2.
その日家へ帰ると、もう家族は食事を食べ終えていた。
リビングには両親と妹が揃っていて、皆はテレビのクイズ番組を見て盛り上がっているようだった。
「純也、お帰り。ご飯食べるでしょう?」
カーペットの上に座っていた母さんは僕を見るなりそう言って立ち上がった。
父さんと妹はソファーに並んで座り、テレビを見ながら夢中になってクイズの答えを言い合っていた。
この時リビングには家族の明るい声が響いていた。
母さんがキッチンへ消えると、やがておいしそうな香りが僕の鼻をついた。
テレビがCMに入ると、ソファーに座っていた妹が満面の笑みで僕を見つめてくれた。
「お兄ちゃん、お帰りなさい」
妹の声は弾んでいた。少し腫れぼったい一重の目もキラキラと輝いていた。由佳は恐らくもうつらい時期を乗り越えたのだろう。
僕は肩から下げていたスポーツバッグを下ろし、今まで母さんがいた場所に座ってテレビを見つめた。
母さんが座っていた場所は、とても温かかった。
それが何のCMなのかはよく分からなかったけど、テレビの画面には青い海と輝く太陽が映し出されていた。
僕はその時凛と過ごす夏休みに思いを馳せていた。
やがて目の前に大好物のハンバーグが乗った皿が運ばれてきて、今日はすごくツイてると思った。
この夜は久しぶりに家族全員がハッピーだった。
夏休みに入ると、僕と凛は早速海へ出かけた。
彼と2人でバスに乗る事30分。開け放たれた窓の外から潮の香りが漂ってくると僕はすごくワクワクした。
気温32度。空は快晴。しかも夏休みという事もあって、砂浜には大勢の人が溢れていた。家族連れも多かったけど、若い男女も多かった。
バスを降りた僕たちは白い砂浜を埋め尽くす人の隙間に狭いスペースを見つけ、そこにビニールシートを敷いてまずは腰を下ろした。
凛は32度の暑さに耐え切れなかったようで、それからすぐに洋服を脱ぎ始めた。
「暑いなぁ。早く海に入ろうぜ」
彼はそう言って青いティーシャツを脱ぎ捨て、シートの上に腰掛けたままベージュのカーゴパンツを足首のあたりまでずり下ろした。
凛はその下に膝丈ぐらいの黒い海パンをはいていた。まだ日に焼けていない彼の肌は真っ白で、その足はすごく長かった。
僕はこの時彼の左足に注目していた。その真っ白なふくらはぎには縦に長い傷跡が存在していた。
その赤っぽいラインは足首から膝の手前までずっと続いていた。
「お前何してるんだ? 早く脱げよ」
凛は太陽に目を細めながらそう言って僕を急かした。
あたりには波の音と人々の話し声とどこからか流れてくる歌謡曲が同じぐらいの大きさで響いていた。
そして色とりどりの水着を着た人たちがそこいら中を歩き回っていた。
「早くしろ。俺はすぐ海に入りたいんだよ」
やがて凛は僕のポロシャツを頭の上から乱暴に抜き取った。上半身だけ裸になった僕は、慌てて少し太めのジーンズを脱ぎ捨てた。
「よし、行くぞ」
彼はスッと立ち上がり、人ごみをかき分けながら青い海へ向かって走っていった。そして僕もすぐにその後を追いかけた。
白い砂浜はとても熱くて、その上を歩くと足の裏が焼け付くようだった。
この時僕は前を行く彼の背中をじっと見つめていた。
真っ白な背中の右端にはふくらはぎにあったのと同じような傷跡があった。
そのラインはそれほど長くはなかったけど、傷跡はやはり痛々しかった。
「気持ちいい!」
海に入ると、凛は金色の髪を輝かせてそう叫んだ。やっとの思いで凛に追いつくと、僕は彼の手ですぐ海に沈められた。
慌てて水から顔を上げると、凛がずぶ濡れになった僕を指さして大声で笑っていた。
彼があまりにも大きな声で笑うから、周りで水遊びしている女の子たちにまでクスッと笑われてしまった。
「もう少し深い所まで行ってみよう」
やっと頬にしたたる海水を両手で拭い去ると、凛はそう言ってどんどん深い所へ進んでいった。
そして僕は傷付いた彼の背中を追いかけた。
「凛、待ってよ」
しばらく彼を追いかけていくと、そのうち僕は肩の上まで水に埋まった。
そのあたりはかなり深かったから、もう僕らの周りにはまったく人の姿がなかった。
でも僕より背の高い彼はもっと深みへ足を踏み入れようとしていた。
「ねぇ、待って。もう足が付かなくなりそう」
僕は打ち寄せる波をかろうじてよけながら砂の上につま先立ちをしていた。
時々大きな波がやってくると、口の中へ水が入りそうになった。
