2.

 自分の病室へ辿り着くと、一瞬めまいがした。
そのまま立っていると倒れてしまいそうな気がして、僕はすぐベッドに横になって頭から布団をかぶった。
夏用の薄い掛け布団は真っ白で、その向こうには薄く病室を照らす真夏の日差しが浮かんだ。
腹部の傷がズキンと痛み、パジャマの上から右手で手術の傷跡を押さえつけた。
病室の中はいつも暑かった。集中冷房は本当に作動しているのかどうかすらよく分からなかった。
その暑い病室のベッドで布団をかぶると、当然だけどますます体が熱くなった。
忌わしいファーストキスの余韻を拭い去るために何度も擦り続けた唇は、微量の血液が流れ出して少しだけ濡れていた。
耳には微かないびきが聞こえていた。同室のお爺さんは隣のベッドで眠っているようだった。
気持ちが乱れて、心臓が早鐘を打っていた。
でもこの時の僕は自分がドキドキしている理由をよく理解していなかった。
不意にキスを仕掛けてきた男に対する怒りがあったような気もするし、生まれて初めてキスをしたという事実に戸惑っていたような気もする。
とにかく自分でもよく分からないほど複雑な思いが頭の中を駆けめぐり、うまくその感情を処理しきれずにいた。
やがて僕は真っ白な布団の下できつく目を閉じた。
今はもう何も考えたくないと思った。そして何も考えないようにするためには眠ってしまうのが1番だと思っていた。


 「坊や、食事の時間だよ」
そんな声を聞いて目が覚めた時、僕は体中に汗をかいていた。
自分の身に覆いかぶさる布団を両手で払い除けると、真っ白な天井が目に入った。
あぁ、そうか。ここは病院だったんだ。僕は黒いパジャマの男とキスをして、それからすぐにベッドで眠ったんだ。
眠っている間は何も考えなくて済んだのに、目が覚めた途端に考えた事はそれだった。
病室の中はまだ明るかったけど、カーテン越しの日差しは夕方の光に変わっていた。
「ご飯を食べなさい」
僕はベッドの上で仰向けになったままその声がした方へ目を向けた。
すると隣のベッドに腰掛けて僕を見つめるお爺さんとすぐに目が合った。白髪頭の彼の額には、3本の深いシワが刻まれていた。
2台のベッドの間には背の低い棚が2つ並んで置いてあった。 それは引き出しが3つ付いている白い棚で、入院患者が私物を収納するための物だった。
同室のお爺さんは自分用の棚の上に白い食器の乗ったトレイを置き、箸を片手にモグモグと口を動かしていた。
病室の中にはみそ汁のいい香りが漂っていた。どうやら僕は夕食の時間まで眠ってしまったようだった。
「どこか痛いのかい? 先生を呼んでこようか?」
線の細いお爺さんは箸を持つ手を止めて心配げにそう言った。彼の大きな目はしっかりと僕を見つめていた。
この時僕は腹ではなくて胸が痛かった。でもその痛みは医者に治せる類のものではなかった。
本当は全然食欲がなかったけど、とりあえず病室を出て夕食を取りにいかなければいけないと思った。
食事もせずにぼんやりしていると、お爺さんが本当に医者を呼びに行ってしまうと思ったからだ。

 パタパタとスリッパの音を立てて廊下を歩くと、遠くの方に白くて大きなワゴンが見えてきた。
入院患者の食事はいつもワゴンに乗せて廊下へ運ばれてくる。
患者はそのたびに自分の名札の付いたトレイを見つけてそれを病室へ持ち帰る事になっていた。
廊下へワゴンが出現した時にはその周りに食事を取りに来る人が群がるけれど、この時もうワゴンのそばに人影はなかった。 恐らくほとんどの入院患者がすでに自分の食事を病室へ持ち込んでいたのだろう。
左右に病室が並ぶ廊下は、あまり明るいとはいえなかった。
開け放たれた病室のドアから漏れる光がかろうじて白い廊下を照らす程度で、定期的に見えてくるその薄い光は僕をワゴンへ案内する道しるべのようだった。
開放された病室の前をいくつか通り過ぎると、時々誰かの話し声が聞こえてきた。
僕はまだ何かを考えられるような状態ではなかった。というよりも、何も考えたくなかった。
ただ一応夕食を食べるポーズだけをとり、それからまたすぐに布団をかぶって眠りたいと思っていた。
眠っている間だけはショッキングな出来事を忘れる事ができるから。夢も見ずに眠っている間だけは、胸の痛みを感じずに済むから……

