転校生
1.
小学校4年生の妹が不登校を繰り返すようになったのは5月上旬からの事だった。
ゴールデンウィークが終わって2日が過ぎた頃、妹の由佳は朝になっても自分の部屋から出てこなくなった。
母さんが声をかけても、父さんが怒鳴りつけても、妹は返事もせずにずっと部屋にこもっていた。
その頃由佳は学校でイジメに遭っていたらしい。僕が母さんの口からその事実を聞かされたのは5月中旬頃の事だった。
やがて両親は由佳を転校させるために引越しする事を決断した。それはあまりにも早すぎる決断だった。
僕には一言の相談もなく、彼らは勝手にすべての段取りを決めてしまった。
5月末日。中学3年生になって間もないこの時、僕は生まれて初めて転校した。
よく晴れていたその日の朝。
僕は新しい中学校の新しい教室へ連れて行かれ、新しい担任の先生の口から新しいクラスメイトたちへ紹介された。
由佳が転校するという事は、すなわち僕も学校を移るという事だった。
「転校生の片山純也くんだ。皆仲良くするように」
年老いた担任の先生は教壇の上に立って新しいクラスメイトたちに一言そう言った。
その時僕はドキドキしながら黒板を背にして立っていた。
38人いるという新しいクラスメイトの中に知った顔の人は1人もいなかった。でももちろんそれは当然の事だった。
2列に並ぶ机には見た事のない人ばかりが着席していた。そして窓の外から入り込む朝日がその半数の姿を明るく照らしていた。
僕の席は壁際の1番後ろだった。隣にはもう1つ机が置かれていたけど、そこには誰もいなかった。
新しい学校の制服は男子が学ランで女子がセーラー服だった。でも転校生の僕だけは皆と違う制服を着ていた。
濃紺のブレザーとダークグレーのズボン。39人いる生徒の中で、僕1人だけがそんな格好だった。
そのせいかどうかは分からないけど、この時僕は同じクラスの皆がすごく遠く感じた。
転校初日の夜。その日の夕食はスキヤキだった。
キッチンの隅に置かれた四角いダイニングテーブル。その上には真っ黒なスキヤキ鍋が置かれ、その中で肉や野菜がグツグツ煮えていた。
母さんの隣に妹。妹の向かい側に僕。そして僕の隣に父さんが座り、その日は家族4人揃って夕食を取っていた。
家族全員で夕食を取るのはすごく久しぶりの事だった。
以前の僕は学校帰りに友達と寄り道ばかりして、夕食の時間までに家へ帰った試しがなかったからだ。
新しく移り住んだマンションのキッチンは以前僕らが住んでいた家の物よりずっと広く、その事で母さんはご機嫌だった。
そしてご機嫌なのは母さんだけではなかった。父さんは引っ越してから会社への通勤時間が短くなり、その事で随分と機嫌がよくなっていた。
「純也、お肉が焼けたわよ」
母さんはそう言って僕の器によく焼けた肉を一切れ入れてくれた。でも僕はあまり食欲がなかった。
「この肉はうまいな、母さん」
隣に座る父さんは目尻にシワを作って微笑み、そんな事を言いながら口をモグモグと動かしていた。
父さんの短い髪は、半分ぐらいが白髪になっていた。
「由佳、もっと食べなさい」
母さんはそう言って妹の器にもよく焼けた肉を一切れ入れてやった。
でも由佳もあまり食欲がないらしく、彼女はそれに箸をつけようとはしなかった。
「おいしいね、お父さん」
母さんは元々ぽっちゃりしている頬を更に膨らませてモグモグと肉を噛み締め、今度はそう言って父さんに笑い掛けた。
彼女の髪は首の後ろで1つに束ねられていた。元来マメな母さんは白髪染めを欠かさないので、その髪はいつも綺麗な茶色だった。
「お父さん、野菜も食べてね」
「あぁ、いただくよ」
その晩機嫌よさそうに会話を交わしていたのは両親だけだった。
妹の由佳はお気に入りの白いブラウスを着てそこにいたけど、彼女はずっと伏し目がちだった。
由佳は1年ほど前から長い髪にフワフワなパーマをかけていた。でも新しいマンションへ引っ越す前に髪型をストレートに戻していた。
シラけた夕食の時間は淡々と過ぎていった。その間両親はずっと楽しげに会話を続けていたけど、僕と由佳は終始無言だった。
