を目に焼き付けておこうと思った。

 やがて僕の目の前で先輩が立ち止まった。
彼は胸に抱えた紙袋とバラの花束の隙間から切れ長の目でじっと僕を見つめた。
ミミの声はもう聞こえてこなかった。春の日差しは彼の髪を白く光らせていた。 23台目の車が過ぎ去った後、静かな道にはしばらく車が入ってくる気配が感じられなかった。
先輩は荷物を支える両手を少しだけ下げた。すると彼の顔や胸元がはっきりと僕の視線の先に現れた。
垣根の向こうの桜の木の枝から少しずつピンク色の花びらが舞って僕らの足元に散っていった。
少し癖のあるフワフワな髪と右目の下の小さなホクロをこんなに近くで見つめたのは初めてだった。
先輩はとても優しく微笑んでいた。十円玉をレジカウンターの上に置いた時のように、本当に素敵な笑顔を見せていた。
真っ白に輝く頬が僕の鼓動を大きくした。田中先輩は唇の端をきゅっと上げ、それからゆっくりと口を開いた。
「悪いけど、僕のネクタイを外してくれる? 今ちょっと手が塞がってるから」
彼は決して笑顔を絶やさずにそう言った。僕の目をじっと見つめ、胸に抱える荷物を両手で支えながらはっきりとそう言った。
僕は彼が何故そんな事を言い出したのか見当がつかなかった。先輩はこうしていつも僕に答えの出ない疑問を背負わせた。
僕が戸惑ってまったく動けずにいると、彼はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「僕のネクタイを……外してくれる?」
僕は先輩がそんな事を言う訳をまだ思い付けずにいた。でもこの時、僕の心にある欲求が芽生えた。
先輩のネクタイに触れてみたい。先輩を卒業する記念に、一度だけ彼のネクタイに触れてみたい……

 彼のネクタイはしっかりと結ばれていた。 僕は緊張気味に彼の胸元へ両手を伸ばし、年季の入った水色のネクタイにそっと触れた。そのシルクの手触りはとても心地よいものだった。
それから僕はゆっくりと時間をかけてその結び目をほどいた。 でもどんなに指をスローに動かしてもネクタイがほどかれるまでにそれほど長い時間がかかるはずもなく、数秒後にはしっかりと僕の手に先輩のネクタイが握られていた。
汗ばんだ手で細いネクタイをぎゅっと握り締めると、もう2度とそれを手放したくないと思った。
でもそんな望みが叶うはずなどなかった。 僕は名残惜しいと思いながらも手に握ったネクタイを彼のズボンのポケットに入れようとした。
この時先輩のズボンの右ポケットからは僕のネクタイの端の方が少し飛び出していた。 それを知った時、僕は彼のネクタイをズボンの左側のポケットへ忍ばせようとした。
するとその時、僕の耳に信じられないような言葉が浴びせられた。
「そのネクタイ、君にあげるよ」
僕はあまりに驚いてその言葉にすぐ反応する事ができなかった。 ドキドキしながら先輩の目を見つめると、すぐに僕たちの視線がぶつかり合った。
この時僕は先輩の優しい目に吸い込まれそうになった。
先輩は僕にネクタイをくれると言った。今たしかにそう言った。そして僕はすごく前向きな疑問を頭に浮かべた。

もしかして、先輩は僕の事が好きですか?

僕が目で先輩に語り掛けると、彼がゆっくりと言葉を続けた。
「君、まだ2年生だよね? ネクタイがないと明日から困るだろ? だからそれは君にあげるよ」
そのセリフは僕の気持ちを踏みにじるものだった。一瞬でも期待した僕がバカだった。
背中の後ろの方から、ミミの小さく吠える声が聞こえた。そして目の前には大荷物を抱えて笑顔を見せる先輩がいた。
僕らを照らす春の日差しが、少し冷たく感じた。

 田中先輩は優しそうに見えてすごく残酷な人だと思った。
そんな理由で神聖なネクタイを僕に渡そうとするなんて、彼は本当にひどい人だと思った。
先輩は僕がどんな思いで彼にネクタイを渡したのかまるで分かっていないんだと思った。 もしもそれが分かっていたら、僕にそんな事を言えるはずがないからだ。
「それから、今度僕の手が空いてる時にまた来てくれる?」
落胆する僕に、先輩が突然そう言った。その時はもう本当に何がなんだか分からなくなった。
先輩に渡したネクタイの意味を彼が分からなかったように、僕には先輩が自分に言った言葉の意味がまったく分からなかった。
ただ僕は、この時深く傷ついていた。なのに先輩があまりにも素敵に微笑むから、胸が苦しくてたまらなくなった。
僕を見つめる切れ長の目と、真っ白に輝く頬。そして、春の風に揺れるフワフワな髪。 そのすべてが眩しすぎて、息をする事さえ苦しくなった。
僕は彼の笑顔を見ている事に耐えられなくなり、結局俯くしかなかった。