その時、前を行く彼がやっと振り向いてくれた。風になびく金色の髪は半分ぐらい濡れていた。
「あとちょっとだけ。限界まで行ってみたいんだ」
凛が優しく微笑むから、僕はもう何も言えなくなった。彼は背中に太陽をいっぱい浴びながら水の中で僕の手首を掴んだ。
「大丈夫。もう少し行けるよ」
凛がそう言って再び背を向けると、僕は言い知れぬ不安に襲われた。
その不安がどこからくるものかは分からなかったけど、とにかく凛をこれ以上行かせてはいけないような気がした。
そして僕は彼の真っ白な背中に飛び乗った。傷付いた細い背中に、勢いをつけて飛び乗った。
凛の背中に掴まると、耳のすぐそばで波の音が聞こえた。照りつける太陽の光がとても熱かった。
嫌でも目に入る背中の傷は、どんな時でも痛々しかった。
「バカ、重いよ!」
その声が聞こえた後、凛はバランスを崩して海に沈んだ。それはもちろん僕も一緒だった。
その後僕らは大きな波にのまれ、水の中でもう一度大きく体のバランスを崩した。
やっとの思いで水から顔を出すと、金色の髪をたっぷり濡らした凛が目の前にいた。
彼は海水が目に入ったらしく、両手でゴシゴシと細い目を擦っていた。
「バカヤロー、目が痛いじゃないかよ」
泣いている子供のような仕草をする彼を、真夏の太陽が照らしていた。
謝ろうと思って彼に近づくと、僕はまた凛の手で海に沈められた。
帰りのバスに飛び乗ったのは夕方5時過ぎの事だった。
この頃海水浴客はほとんど砂浜の上から消えていた。夕方になってもまだ泳いでいるのは海辺でキャンプをする人たちのようだった。
5時過ぎのバスに乗ったのは僕たち以外に5〜6人しかいなかった。
僕と凛は後部座席の窓際に座ってすぐに窓を開け、外の風を浴びて日に焼けた腕を見せ合った。
6時間もの間太陽の下にいたせいで、僕たちの肌は本当によく焼けていた。
「少しヒリヒリするな」
凛は自分の真っ黒な腕を見つめて軽く顔をしかめた。この時すでにその顔も真っ黒だった。
「なかなか進まないな」
その後彼は窓から外を見つめて小さくそう言った。海岸通りは渋滞していて、車もバスもノロノロと走る事しかできなかった。
窓の外から入ってくる潮風が名残惜しかった。僕はこの時楽しい時間が終わってしまう淋しさを感じていた。
ずっと友達のいない生活をしていた僕にとって、この日はとても大切な思い出となった。
凛と2人の時間はとても楽しくて、穏やかで、これでやっと元の自分に戻れそうな気がしていた。
僕はバスがなかなか前へ進まない事を歓迎していた。1分でも1秒でも長く凛と2人でいる時間を延ばしたかったからだ。
この後凛はしばらく窓の外を眺めていた。そして僕も少しの間彼の目線を追いかけていた。
遠目に見える海は夕方の太陽が反射して白く光っていた。砂浜に残された人々の姿は、アリンコのように小さく見えた。
やがてなかなか進まないバスの中で2人の女の子たちが騒ぎ始めた。彼女たちは若い母親に連れられている姉妹のようだった。
幼稚園児に見える2人はお揃いの白いスカートをヒラヒラさせながら奇声を上げて車内を走り回っていた。
小柄な母親は荷物を抱えて前の方の席に座っていた。
彼女は疲れていたようで、娘たちが騒ぎ出してもまったく気にせずに居眠りをしていた。
その様子を見ていると、なんだか僕まで眠くなってきた。
瞼が重くなると、元気そうに走り回る女の子の姿が時々視界から消えた。そして2人の明るい笑い声がだんだん耳から遠ざかっていった。
眠りに落ちる瞬間の気持ちよさが体中を駆け巡り、やがて頭がガクン、と前のめりになった衝撃で顔を上げる。
いったい僕は何度それを繰り返しただろう。温かい日差しに包まれてウトウトするのは最高に気持ちがよかった。
僕がこの気持ちよさを体験するのは久しぶりだった。
1人ぼっちの教室では、机に顔を伏せても周りの騒音が気になって眠れた試しがなかったからだ。
でもこの時は女の子たちの笑い声が子守唄のように聞こえた。とっても不思議だったけど、僕は本当にそう感じていた。
やがて僕は、凛の優しさに触れた。
僕が夢うつつな状態の時、凛の手が僕の肩を抱いてそっと自分に引き寄せたんだ。
すると、頬の向こうに凛の温もりを感じた。彼は自分の肩を枕にして僕が眠れるように仕向けてくれたのだった。
僕はちゃんと頭の位置が固定され、それからやっと熟睡する体制に入る事ができた。
薄れ行く意識の中、すぐそばに凛の存在を感じた。瞼の向こうには太陽の明るさを感じた。窓から入り込む潮風はとても涼しかった。