 3段になっている白いワゴンの前に立つと、そこに残されているトレイがたった1つだけである事にすぐ気が付いた。
最後に残ったトレイにはフタの付いた食器がいくつか乗っかっていて、その手前には小さな名札が置かれていた。
桐島和雪
僕はその名札に書かれた名前を一応ちゃんとたしかめ、腰をかがめてワゴンの2段目に置いてあるトレイを取り出した。
そして再び廊下の上に真っ直ぐ立った時、僕は驚いて食事を全部ひっくり返してしまいそうになった。
それは白いワゴンの向こうに、さっきの黒パジャマの男の顔が突然現れたからだ。 どうやら彼はワゴンの向こうに座って僕が来るのを待っていた様子だった。
「和雪くんっていうんだ?」
その声はさっきまでと違ってすごく力強い印象だった。
彼はまったく悪びれる様子もなく目尻を下げて真ん丸な笑顔を見せていた。
また心臓が早鐘を打ち、体が微かに震えた。
初めてキスをした相手と真っ直ぐに顔を突き合わせるのはとても気恥ずかしい思いがした。
夕食時。みそ汁の香りが漂う廊下に佇んでいるのは僕たち2人だけだった。
彼はワゴンを迂回して僕に近づき、何か言いたげな目をして僕を見つめた。 彼は僕より頭1つ分ぐらい背が高かったから、僕は彼に見下ろされているような状態だった。
彼の半そでの黒いパジャマは薄闇に溶けてしまいそうだった。でも痛々しい両腕を固める真っ白なギプスはとても眩しく見えた。
「なぁ、俺の部屋で一緒に食事しないか? 俺、今手が使えないんだ。悪いけどメシを食べさせてくれよ」
ふっくらした唇が上下左右に動いてそんな言葉を語った。その言葉を聞いた時、トレイを持つ両手が大きく震えた。

 「……どうして僕がそんな事をしなくちゃいけないの?」
僕は当然のように彼にそう言ってやった。 僕は彼の身内でもないし友達でもない。自分の心を乱した相手の世話をしてやる義務なんか、どこにもないはずだった。
僕はその後にもまだ言葉を続けようとした。まだ彼に言いたい事はたくさんあった。
しかしその時タッタッタッと小さな足音が僕らに近づき、その音が僕の次の発言を止まらせた。
「宮本くん、ここにいたの? 探したのよ」
喫煙所の方から走ってきて彼にそう言ったのは、白衣を身にまとった若い看護師さんだった。
僕は彼女に見覚えがあった。たしか昨日か一昨日の朝検温のために病室へ来たのが彼女だった。
ちょっと太目の彼女は僕ではなくて黒いパジャマの彼に用事があるようだった。 "宮本くん" と呼ばれた彼は、笑顔を封印して看護師さんを見つめていた。
薄暗い廊下に佇む人間がこれで3人に増えた。僕はこの時もう彼を無視して病室へ戻ろうと思っていた。
「宮本くん、病室へ戻ってご飯を食べましょう」
看護師さんが彼にそう言った時、僕は自分の病室へ向かって歩き出そうとしていた。
でもその後彼の言った一言が僕の足を止まらせた。
「俺、今日からこいつに食べさせてもらう事にしたんだ。俺の頭にコブができたのはこいつのせいなんだから、それぐらいしてもらっても当然だろ?」
何? 君はいったい何を言ってるの?
僕は声にならない声で彼に語り掛けた。でもその時彼のつり上がった目は看護師さんの顔を真っ直ぐに見つめていた。
「俺、こいつに張り倒されて頭を打ったんだ」
笑顔を封印した丸顔の彼が看護師さんにそう言って顎で僕を指し示した。
ふと気づくと、彼に見つめられている看護師さんが怪訝な顔をして僕を見つめていた。
僕の体は更に激しく震え出し、トレイに乗った数々の食器がガタガタと大きく音を立てた。
自分ではよく覚えていないけど、僕はもしかして彼を張り倒したのかもしれない。
たしかに彼はソファーとベッドの間に倒れていたし……彼がそんな事になったのは僕のせいだったのかもしれない。
だけど僕にそんな事をさせたのは彼自身だった。 弱々しい声で僕の気を引き、あの病室へ僕を連れ込んだのは紛れもなく彼だった。 子供っぽい笑顔で僕を安心させ、不意に唇を奪ったのも彼だった。

 「本当にそんな事をしたの?」
若い看護師さんは眉間にシワを寄せて僕に冷たい視線を浴びせた。
冗談じゃない。僕にだってちゃんと言い分があるんだ。
僕は看護師さんの冷たい視線を跳ね返し、事の成り行きをしっかり説明しようと思って口を開きかけた。
でもその前に言葉を発したのはまたもや黒パジャマの彼だった。
「悪いのは俺の方だよ。俺が先にこいつを怒らせたんだから、張り倒されてもしかたがないんだ」
彼は白い廊下を見つめてそう言った。まるで反省したかのように目を伏せて、弱々しい声でそう言った。
すると僕を睨んでいた看護師さんが急に表情を和らげた。
黒パジャマの彼は自分の言葉で僕を落とし入れ、自分の言葉で僕を救ったのだった。
「よく分からないけど、早く仲直りしなさいよ。桐島くん、悪いけど宮本くんにご飯を食べさせてあげてね」
笑顔でそう言う看護師さんに向かって僕は大きく首を振った。
いったいどうしてこんな事になってしまうのか。僕にはその理由がまったく分からなかった。
「嫌です。僕にはできません」
「そんな事言わないで。彼は体が不自由なんだから、もっと優しくしてあげて」
何も知らない看護師さんは僕の肩をポン、と叩いてあっという間に去っていった。
看護師さんの白衣の色が僕の目に眩しく突き刺さった。 僕は震える両手でトレイを支え、表現しようのないほど複雑な思いでその白い背中を見送った。