 もう疲れちゃった。
先輩はいつも答えの出ない疑問ばかりを僕に背負わせる。
僕は2年近く考え続けてまだ答えの出ない疑問を抱えているのに、彼は更なる難題を僕に背負わせた。
先輩はいつもこうして優しく僕を振り回す。でも僕はもう彼に振り回される事にすっかり疲れてしまっていた。
「どうしてそんな事を言うんですか? 先輩はネクタイを渡す事がどういう意味を持つか知らないんですか? 僕にはもう分かりません。あの十円玉は本当に僕のものだったんですか? それともあれは、あなたの優しさだったんですか?」
僕は俯き、ピンク色のじゅうたんを見つめながら彼に疑問の答えを要求した。
2年近くもずっと彼を見つめていたのに、僕が先輩に何かを言うのはこれが初めてだった。
『あなたはどうしてこんなに僕を苦しめるんですか?』
心の中ではそう叫んでいたのに、あまりにも息が苦しくて僕の声はもう続かなくなった。
ただとめどなく涙が溢れて、しっとり濡れた頬を春の風が優しく撫でていった。 歩道に舞い落ちた綺麗なピンク色の花びらが、すごく悲しく感じた。
僕はこの時やっと気づいたのだった。
疑問の答えを見つけない限り、僕は先輩を卒業する事なんかできやしない。
疑問の答えを求めて悩む時、いつも必ず先輩の事を思い出してしまうから……

 ピンク色のじゅうたんが涙のフィルターの向こうに歪んで見えた。黒いスニーカーをはいた先輩の足も、大きく歪んで見えた。
ドスン!
歪んだ世界を見つめていた僕の耳に、そんな鈍い音が大きく響いた。
ピンク色のじゅうたんの上に様々な物が落下すると、その衝撃で歩道の上に散った桜の花びらが一瞬フワッと舞い上がった。
白い紙袋から転げ落ちたクマのぬいぐるみや、透明なセロファンで包まれた赤いバラの花束。 たくさん寄せ書きが書かれた白い色紙。包装紙に包まれた四角い箱。
ドスン、という音と共に僕たちの足元にそんな物がたくさん転げ落ち、歪んだじゅうたんの上が随分賑やかになった。
その時一緒に落下した卒業証書入りの黒い筒は、カラカラと音を立ててピンク色のじゅうたんの上を転がっていった。
この時僕は自分が背負っていた疑問の答えをやっと見つけた。
ゆっくり顔を上げると、すぐに田中先輩と目が合った。
先輩は誰よりも優しい笑顔を見せ、瞬きを繰り返しながら切れ長の目で僕を真っ直ぐに見つめていた。
春の日差しが先輩の真っ白な頬を明るく照らした。風が吹くと桜の花びらが枝を離れて宙に舞い、時々彼の白い肌を遮った。
灰色のブレザーを着た彼の胸にはもう抱えているものが何もなかった。 しっかりと荷物を支えていた真っ白な手は、もう塞がってはいなかった。

先輩、これがあなたのくれた答えなんですね?

僕が涙で先輩に語り掛けると、先輩も真っ白な両手で僕に語り掛けた。
荷物を放棄した彼の手が僕をしっかりと抱き締めた。
先輩の胸は、ほんのり桜の香りがした。

先輩がすべての荷物を足元に落とした時、ドスンと鈍い音がしました。
でもあなたと初めて出会った時、僕はコインが床に落ちる音を一度も聞きませんでした。
あの十円玉は、僕のものではなかったんですね?
あれはやっぱりあなたの優しさだったんですね?
『僕の手が空いてる時にまた来てくれる?』
あなたはさっきそう言いました。
それは僕を抱き締めるためにそう言ったんですね?
先輩はネクタイを渡す事がどういう意味を持つかちゃんと知っていたんですね?

先輩の大きな手の温もりを背中にはっきりと感じた。
彼はこの時、僕にまた新たな疑問を背負わせた。

先輩は、僕の事をどのぐらい好きですか?

でも僕はもう疑問の答えをあなたに要求したりはしません。
これから僕は毎日その答えを求めて悩み続けます。
僕はそうやっていつもあなたを思い出す事にします。


 先輩の鼓動が僕の頬にはっきりと伝わってきた。
田中先輩は今日3年間通い続けた中学校を卒業した。そして僕は2年近く続いた片思いを卒業した。
緩やかな風が吹くと、早咲きの桜の花びらが紙吹雪のように舞って卒業生である僕たちを祝福してくれた。
空には太陽が輝いていた。宙を舞う紙吹雪が、時々春の日差しを遮った。
僕たち2人は柔らかなピンク色のじゅうたんの上から新しい一歩を踏み出そうとしていた。
先輩の背中に回した僕の右手にはしっかりと彼のネクタイが握り締められていた。
それは大好きな人が僕にくれた大切な卒業証書だった。

終わり