5.

 凛は決してそこから逃げたりはしなかった。
彼はひとしきり泣いて……1年前の出来事についての心の整理をしたように思えた。
凛の涙が乾くまでにそれほど長い時間はかからなかった。
彼はすごく強い人だから。きっと、いつも前を見つめている人だから。

 風が止んで、木の葉のざわめきも止んで、丘の上には静寂が流れていた。
涙の乾いた凛は顔を上げて曇った夜空を見つめていた。彼の横顔はきりっとしていた。
きつく結んだ唇と力強い目つきを確認した時、凛がいつもの彼に戻った事を僕は知った。 僕は彼の肩を抱く右手をそっと離して凛の温もりを放棄した。
外灯の白い光に照らされる凛はその瞬間に僕を見つめて何かを言おうとした。
それに気づいた僕は彼の言葉を聞く準備を始めた。でもその時凛の携帯電話が鳴り出し、丘の上の静寂は失われた。

 「はい、もしもし」
凛はジーンズのポケットから白っぽい色の携帯電話を取り出し、僕ではなく電話の相手に向かって言葉を投げ掛けた。
彼の声は冷静そのものだった。
「あぁ……うん」
凛は芝生の上に伸ばしていた両足の膝を折り、体育座りをしてしばらく電話の向こうの誰かと会話を続けていた。
彼の左手は携帯電話を握り締め、右手はしきりに金色の髪をかき上げていた。
「ごめん。俺は行けない」
僕は凛のサラサラな髪に見とれながらそのセリフを聞いた。 彼が誰かの誘いを断っているのは僕のせいだという気がした。
「今一緒にいるよ」
その後携帯電話を耳に当てた凛が僕を見つめて電話の相手にそう言った。 この時僕は凛に電話をしてきたのが徹くんである事を悟った。
僕を見つめる凛の目がすごく優しかったから、僕は電話中の彼に笑顔を返した。
「分かった。うん、分かってるよ。じゃあな」
それほど長くない電話が終わると、凛は携帯電話をジーンズのポケットへしまい込んですぐに立ち上がった。
彼はすごく穏やかな表情をして僕を見下ろしていた。
「汗が乾いて寒くなってきた。そろそろ帰ろうぜ」
そう言われた途端、僕の胸にわずかな痛みが走った。
正直言って家へ帰るのはすごくユウウツだった。でも凛はきっと何も言わなくても僕のそんな気持ちを分かってくれていた。
「お前、今日は俺の家に泊まれよ。家出してきたんだから一晩ぐらい外泊しないと格好が付かないだろ?」
僕を見下ろす凛の髪が彼の右手でサッとかき上げられた。そしてその手はすぐ芝生の上に座り込む僕へと向けられた。
「ほら、立てよ」
凛の頭の上には真っ白な月が見えた。
目の前にかざされたその手は僕に掴まれる事を待っていた。その手を両手で握り締める瞬間は、すごくドキドキした。

 僕らは鬼ごっこをして駆け回った住宅街の道を今度はゆっくりと歩いた。道の左右に並ぶ家の窓にはまだ時々明かりが灯っていた。
「2時か」
凛は歩きながらもう一度携帯電話を持ち出し、その液晶画面の表示で今の時刻を確認した。
彼の手の中にある白っぽい携帯電話を見つめた時、僕は少し心に引っかかるものを感じてその事を率直に口にした。
「さっきの電話、徹くんから?」
「あぁ」
「徹くんの誘いを断ったのは僕のせい?」
風の吹かない住宅街には僕たち2人の足音が小さく響いていた。
ゆっくり隣を歩く凛は間をとるためかタバコを1本口にくわえた。
静かな住宅街にライターのカチッという音がこだまし、小さな炎が彼のくわえるタバコを熱くした。
「さっき、お前に言いそびれた事があるんだ」
凛は口から真っ白な煙を吐き出し、真っ直ぐ前を見つめてそう言った。見上げた彼の横顔は決して笑顔ではなかった。
僕はこの時彼が何を言い出すのか分からずドキドキしていた。
「俺、1年ダブってるんだ」
「え?」
「ケガをした後ちゃんと歩けるようになるまで半年ぐらいかかった。その間はずっと病院暮らしで学校に行けなかったんだよ」