夕食の後自分の部屋へ戻ると、僕は割り切れない思いにさいなまれた。
新しいマンションへ引っ越してから僕の部屋は以前より狭くなっていた。
窓際にベッドを置いて、ドアの横に机を置いて、その隣に本棚を並べたらほとんど空いているスペースがない。
しかも窓の向こうには隣のマンションの壁があり、昼間でも部屋の中にはほとんど外の光が入ってこなかった。
僕は勉強する気にもなれず、ふてくされてベッドの上に寝転んだ。
携帯電話を取り出して前の学校の友達にメールを送ってみる事にする。
仰向けになると白い蛍光灯の光が目に付き刺さるので、しかたなく体を窓の方へ向けてサッとメールを打ち込んだ。
今日、新しい学校へ初めて行った。
クラスメイトとは気が合いそうにない。
過去の友達に送ったメールはそんな短いものだった。
すると、それよりもっと短いメールがすぐに返信されてきた。
がんばれ。
がんばれ……か。
僕はもうそのメールに返信する事はしなかった。
前の学校で仲の良かった友達は、転校する時に 「俺たちの友情は永遠だ」 という言葉を僕に贈ってくれた。
でもその頃の僕は永遠の長さをまだよく理解していなかった。
転校して1ヶ月が過ぎても、僕は新しいクラスに馴染めずにいた。
学校の昼休み。
給食を食べ終えたクラスメイトの大半が仲のいい友達と集まって楽しげなひと時を過ごしていた。
この頃すでに制服は夏服に変わっていた。女子は白いセーラー服に紺色のスカート。そして男子はワイシャツに黒いズボン。
だけど転校生の僕だけは相変わらずダークグレーのズボンをはいていた。
『卒業まで1年もないんだから、新しい学校の制服は買わなくていいわね?』
半分決め付けたように母さんがそう言ったのは、たしか転校2日目の夜の事だった。
僕は自分の席に座って携帯電話を開き、受信メールがないかをチェックした。だけどメールはまったく届いていなかった。
「キャハハハ……」
窓際の席に座ってお喋りしている女子生徒の笑い声が教室にこだました。
その時僕は、まるで自分が笑われているような気がしていた。
教室の中を見回すと、20人いる男子生徒が3つのグループに分かれているのがよく分かった。
黒板の前に集まってチョークで落書きをしているのが第1グループ。
大人数で鬼ごっこを始め、机の間を走り回っている人たちが第2グループ。
そして、教室の隅に固まってボソボソと話し込んでいるのが第3グループ。
この学校では2年生になる時にクラス替えがあって、生徒はその後卒業まで同じクラスで過ごす事になっているらしい。
そのせいか、3年生になったこの時期にはそれぞれ皆が仲のいい友達との友情を固めているようだった。
それは女子生徒にも同じ事が言えるようで、彼女たちは仲のいい友達と絶えず教室のどこかでお喋りするのが常だった。
僕のクラスは3年C組。
その中で、どこのグループにも属さない人間が2人だけいた。
1人はこの僕だ。そしてもう1人は、2つ隣の席でいつもマンガの本を読んでいる西島くんだった。
1人だけ皆と違う制服を着た僕はクラスの中で浮いていた。だけど、西島くんもかなり浮いていた。
彼は他のクラスメイトとはどこか雰囲気が違っていた。
サラサラな金髪と、他人と交わらない性質。それは最も明らかな皆との違いだった。
でもきっと、目に見えない部分はもっと大きく皆と違っていた。
それを言葉で表現する事はすごく難しかったけど、彼の持つ一種独特の雰囲気は他の人にはないものだった。
恐らくそれを感じているのは僕だけではなかった。
同じクラスの皆が西島くんに滅多に声を掛けないのは、彼が他の人とは絶対的に違うオーラを放っているせいだと思った。
初夏の日差しは穏やかだった。窓際の席に座ってお喋りする女子生徒は温かい光に包まれていた。
僕がこうして人間ウォッチングを重ねているのは、誰も僕に声を掛ける人がいないからだった。
つまらない……
僕はそう思い、机に顔を伏せて眠る素振りを見せた。でももちろん本当に眠ったりはしていなかった。
教室のそこいら中から聞こえてくる笑い声と、すぐそばを走り抜けていく大きな足音。
