退屈な日々

 1.

 学校の夏休みが後半に差し掛かった頃、僕は虫垂炎を患って入院した。
僕が手術をしたのは入院して2日目の午後の事だった。
術後は腹部に重苦しい痛みが残っていたけど、医者は順調なら1週間ぐらいで退院できると僕に言った。
その時僕は医者の言葉を半信半疑で受け止めていた。でも腹部の痛みはたしかに順調に和らいでいった。
僕が入院したのは大きな総合病院で、入院患者は数え切れないほどたくさんいた。
しかしそのほとんどがお年寄りで、2人部屋である僕の病室で一緒に入院していたのも70歳のお爺さんだった。
昼間の病室はやけに明るくて、いつも窓に白いカーテンを引いていた。
病院という所はどこもかしこも真っ白だった。 天井も床も、シーツもカーテンも、そして食事の時に使う食器までもが白だった。
入院中の僕はすごく退屈していた。
同じ病室にいるお爺さんは昼も夜も眠っていて話し相手にはならなかったし、大病を患ったわけでもなかったから家族も友達もほとんど見舞いに来る事はなかった。
ずっとそんなふうだったから、朝の回診と3度の食事以外は本当に何もする事がなかった。
短期入院の僕の病室にはテレビさえ置かれていなかったから、尚更退屈だった。

 病院は5階建てで、僕の入院する外科病棟は2階だった。
入院して5日目の午後。僕はあまりにも退屈で病棟の中を散歩してみる事にした。
静かな廊下にはほとんど人影がなかった。僕が歩くと、静まり返った廊下にスリッパのパタパタいう音が響いた。
やがて右手の方に階段が現れ、その反対側には大型テレビと灰皿が並ぶ喫煙所があった。
喫煙所の大きな窓から真夏の日差しが入り込み、その横を通る時はすごく体がポカポカした。 そこにはパジャマ姿でタバコを吸う男の人が数人いて、その人たちの吐き出す白い煙が太陽の日差しの中をユラユラと揺れていた。
その広いスペースを通り過ぎると、僕はまた静かな廊下を歩む事となった。
真っ直ぐな廊下を1人で歩いても特別楽しいわけではなかったけど、その時はとりあえず病棟の端まで行ってみようと思っていた。
しばらく廊下を進むと、僕は妙な事に気づいた。
僕の病室は2人部屋で、そのドアはいつも開け放たれていた。そしてそれは近くの病室もすべてがその状態だった。
なのに喫煙所の向こうにある病室はすべてのドアが締め切られていた。それが何故なのかはよく分からなかったけど、とにかくそれは事実だった。
しかし僕はその事実を大きく捉える事もなく、パタパタとスリッパの音を立てながら更に廊下を真っ直ぐに進んだ。 そして遂に外科病棟の端まで辿り着いた時、僕はひどく落胆していた。
特に何かを期待していたわけではなかったけど、病棟の端まで行ってもおもしろいものは何一つなかった。
ドアの締め切られた病室の前をスタスタ歩いて真っ直ぐ進むと、ただ真っ白な壁に突き当たってお終いだった。

 「なんだよ、つまんないな」
僕はそう言って白い壁を睨み付け、右足で軽くその壁を蹴ってやった。
そしてすぐに自分の病室へ戻ろうと思った瞬間、僕は後ろから突然誰かに声を掛けられた。
「なぁ、ちょっと」
弱々しく掠れた声が背後に響き、僕はゆっくりと振り返った。 すると締め切られていたはずの病室のドアが1つだけ開いていて、そこから顔を出している入院患者とすぐに目が合った。
黒いパジャマ姿の彼は、17歳の僕より少し年上に見えた。
淡い茶色に染まった彼の髪には細かく段が入っていて、その所々が外側に跳ねていた。 少しつり上がった目はコワモテな印象だったけど、ふっくらした唇と丸い輪郭は逆にかわいらしい印象を僕に与えた。
彼の両腕は肘から90度前に折り曲がった形で白いギプスに包まれていた。そして両手の10本の指にも厚く包帯が巻かれていた。 どうやら彼はまったく手が使えない状況のようだった。
「ちょっと来てくれないか?」
その声のトーンからはまったく元気が感じ取れなかった。
僕は純粋に彼の事が心配になり、パタパタとスリッパの音を立てて病棟の端から2番目にあるその病室へ近づいた。

 「どうしたの?」
僕はそう言いながら彼の病室の中へそっとお邪魔した。するとそこがあまりにも立派な個室である事を知り、僕はかなり驚いた。
窓際には大きなベッドが1台だけあり、その正面には大画面のテレビが置いてあった。
ドアの横にある仕切られたスペースは恐らくバスルームだった。 僕の病室には客用の丸椅子が2つあるだけだったのに、個室ではベッドの脇に黒い皮のソファーが置いてあった。
大きな窓には太陽を遮るように白いカーテンが引かれていた。僕と彼の病室の共通点はカーテン以外に何もなかった。
病室の中は静かだった。僕を呼び止めた彼は、左足を引きずるようにしてベッドのそばまで歩いていった。
彼の両腕はとても痛々しく見えた。少しだけ引きずって歩く足も、同様に痛々しく感じた。でも広い背中だけはとてもたくましく見えた。
「ごめん。リモコンを拾ってくれるか?」
ベッドの横へ辿り着いて振り返った彼が、遠慮がちにそう言った。
病室の中は全体的に薄明るい印象だった。 カーテンのわずかな隙間から一筋の光が床の上に落ちているテレビのリモコンを指差すかのように照らしていた。
そうか。彼は両手が使えないから、床の上に落としたリモコンを拾う事ができないんだ。
僕はすぐその事に気づき、サッとしゃがんで四角いリモコンを拾い上げた。 それをベッドの上にそっと置くと、黒いパジャマの彼がほっとしたように微笑んだ。

 かわいい。
僕は彼の笑顔を見て一瞬そう思った。
コワモテな印象だった彼の目は、笑うと急に目尻が垂れ下がった。彼の真ん丸な笑顔はとても子供っぽいものだった。
「ありがとう」
「ううん。いいよ」
僕はありがとうの言葉にそう応え、彼に笑顔を返した。
するとその時、突然彼の顔が僕の顔に近づいてきた。少しつりあがった目と尖った鼻が、信じられないほど近くに見えた。
やがてカーテン越しの薄明るい日差しが、突然目の前から消えた。
アッと思った瞬間、ふっくらした唇が僕の薄い唇に重ねられた。僕はその時何が起こったのか分からず、ただ黙って彼の唇を受け止めていた。
するとその後、生温かくて柔らかいものが薄い唇を突き破って僕の歯に当たった。僕はその時になってやっと自分がキスされたという事実を理解した。
「何するんだよ! ヘンタイ!」
それから後の事は、よく覚えていない。
ただ気が付くと僕は大きな声を出していて、ベッドとソファーの間に黒いパジャマを着た男が仰向けで倒れていた。
僕の足元に転がっていた青いスリッパは、恐らく彼の物だった。


 パタパタいうスリッパの早い音が、外科病棟の長い廊下に響き渡った。
僕は湿った唇を右手で何度も拭いながら自分の病室へ向かって走り出していた。
その途中 もうほとんど感じなくなっていた腹部の痛みが復活した。何度唇を強く擦っても、そこに残る柔らかい舌の感触は消えなかった。
あんな形で知らない男にファーストキスを奪われるなんて、一生の不覚だった。