 その告白は僕にとって驚くべきものだった。でもその反面彼の告白により妙に納得した部分もあった。
凛が他のクラスメイトとまったく違った雰囲気を持っていたのは、きっと彼が皆よりずっと大人だったからだ。
凛が時々兄貴のように思えたのは、彼が僕よりずっとずっと大人だったからだ……
彼はその時僕にタバコを差し出す事がなかった。
凛は湿ったフィルターを口にくわえ、今の自分の思いを淡々と語った。
「1つ年下の同級生は昔の俺を知ってるから、誰も俺には近づかない。 徹はその事を分かってるから、気を遣っていつも俺を遊びに誘ってくれるんだ。 でも俺はその事がずっと苦しかった。 こんな俺にもなんとか友達ができたし、徹とは少し距離を置いた方がいいと思うんだ。 あいつは高校へ進学して、そっちの付き合いもあるだろうし……」
僕はこの時まで凛と徹くんが同じ年だという事を知らなかった。
凛と徹くんは、去年までは同級生だったんだ……

 凛は自分の気持ちを率直に言っただけなのかもしれないけど、僕の耳には彼の言葉がすごく心地よく響いた。
それは、さっきは俺に近づくなと言った彼が僕と一緒にいてくれる事を決意したかのように思えたからだ。 そして彼が少しは僕を必要としてくれている事に気づいたからだ。
僕は転校してからずっと自分に自信をなくしていた。
心のどこかでなかなか友達ができないのは自分に問題があるからじゃないかと思っていた。
でもそれを認めるのが怖くて、僕を無理やり転校させた両親が全部悪いと思い込もうとしていた。
転校する前の僕には友達がいっぱいいた。転校しなければ、僕には今でもきっといっぱい友達がいた。 僕はそう思う事でなんとか自分を保とうとしていた。
でも今はそんなふうには思わない。
だって……僕は転校して凛と出会う事ができたから。
大好きな凛は、僕と一緒にいる事を選択してくれたから。
「カラオケに行く時、突然馴れ馴れしくして悪かったな。 あの時は俺にもちゃんと友達ができたって事を徹に見せ付けてやりたかったんだ。 だからお前が友達のフリをしてくれてほっとしたよ」
凛は軽く微笑みながらプカプカとタバコを吸っていた。 彼の指に挟まるタバコの先端は、暗い夜道に小さな光をもたらした。
僕はぼんやりと前を向いて歩き、凛と初めて話した時の事を思い出していた。

 スクールゾーンを外れた細い道。
肩のラインより少し長いサラサラな金色の髪。線の細いシルエット。そして、彼のかもし出す独特の雰囲気。
僕は彼の横を通り過ぎる随分前から凛の存在を感じ取り、その瞬間からずっと下を向いて歩いていた。
埃っぽい土の道には時々小さな石が転がっていた。 僕は下を向いて足元に転がる石の数を数えながらゆっくりとあの道を突き進んでいった。
「よぉ、転校生」
凛にそう声を掛けられた時、僕はすごくドキドキしていた。突然肩を抱かれた時は、もっとドキドキした。
友達のフリをしてくれた。凛はあの時の僕の様子をそう表現した。でも僕にはちっともそんな覚えはなかった。
優しい目をした彼が真夏の太陽の下で僕の肩を抱いた時、僕にはすでに彼と友達になれる予感があったように思う。
僕の肩に凛の手が触れた瞬間から、僕はもう凛と友達になれたと思っていた。
あの時の僕の振る舞いは、決して友達のフリをしたわけじゃない。僕はただごく普通に凛の友達として振る舞っていただけた。
凛、僕はあの時すごく嬉しかったんだ。
転校してから初めて友達ができて、本当にすごく嬉しかったんだよ。