それがどうしても耳に付いて、とても眠る事なんかできやしなかった。
6月のある日。夕方学校が終わって家に帰ると、リビングの方で妹の笑い声がした。
マンション特有の狭い玄関にはピンク色の小さなスニーカーが両足揃えて置いてあった。でもそれは決して妹の靴ではなかった。
僕は楽しそうな笑い声に誘われ、リビングの薄いドアを半分開けて中をそっと覗いた。すると僕の目にある光景が飛び込んできた。
その時、妹とその友達らしき女の子がカーペットの上に座ってトランプ遊びをしていたんだ。
楽しげに遊ぶ2人は太陽の明るい日差しに照らされていた。この時妹は僕に背を向けて座っていた。
もう1人の女の子は一応僕の方を向いて座っていたけど、トランプ遊びに夢中でドアの陰に立つ僕の存在になんか気付きもしなかった。
彼女は小柄でデニムのワンピースがよく似合うかわいらしい女の子だった。
由佳には新しい友達ができたんだな……
僕は2人の邪魔をしないようにそっとドアを閉じ、薄暗い廊下に立ってため息をついた。
妹が元気になった事にはほっとしたけど、なんだか自分だけ取り残されたような気分だった。
7月。あと2日で夏休みに入るという日の放課後。僕はたった1人で家へ続く道を歩いていた。
季節はすっかり真夏になり、外を歩くとそれだけで額に薄っすらと汗が浮かんだ。
頭を照りつける真夏の太陽は、黒い髪をジリジリと焼き尽くすかのように熱かった。
僕は登下校の時、スクールゾーンを避けて歩いていた。他の皆は友達と連れ立って歩くのに、いつも僕だけが1人ぼっちだったからだ。
僕は1人ぼっちでいる自分を人目に晒したくはなかった。
だからできるだけ同じ学校の生徒が通る道を避け、人気のない道を選んで歩くようにしていた。
スクールゾーンを外れると、道沿いには様々な誘惑が転がっていた。
AVビデオ専門のレンタル屋だとか、店内が薄暗いゲームセンター。僕はそんな店が並ぶ細い道をトボトボと1人で歩いていた。
次々と見えてくるその類の店に目をやると、学校がその道をスクールゾーンに指定しない訳が本当によく分かった。
この頃僕は夏休みが近づいてほっとしていた。それはもちろん休みの間はつまらない学校へ行かずに済むからだ。
それにしても、夏休みが近づいてほっとするなんて生まれて初めての経験だった。
今までの僕は長期の休みが近づくといつもワクワクしていた。
休みの間に友達と何をして遊ぼうかと考え、休みに入る日を今か今かと待ちわびていた。
でも、そんな時はすでに過ぎ去っていた。
今回の引越しで、妹は自分をイジメた連中とサヨナラする事ができた。
母さんはキッチンが広くなって喜んでいたし、父さんは通勤が楽になってご機嫌だった。
僕以外の皆はこの引越しで何かしらメリットを得ていたんだ。でも僕だけは何のメリットもなかった。
それどころか、デメリットばかりが目に付いた。
前に通っていた中学校には幼稚園の時からの幼なじみがいたし、なんでも相談できる親友もいた。
それに僕は同じクラスの皆とすごく仲良くやっていたんだ。
修学旅行も楽しみだったし、何人かの友達とは同じ高校を受験する約束もしていた。
それなのに、僕は今回の引越しで大切なものを失ってしまった。
長年付き合ってきた友達も、楽しみにしていた未来も、何もかも失ってしまったんだ。
この頃僕はもう前の学校の友達とすっかり疎遠になっていた。
少し前までは時々友達にメールを送ったりしていたけど、なかなか返事がこない日が続くともうメールを打つ気になれなくなっていた。
14歳の僕にとって、永遠とはひどく儚いものだった。
その日僕は、スクールゾーンから外れたその道で西島くんの姿を見かけた。その時彼は1人ではなかった。
人気のない道でたむろする4人の少年の姿を遠目に見た時、僕は何故だか急にドキドキしてきた。
4人のうちの1人が西島くんである事は遠目にもすぐ分かった。彼はとても目立つ存在だったから、その姿を見間違えるはずなどなかった。
肩のラインより少し長いサラサラな金色の髪。線の細いシルエット。そして、彼のかもし出す独特の雰囲気。