凛の温もりは僕をほっとさせてくれた。こんなに安心して眠るのは本当に久しぶりの事だった。
凛と出会った事で、いつもの夏休みが戻ってきた。
僕はほとんど毎日彼と遊んでいた。凛は新しい町に慣れていない僕をいろいろな所へ連れて行ってくれた。
海だけではなく、バッティングセンターとか、映画館とか。
そんな日々が続くと自分が転校生である事を忘れるようになったし、
凛とずっと前から友達だったような錯覚に陥る時もあった。この頃僕はやっと新しい環境に馴染めそうな気がしていた。
でも僕のその思いは、いつも不安と隣り合わせだった。
ある日僕たちはバッティングセンターへ行った後コンビニの前でくつろいでいた。
僅かな日影を見つけてアスファルトの上に腰掛けると、お尻の下が冷たくてとても気持ちがよかった。
この時僕たちは2人ともソーダ味のアイスキャンディーを頬張っていた。この日も外は暑くて、僕たちは生温い風に吹かれていた。
青い空を見上げると、午後の日差しが目に沁みた。
凛はアスファルトの上にジーンズをはいた足を投げ出し、白いティーシャツの袖口で顔の汗を拭っていた。
気温が高いためにソーダ味のアイスキャンディーはすぐ溶け始めてしまった。
僕も凛も溶けたアイスの雫をアスファルトの上に落としながらただぼんやりとしていた。
僕らの数メートル前には広い道路が存在し、そこには絶えず車が行き来していた。
「車の中は涼しいんだろうな」
隣にいる凛は少しつまらなさそうな声でそうつぶやき、鼻の頭に浮かぶ汗をまたティーシャツの袖口で拭き取った。
凛がつまらなさそうな時、僕はいつも不安を感じていた。
アイスキャンディーを食べ終わると彼はジーンズのポケットからタバコを取り出し、それを1本口にくわえてライターで火をつけた。
その光景はもう見慣れていた。彼は日常的にタバコを吸っているようだった。
凛が口からタバコの煙を吐くと、太陽の日差しの中を白い煙が舞っていた。それは温い風と混じり合って空気に溶けていった。
僕がその様子を目で追っていると、凛は火のついたタバコを右手でつまんで僕に差し出した。
彼は一度煙を吐き出した後こうしていつも僕にタバコを回した。
少し湿ったフィルターに唇を寄せると、僕は少しだけドキドキした。
髪の長い2人の女の子が僕らに近づいてきたのは、火のついたタバコを凛に返した直後の事だった。
彼女たちはどこからか突然現れ、いきなり僕らの目の前に立ちはだかったのだった。
その2人はよく似たタイプの人たちだった。その人たちの姿を見た時、海から帰るバスの中で騒ぐ姉妹の事を思い出した。
2人とも髪が長く、白い半そでのブラウスを着ていて、更にベージュのミニスカートまでお揃いだった。
それはどこかの学校の制服のようだった。パッと見た感じでは、2人は僕らと年が近いように思われた。
温い風が2人のミニスカートを揺らすと、目の前に太ももがチラついてかなりハラハラした。
2人は化粧をほどこした大きな目で僕らを見下ろし、やけにかん高い声で話しかけてきた。
「こんな所で何してるの?」
「ヒマなら遊びに行かない?」
見知らぬ女の子に突然そう言われ、僕はすごく驚いていた。
僕にはこんなふうに女の子に声をかけられた経験が一度もなかったからだ。
僕は少し動揺して思わず下を向いた。するとその時、女の子のはいている黒い革靴にてんとう虫がとまったのが目に入った。
それからすぐに僕の視界が白い煙で埋まった。凛を見つめると、彼は表情もなくただ黙ってタバコをふかしていた。
僕はすべての対応を凛に任せる事にした。凛はもてそうだし、女の子の扱いに慣れていると思ったからだ。
目の前の2人が凛を気に入って僕らに近づいた事は明らかだった。その証拠に2人の女の子たちはじっと凛の姿を見つめていた。
僕はその後の事を彼に一任したけど、できれば2人を追い払ってほしかった。
やがて凛は2人を見上げ、目尻を下げて軽く微笑んだ。でもそれが作り笑いである事に僕はちゃんと気付いていた。
「おねーさん、俺たち中学生だよ」
凛はミニスカートの2人にたった一言そう言った。
すると2人はびっくりしたような顔をしてお互いの目を見つめ合った。
凛は作り笑いを崩さぬままじっと目の前の2人を観察していた。彼の金色の髪は温い風に揺られていた。
よくは分からないけど、凛の放った一言は2人を追い払うのに効果的だったようだ。