 凛の家は静かな住宅街の東側に位置していた。
白くて真四角でこじんまりした家。凛の家は、そんな印象だった。
「遠慮しないで入れよ」
凛は玄関の白いドアを開けて僕を家の中へ招き入れた。
広い玄関の片側の壁の前には天井に届きそうなほど背の高い下駄箱が設置されていた。
凛の部屋は玄関の正面にある急な階段を上ってすぐ目の前にあるドアの向こうだった。
真っ暗なその部屋へ入った時は中の様子がよく分からなかったけど、凛がフットライトを灯すとフローリングの床の上にオレンジ色の淡い光が浴びせられた。 その光は天井に反射して部屋全体をぼんやりと照らした。
凛の部屋はそれほど広くはなかった。 ドアの正面に大きなベッドがあって、床の上には脱ぎ捨てた洋服が2〜3枚散らばっていて、奥には横幅の広い本棚が置かれていた。
そしてその本棚にはマンガの本がぎっしり詰まっていた。その様子を見た時、凛がいつも教室でマンガの本を読んでいた事をふと思い出した。
「これに着替えろよ」
凛はどこかから持ち出した衣服をドアの前に立つ僕に差し出した。柔らかい衣服にそっと鼻を寄せると、そこから凛の香りがした。

 彼が貸してくれたジャージのズボンはかなり長くて床を引きずった。薄めの生地のトレーナーも、袖が長くて両手が埋もれた。
「サイズが合わないな。でも我慢してくれよ」
凛は着替えを終えた僕の姿を見てクスクスと笑った。
優しげな細い目も、渇いた唇も、金色の髪も、なんとなくさっきまでとは違って見えた。
年上の同級生である凛は、僕よりずっと大人っぽく見えた。そして、彼に比べると自分がすごく子供のように感じた。
「布団に入れよ。寒いだろ?」
そう言って彼がベッドの上の掛け布団をめくり上げた時、僕は少し緊張した。 今夜僕は凛と一緒に眠る。その事を意識すると、何故だか少し体が熱くなった。
ベッドにピンと張られたシーツは淡い光でぼんやり照らされていた。
静かにベッドへ上がって仰向けになると、フカフカの枕の上で頭が沈んだ。 その後体が大きく揺れ動いたのは、凛が勢いよくベッドへ飛び乗ったからだった。
凛は僕の横に腰掛けてサッとティーシャツを脱ぎ、それからすぐにジーンズを蹴って床の上に投げ飛ばした。
彼の背中の傷がすぐそばに見えた時、僕の胸にまた小さな痛みが走った。
それから凛は僕の隣へ仰向けになり、僕と自分の体に柔らかい掛け布団を乗せた。 どうやら彼はいつも下着姿で眠っているようだった。
「今日は長い1日だったな」
凛がオレンジ色に照らされる天井を見つめて欠伸を噛み殺しながらそう言った。 その時僕は彼と同じように1日の長さを実感していた。

 眠そうな凛はベッドの上に1つしかない枕の端に半分頭を乗せ、僕に背を向けて体を横にした。 凛の長い髪は乱れた状態で枕の上に散乱していた。
横目で見ると、彼の背中の傷がすぐそばにあった。
僕は凛の方を向いて体を横にして、その背中の傷の上を人差し指でなぞった。
「くすぐったいよ」
彼は僕に背を向けたままそう言って小さく笑った。それでも僕は最後まで彼の傷跡の上をなぞった。
すると、僕の頭にある思いが浮かんだ。
凛は自分の孤独をこの傷のせいにした事があるのだろうか。
このケガさえしなかったら彼は今頃とっくに中学を卒業して何の迷いもなく徹くんと一緒に楽しい日々を送っていたのかもしれない。
僕が孤独をすべて両親のせいにしたように、凛も自分の淋しさを何かのせいにした事はなかったのだろうか……
僕はこの時、本気で想像した。
仲良しだった同級生は皆高校へ進学したのに、自分だけがまだ中学校の制服を着ている。
長年付き合っている友達と会って話しても、学校の話題はまったく噛み合わない。
1つ年下の同級生は自分に近づこうとせず、元の同級生はそんな自分に同情して気を遣ってくれる。 でも、どんなにもがいてももう彼らには追いつけない……
僕だったら、そんな日々に耐えられるだろうか。
凛と違って弱虫な僕なら、きっともうくじけて学校へ行けなくなっているのではないだろうか……