僕は4人の横を通り過ぎる随分前から西島くんの存在を感じ取り、その瞬間からずっと下を向いて歩いていた。
埃っぽい土の道には時々小さな石が転がっていた。
僕は下を向いて足元に転がる石の数を数えながらゆっくりとその道を突き進んでいった。
「お前、ムカつくんだよ」
「うるさいなぁ」
そのうちに、くだけた会話を交わす4人の声がだんだん近づいてきた。
それでも僕は決して顔を上げず、足元に転がる石をまだ数え続けていた。
14個。15個。16個。
頭の中で石が16個を数えた時、4人の声がいよいよすぐそばで聞こえた。
そして足元に17個目の石を見つけた時、僕は誰かに行く手を遮られて足を止める事となった。
僕の行く手を塞いで17個目の石ころを踏んづけたのは、黒いズボンの下に紺色のスニーカーをはいた足だった。
そして僕は、恐る恐るその人の顔を見上げた。すると、見上げた先には穏やかな笑顔と金色の長い髪が存在していた。
「よぉ、転校生。今帰りか?」
低音なその声が、両の耳に大きく響いた。西島くんは教室にいる時とはだいぶ雰囲気が違っていた。
教室にいる時の彼はいつも俯いてマンガの本を読んでいたけど、その時の彼はちゃんと顔を上げて太陽の下に立っていた。
僕はこの時彼の笑顔を初めて見た。
優しそうな細い目と、少し荒れ気味の渇いた唇。その印象的な顔のパーツは、しっかりと僕に笑い掛けていた。
「凛 (りん)、知り合いか?」
僕たちが道の真ん中で向き合っていると、彼とつるんでいた3人のうちの1人が西島くんの隣へ来てそう言った。
白いワイシャツとベージュのズボン。よくは知らないけど、彼が身に着けているのはどこかの学校の制服のようだった。
その人は短い髪を赤茶色に染めていた。そして耳にはピアスが光っていた。
その人は西島くんとかなり親しくしている人のようだった。その証拠に、彼は西島くんを名前で呼び捨てにしていた。
僕はこの時まで西島くんのフルネームさえ知らなかった。
「同じクラスの奴だよ」
西島くんが彼に向かってそう言うと、ピアスをした少年の大きな目が僕の姿を上から下までじっと眺めた。
彼の身に着けている制服は、僕のものとも西島くんのものとも違っていた。
横目でチラッと見た様子では、道の端に立っている他の2人もピアスの彼と同じ制服を着ているようだった。
「嘘だろ? だって、制服が違うじゃん」
「それは転校生だからだよ」
彼らは僕の目の前でそんな短い会話を交わした。ピアスの彼は西島くんの説明に大いに納得したようだった。
「ちょうど良かった。これで5人揃ったな。さぁ行こうぜ」
その後西島くんはなんの説明もなく僕の肩を抱いてある店の入り口へ向かった。
僕はただ呆気に取られ、何も言えずに彼に引きずられていった。
目の前に見えてきたガラスの自動ドアには "カラオケボックス" という赤い文字が大きく書かれていた。
僕は訳が分からないまま4人と一緒にその中へ入っていく事となった。
それから約3分後。僕たち5人はカラオケボックスの狭い部屋にいた。
薄明るいその部屋に窓はなく、大きなスクリーンとカラオケの機材がその部屋の奥に陣取っていた。
スクリーンと向かい合う形で置かれた長いソファーの手前には白いテーブルがあり、その上には2本のマイクと分厚い本が2冊並べて置いてあった。
僕は西島くんに背中を押され、ソファーの1番右端に腰掛けた。そして彼は僕のすぐ隣に座った。
西島くんの横にはピアスの彼が陣取り、続いて残りの2人がその人の横に並んで腰掛けた。
「何を歌う?」
やがてピアスの彼がそう言ってテーブルの上にあった分厚い本を手に取った。
それはカラオケのタイトルが載っている本のようだった。
西島くんはその時になってようやく僕に今の状況を説明してくれた。
「ここのカラオケボックス、5人以上で入ると1人1時間100円なんだよ。でも4人以下だと200円なんだ」
僕はこの時、ソファーの柔らかさを感じながらぼんやりと西島くんの説明を聞いていた。
どうやら彼らはカラオケボックスへ入るつもりでその辺りにたむろしていたようだった。
やがて狭い部屋の中に流行りの歌のイントロが大きく流れ、ピアスの彼が右手でマイクを握った。