少し間が空いた後、凛の前に立っている女の子がちょっと気まずそうにこう言った。
「そっか。大人っぽいから中学生だと思わなかった。じゃあ……またね」
その後僕はそそくさと走り去っていく2人の背中をぼんやりと見つめていた。その時凛はまだタバコをふかしていた。
2人が去った後、僕たちの間に短い沈黙が流れた。僕はその間に何台もの車が道路を駆け抜けていくのを見た。
凛が火のついたタバコをアスファルトの上でもみ消した時、やっとしばしの沈黙が途切れた。
この時彼は僕の顔を見てにっこり微笑んだ。その笑顔に嘘がない事は僕自身が1番よく分かっていた。
凛は黙っているとキリッとした印象だけど、笑うととても優しく見えた。
凛の顔は日焼けして真っ黒で、渇いた唇の奥に浮かぶ歯が真っ白に見えた。
「今の2人、徹と同じ高校の制服を着てたな。夏休みなのにどうしてだろう」
「徹って?」
「この前一緒にカラオケに行っただろ? 耳にピアスをしてたのが徹だよ」
僕はその時、ピアスの彼の名前を初めて知った。そして彼が高校生である事も同時に知った。
「お前、童顔だよな。小学生に間違えられないか?」
少し間を置いた後、彼が口にしたセリフはこれだった。
凛が冗談でそう言った事はよく分かっていた。彼の目は優しく微笑んでいたし、その口調もすごくおどけていたからだ。
でも僕はその言葉に少しショックを受け、しばらく俯いて白いスニーカーをはいた自分のつま先を眺めていた。
するとそこにまたてんとう虫がとまるのが見えた。
その時、ふとある思いが頭をよぎった。
凛はもしかして本当は女の子と遊びに行きたかったのかもしれない。
もしかして一緒にいたのが徹という人だったら女の子の誘いに乗ったのかもしれない。
普段高校生と仲良くしているような彼にとって、僕と2人でいる時間は退屈なものだったのかもしれない。
彼が時々つまらなさそうな顔を見せるのは、全部僕のせいなのかもしれない。
「凛、本当は女の子と遊びに行きたかった?」
僕は顔を上げずにそう言った。それを言う時僕はどうしても彼の顔が見られず、小さなてんとう虫の姿を目で追っていた。
僕の問い掛けに凛が頷かない事はよく分かっていた。ただ僕はその瞬間に凛が作り笑いを見せる事がすごく怖かった。
「まさか。あんなブス、興味ないよ」
凛がそう言った時、つま先に滞在していたてんとう虫が突然飛び去った。この時僕はすごく不安を感じていた。
今の僕には凛しかいない。
凛が僕といる事に退屈してしまったら、僕はまた1人ぼっちになってしまうかもしれない。
凛が誰かに恋をしたら、彼はもう僕を構ってくれなくなるかもしれない。
僕には凛しかいないんだから、僕も彼にとってたった1人の存在でありたかった。
凛が他の人に目を向けるのはどうしても嫌だった。
すごくわがままな言い分なのは分かっていたけど、それが僕の本心だった。
「ごめん。俺、何か悪い事言った?」
僕が顔を上げられずにいると、凛が張りのない声でそう言った。
その声にハッとして顔を上げると、彼の心配げな顔がすぐ近くにあった。凛は眉を寄せて表情を曇らせ、僕の返事を待っているようだった。
僕はその顔を見た時すごく動揺した。凛は自分が口にした何気ない一言が僕を傷つけたと思っているようだった。
でもそれは少し違っていた。凛はちょっと冗談を言っただけで、そんな事にいちいち過剰反応する僕の方がいけないに決まっていた。
『そんな事ないよ。凛は何も悪くなんかないよ』
すぐにそう言いたかったのに、胸が苦しくてどうしてもその思いが言葉にならなかった。
早く何か言わないと凛が気を遣う。それは分かっていたのに、この時僕は何も言えなかった。
そして何も言えない事でますます不安を感じるようになった。
やがて僕は、もう一度凛の優しさに触れた。
僕が大きな不安に襲われている時、不意に凛の手が僕の髪をそっと撫でた。
凛の指の感触が頭皮に伝わると、その温もりが僕を少しだけほっとさせた。
それからすぐ後、僕の耳に突然驚くような言葉が飛び込んできた。
「お前はきっと、髪を明るい色に染めたらもっとかっこ良くなるぞ」
僕はそんなふうに言われてドキドキした。
戸惑いがちに彼を見つめると、凛は真っ白な歯を見せてにっこり微笑んだ。
その笑顔に決して嘘はなかった。僕は凛とずっと一緒にいたから、そのぐらいの事はちゃんと分かった。
金色の長い髪と、優しい目と、渇いた唇。そのすべてが、ちっぽけな僕をドキドキさせていた。