 それはすべてが僕の想像に過ぎなかった。 ただ僕は凛が何も言わなくても彼の苦しさを分かってあげられる人になりたいと思った。 たとえその想像が、彼の思いとはまったく食い違っていたとしてもだ。
凛は恐らくあまり人前で弱音を吐いたりするような人ではない。
でも感情を表に出さないからといって何も考えていないわけじゃない。きっと凛は、いつでも熱い思いを抱えているに違いない。
凛との出会いは僕が転校した事をプラスに変えてくれた。だったら僕も……凛がダブってしまった事をプラスに変えてあげたい。
僕は強くそう思い、淡い光を浴びる凛の背中に抱きついた。 彼は少しビクッとしたけど、決して僕の手を払い除けようとはしなかった。凛の乱れた髪が、僕の鼻を少しくすぐった。
「僕、ちゃんと凛に追いついたよ」
「……」
「凛がゆっくり走ってくれたから追いつく事ができたんだよ。凛がのんびりしていてくれたから、僕たち同級生になれたんだよ」
僕は彼に追いついた。本当ならすれ違っていたはずの彼にちゃんと追いついた。
妹が前の学校へ行けなくなったのも、その事で両親が僕たちを転校させたのも、きっと全部僕と凛が出会うための伏線だったんだ。
凛が傷を負ったのも、彼の病院暮らしが長引いたのも、きっと全部僕たちが出会うためだったんだ。
僕たちはたくさんの偶然を味方にして奇跡的に出会った。
僕はこれから凛にうんと優しくしてあげたい。そして彼にも僕と同じ気持ちになってもらいたい。
いつか凛に僕と出会ってよかったと言わせたい。 僕たちがもっともっと大人になった時、2人が出会った頃の事を彼と懐かしく語り合いたい。
目を閉じて大きく息を吸い込むと、僕の体の中が凛の香りでいっぱいになった。
すると僕はほっとして、ゆっくりと眠りに入っていけそうな気がした。
凛の香りはいつも僕を安心させ、背中から伝わる彼の体温はいつも僕を癒してくれた。
「お前の事大事にしろって、徹に言われたよ……」
眠りに落ちる瞬間、凛がボソッとそうつぶやいたような気がした。
でもそれは、もしかして夢の中の出来事だったのかもしれない。


 翌日僕たちはお昼頃に目が覚めた。その日の空はよく晴れていた。
僕と凛は午後からバッティングセンターへ出かけ、それからいつものコンビニの前に座り込んで数メートル先を走る車の列をぼんやりと見つめていた。
「昨夜は涼しかったのに、今日は随分暑いな……」
凛はアスファルトの上に長い足を伸ばし、けだるそうに右手で金色の髪をかき上げた。その時彼のうなじには汗が光っていた。
「ほら」
彼は飲みかけの缶コーラを僕に差し出した。あまりお金のない僕たちは、1つの缶コーラを分け合って飲んでいた。
「太陽が眩しい」
缶コーラを僕に手渡した後凛はそう言って頭の上に両手をかざし、目を細めて真っ青な空を見上げた。
空に輝く真夏の太陽は容赦なく僕たちを照り付けていた。
午後3時。外の気温は30度を越えていた。生温い風が僕らの頬を撫でていった。
凛は右手をうちわにして日に焼けた顔を緩やかに扇いでいた。でもそんな事で体の熱さが回避されるような事はなさそうだった。
「お前、今日は早めに帰った方がいいぞ。家出した後、親に連絡してないんだろ?」
手にした温い缶の中で、炭酸がシュワシュワと音を立てていた。
ユウウツだけど、いつかは家に帰らなければならない。
僕は凛に促され、輝く太陽の下でゆっくりと立ち上がった。