「転校生、次はお前の番だぞ。何を歌うかちゃんと決めておけ」
その声がマイクを通して部屋の中に響くと、西島くんがカラオケのタイトルの載った本を僕に渡してくれた。
彼は終始笑顔を絶やさなかった。
僕は戸惑いながらもその重い本をテーブルの上で広げ、その中から自分の歌えそうな曲のタイトルを探し始めた。
この時は隣に座る西島くんも身を乗り出して本の中身を見つめていた。
微かに頬に触れる金色の髪は、とってもいい匂いがした。
午後7時。カラオケボックスを出た僕は人気のない道を西島くんと一緒に歩いていた。
他の3人は少し前に僕たち2人と別れていた。この時外はまだ明るかった。
僕たちは3時間もの間歌い続けた後だった。そのせいで少し喉が痛かった。
「今日は無理に付き合わせて悪かったな」
西島くんは少し申し訳なさそうにそう言った。真夏の温い風が、彼の金色の髪を少し揺らしていた。
「ううん。楽しかったから、いいよ」
僕は隣を歩く彼の顔を見上げて本心を打ち明けた。細身の西島くんは僕より10センチぐらい背が高かった。
「歌がうまいんだな」
お世辞と分かっていたけど、彼にそう言ってもらえると素直に嬉しかった。
ずっと1人ぼっちだった僕は、誰かと一緒にいられるだけでも十分嬉しかったんだ。
「西島くんだって上手だよ」
僕はお世辞ではなく彼にそう言った。
西島くんはとってもいい声をしていた。普段話す時の声はかなり低いけど、歌う時の彼の声は高くて透き通っていた。
だけど彼は褒め言葉にはまったく反応を見せず、苦笑いをしながらこうつぶやくだけだった。
「西島くんって呼ばれると体中がかゆくなる。皆と同じように名前で呼んでくれよ」
彼が俯き加減でそう言った時、僕はその言葉に少し違和感を覚えた。
たしかに一緒にカラオケボックスへ行った皆は彼の事を "凛" と呼んでいた。
でもクラスメイトたちは彼の事を "西島くん" と呼んでいたんだ。
もしかして……彼はクラスメイトから苗字で呼ばれるたびに複雑な思いを抱いていたんだろうか。
ふとそんな考えが頭に浮かんだ時、僕は彼に親近感を抱いた。
恐らく凛にとって教室は居心地のいい場所ではなかったんだ。それは僕も同じだったから、彼がとても自分に近い存在に思えた。
「じゃあ、僕の事もちゃんと名前で呼んで。僕の名前は "転校生" じゃないんだから」
彼を見上げてそう言うと、凛は俯いたままぎこちなく微笑んだ。僕の目に映る白い頬と金色の髪は、彼の歌声のように透き通って見えた。
凛は僕の歩幅に合わせて埃っぽい道をゆっくりと歩いていた。
前方にガラス張りのペットショップが見えてくると、子犬の鳴き声が風に乗って聞こえてきた。
「もうすぐ夏休みだな。お前、どこか行く予定でもあるのか?」
ペットショップの前を通り過ぎる時、彼のその声と子犬の鳴き声が重なった。
凛の優しい目はペットショップの奥へと向けられていた。僕は彼に "お前" と呼ばれた事が嬉しかった。
薄明るい日差しがとても心地よかった。遠くの雲が綿菓子のように見えた。僕は凛と2人きりでいる時の空気がとても好きだった。
「予定なんか、何もないよ」
石ころを蹴ってそう言うと、凛がズボンのポケットからタバコとライターを取り出した。
彼は細長いタバコを1本口にくわえ、慣れた手つきでその先端に火をつけた。彼の持つライターの火も、金色の髪も、温い風に揺れていた。
「じゃあ、一緒に海でも行くか?」
凛は白い煙を吐きながらそう言って僕を誘った。
「うん!」
間髪入れずに返事をすると、僕の声があたり一面に大きく響き渡った。
僕は彼の吐き出した白い煙が空気に溶けていく様子を漠然と見つめていた。その後彼は火のついたタバコをそっと僕に差し出した。
僕は周りに人がいない事を確認し、すぐにタバコを口にくわえてみた。そのフィルターは、ほんの少しだけ湿っていた。
凛と同じように白い煙を口から吐き出すと、その煙はすぐに空気に溶けていった。
凛、僕はこの時すごく嬉しかったんだ。
転校してから初めて友達ができて、本当にすごく嬉しかったんだよ。