 凛は黒いティーシャツの袖口で顔の汗を拭きながら黙って僕と一緒に歩き出した。
僕の家へ続く道は長いアスファルトが続いていて、その上にはぼんやりと陽炎のようなものが見えた。
僕らは時々自転車に乗って走る無邪気な子供たちとすれ違った。道路を走る車はそれほど多くはなかった。
緑が眩しい街路樹が温い風に揺れ、頭の上で木の葉がサワサワと音を立てていた。
空へ向かってそびえ立つレンガ色のマンションが見えてくると、僕はすごく緊張してきた。
「お前の家、あのマンションだっけ?」
凛がレンガ色の壁を指差してそう言った。
僕は小さく頷き、帰ってから両親に何を言うかを必死に考えようとしていた。 だけど結局何も思いつかないうちにマンションの前へ辿り着いてしまった。

 マンション前の自転車置き場にはサドルが熱そうな自転車が10台ぐらい停まっていた。 僕はその中に母さんの赤い自転車をすぐ見つけた。
マンションの玄関ホールは薄暗く、壁にズラリと並ぶ集合ポストのほとんどに青い色のチラシが差し込まれていた。
ホール奥のエレベーターは、マンションの5階で止まっているようだった。
「1人で大丈夫か?」
凛は集合ポストの前で僕と向き合い、心配げな目をしてそう言った。
この時僕は大丈夫なんかじゃなかった。 無断外泊をするなんて生まれて初めてで……その後の処理をどうするべきなのか僕には全然分からなかった。
「俺も一緒に行ってやろうか?」
僕の不安を感じ取った彼は、そう言って渇いた唇を噛んだ。でも僕は大きく首を振ってその申し出をきっぱりと断った。
僕は昨夜決めたから。
僕も凛のように強くなるって……ちゃんと自分で決めたから。
「送ってくれてありがとう。僕は平気だから……凛はもう行って」
ちゃんとうまく笑えたかどうかは分からないけど、僕は笑顔で彼にそう言った。 それでも凛はまだ心配そうに僕をじっと見つめていた。
本当はこのまま時が止まってしまえばいいと思った。この時僕はこうして一生凛と見つめ合っていたいと思っていた。
「じゃあ俺は帰るけど、また親とぶつかったら1人で泣いてないで俺のところへ来いよ」
「うん。ありがとう」
彼の言葉に笑顔で応えると、凛が頬の肉を緩めて少しだけ笑った。
そして凛の右手の指が僕の頬をぎゅっとつねった。凛の体温が微かに頬へ伝わると、僕はそれだけですごく勇気が持てた。
もう僕には不安なんか何もなかった。僕には凛がいるから、怖いものなんか何一つなかった。
僕はこの町でやっと自分の居場所を見つけたんだ。
「じゃあまた明日、いつもの本屋で10時に会おう」
その申し出に頷くと、笑顔を見せていた凛の表情が急に真剣なものへと変わった。
凛は力強い目で真っ直ぐに僕を見つめ、はっきりとした口調でこう言ったのだった。
「俺たちの友情は永遠だからな」
それはどこかで聞いた事のあるセリフだった。
きっと凛の言葉に嘘はなく、彼の言い方は真剣そのものだった。でも僕は、永遠の儚さを知っていた。
「永遠なんて言わないで。ただ……明日も明後日もその次の日も、ずっと僕と一緒にいて」
僕の言葉を聞くと、凛が金色の髪を揺らして大きく頷いた。ゆっくり瞬きを繰り返す彼の細い目が、真っ直ぐに僕を見つめていた。

 その後凛は僕に背を向け、ガラスの自動ドアから太陽の下へ飛び出した。
僕はその黒い背中が見えなくなるまで見送った。
この時僕は凛に言いそびれた事があった。
でもそれはもう少し後になってから彼に伝えればいいと思っていた。
僕と凛はこれからもずっと一緒だから。僕たち2人の時間は、ずっとずっと長く続くから。


 812号室。僕の家のドアの色は、涼しげなアイスブルーだった。
冷たい取っ手を掴んでゆっくり右へ回すと、ドアはいとも簡単に開いた。
マンション特有の狭い玄関へ入ると、そこには母さんの黒いサンダルが両足揃えて置いてあった。
リビングの方からテレビの音が小さく響いていた。僕は靴を脱いで家に上がり、真っ直ぐにリビングへ向かった。
少しドキドキしながらリビングの薄いドアをそっと開けると、日当たりのいい部屋の明るさに目が眩んだ。
正面に見えるテレビの画面には若い女優の顔が映し出されていた。そしてソファーの向こうには白い洋服を着た母さんの背中があった。
この時母さんは乾いた洗濯物をせっせと折りたたんでいる最中だった。 母さんはいつものように茶色の長い髪を首の後ろで1つに束ねていた。 母さんが洗濯物を掴んでたたみ始めると、しっかりと束ねられた髪が白い背中の上でわずかな動きを見せた。
「ただいま」
ドアの陰に立って白い背中にそう言うと、母さんの手の動きがピタリと止まった。 母さんの小さな手も、茶色の髪も、僕の一言で急にまったく動かなくなった。
僕は母さんに伝える言葉を何も用意していなかった。なのにこの時はスラスラと滑らかに言葉が溢れ出した。
「母さん、ごめん。昨夜僕が言った事は全部嘘だから。僕は転校した事を後悔してないし、前の学校へ戻りたいなんて思ってない。 凛は僕の大事な友達だから、彼とはずっと付き合っていく。誰が何を言おうと、僕は凛と離れない」
リビングに入り込む太陽の日差しがとても眩しかった。
だから僕はそれだけ言ってすぐにその場を立ち去ろうとした。でもその時母さんに呼び止められ、僕はもう一度明るいリビングへ目を向けた。
「純也、携帯電話は持って歩かないと意味がないのよ。 昨夜はあんたと連絡が取れなくてお父さんも心配してたわ。携帯電話はちゃんと持ち歩きなさい」
母さんはそう言った後再び手を動かして洗濯物をたたみ始めた。母さんが手を動かすと、白い背中の上で1つに束ねられた髪がわずかに揺れた。
僕はリビングへ足を踏み入れ、テーブルの上に置かれた携帯電話をそっと手にした。
僕がそこを立ち去るまで、母さんは一度も振り向かなかった。

 日当たりの悪い自分の部屋へ戻ると、僕はすぐにベッドへ倒れ込んだ。
母さんとのほとんど一方的な話し合いを終えると、なんだか急に力が抜けた。
仰向けになって漠然と天井を見上げると、凛の心配顔が思い出された。
母さんと和解した事を彼にちゃんと伝えたい……
僕はそう思って携帯電話を開き、凛にすぐ電話をかけようとした。
するとその時携帯電話の液晶画面に着信メールのお知らせがある事を知り、まずはそのメールを開いてみた。
僕にメールをくれたのは、幼稚園の頃から付き合っていた親友だった。

純也元気か?
いろいろあってしばらく連絡できなかった。ごめん。
お前から全然メールがこなくてすごく心配だった。
今どうしてる? そっちではうまくやってるのか?

その短いメールを続けて3回読み返すと、胸が熱くなった。
永遠の友情を誓った親友は、決して僕の事を忘れたわけじゃなかったんだ。
今の僕にはちゃんと分かる。僕や凛にもいろいろあるように、きっと彼にもいろいろあったんだ……
僕は体を窓の方へ向けてサッと返信メールを打ち込んだ。その時僕の手は何故だか汗ばんでいた。

心配かけてごめん。
僕は元気だし、ちゃんとうまくやってるよ。
こっちではお前と同じぐらい大事な親友ができた。
それに、好きな人もできたよ。

終わり