4.

 外の風は冷たかった。
行き場を失った僕は、フラフラと歩いてついさっき凛に背を向けたコンビニの前へやってきた。
花火見物を終えた人たちはほとんど帰ってしまったようで、その時はもう歩道の上にもコンビニの店内にも人はまばらだった。 もちろんそこに凛の姿はなかったし、徹くんの姿も見当たらなかった。
この時僕は心細くてたまらなかった。
僕はもう家へ帰る事ができない。それにさっきの僕の態度に凛が怒っていたら、本当に学校へ行けなくなってしまうかもしれない。
その思いが僕の胸を圧迫し、苦しくてたまらなくなった。
これからどうしよう……
僕は曇った夜空の下で自分が今どうするべきかを考えた。その時最初に頭に浮かんだのは幼稚園の頃から仲良くしていた親友の事だった。
僕はジーンズのポケットに手を入れて携帯電話を取り出そうとした。
とにかく今すぐに誰かと話がしたかった。体中に襲い掛かる不安を、今すぐ誰かにぶつけたかった。 でもいくらポケットの中をまさぐっても携帯電話が指に触れる事はなかった。

 やがて僕は力なくポケットの中から手を取り出した。
どうやら僕は携帯電話を持たずに家を飛び出してしまったらしい。
はっきりと記憶に残っているわけではなかったけど、恐らく僕はカップラーメンを食べる際にテーブルの上かソファーの上に携帯電話を置いたのだろう。
コンビニの明るい光と道路を走り行く車のライトが歩道の上に立ち尽くす僕を容赦なく照らしていた。
僕はすごく心細くて、曇った夜空の下で子供のように泣いた。
目から溢れ出す涙はとても温かかった。でも頬に流れ落ちる涙はすぐに風で冷やされてしまった。
どうしよう。僕はいったいこれからどうしたらいいんだろう。
僕は心の中で何度もそうつぶやいた。
凛の香りがするパーカーの袖口で次々と頬に流れ落ちる涙を拭くと、やがて頭の中に彼の笑顔が浮かび上がった。 凛の優しい目とサラサラな金色の髪を思い出すと、今すぐ彼に会いたくなった。

 この町で僕が頼れるのは凛しかいない。
もしも凛が僕に背を向けたら、もう僕は本当にここにはいられなくなる。 だけどそれならそれでしかたがないという気がした。 凛を失ってしまったら、僕がここにいる意味なんかなくなってしまうような気がしたんだ。
潤んだ目でぼんやりコンビニの光を見つめると、店の前に設置してある黄緑色の公衆電話が目に入った。
僕はジーンズのポケットの中に小銭が入っている事を知っていた。凛の携帯電話の番号は、ちゃんと頭に入っていた。
今すぐ凛の声が聞きたい。今すぐ凛に会いたい。もしも彼が僕の事を怒っているのなら、ちゃんと彼に謝りたい……
1人ぼっちの僕を吹きつける冷たい風は決して僕の涙を吹き飛ばしてはくれなかった。 僕は頬に流れ落ちる涙をもう一度パーカーの袖口で拭き、すぐに公衆電話へ駆け寄った。
受話器を持つ手も、10円玉を握り締める手も、どちらも小刻みに震えた。 凛に電話をするのは、本当は少し怖かった。
彼が怒っていたらどうしよう。僕の電話が徹くんと楽しく遊んでいる彼の邪魔をしてしまったらどうしよう。
そんな不安が次々と僕の頭に浮かんでは消えていった。

 震える指で確実に凛の携帯電話の番号をプッシュする。
それが終わると、左手に持つ冷たい受話器の奥から無機質な呼び出し音が聞こえてきた。 そしてその音が5回を数えた時、僕の耳に凛の低い声が大きく響いた。
「もしもし」
凛の声を聞くと、しばらく止まっていた涙が復活してまた僕の頬を濡らした。
本当はいっぱい言いたい事があるのに、喉が詰まってすぐに声を出す事のできない僕がそこにいた。
じっと見つめる黄緑色の公衆電話が涙で滲んだ。背中の後ろには道路を走り去る車の音が途切れる事なく鳴り響いていた。
「純也?」
凛は何も言えずにいる電話の相手が僕である事にすぐ気づいてくれた。 彼がはっきりと僕を名前で呼んでくれたのはこの時が初めてだった。
「どうした? 家に帰ったんじゃなかったのか?」
「……母さんとケンカして家を出てきちゃった」
「お前、泣いてるのか?」
凛には僕の泣き顔が見えていないはずだったのに、彼は僕の涙にすぐ気づいた。 電話の向こうの彼は、僕の背後に響く音にもすごく敏感に反応した。
「車の音がするけど、どこからかけてる? さっきのコンビニか? あそこは公衆電話があったよな?」
僕は結局その電話でろくに何も話す事ができなかった。だけど凛は何も言わなくてもすべてを理解してくれた。 僕が1人ぼっちで泣いている事も。そして、今すぐ凛に会いたいと思っている事も。
「すぐ行くからそこを動くな。5分で行くから、絶対動くなよ」
凛はそう言って一方的に電話を切ってしまった。
僕は冷たい受話器を静かに下ろし、涙で濡れた頬を両手で拭った。
コンビニの中へ目を向けると、その明るさが泣き腫らした目に強く染み渡った。

 僕は以前凛とそうしたようにコンビニの前に座って数メートル先を行き交う車の列を眺めた。
あの時と違って外は寒かったから、僕は両手を擦り合わせて彼が来るのを待った。
耳に残る凛の声はとても優しかった。彼はちっとも怒ってなんかいなかった。
パーカーの袖口に鼻を寄せると凛の香りが僕を包み込んだ。するとその時、胸の奥に微かな痛みが走った。
僕がその痛みを感じるのは初めてではなかった。小学生の時初めて人を好きになった時、僕は小さな胸に今と同じ痛みを感じていた。
僕は膝を抱えて俯き、決して消えない凛の笑顔を頭に浮かべながら心の中でこうつぶやいた。
凛……僕、君の事を好きになってしまいそうだよ。

 それから5分もしないうちに、誰かの足音がアスファルトの上に響いた。
反射的に顔を上げると、車の黄色いライトが強烈に僕の目に突き刺さった。そして僕はその黄色の中に現れた人影を見た。
僕よりずっと背が高くて、細身で、金色の髪が眩しい彼。
僕はその人の影を見た時、すぐに立ち上がって彼に駆け寄った。 もう人の目なんかどうでもよくて、ただ彼を抱き締めたくて、僕は急いで凛のところへ走った。
「凛!」
彼の胸に抱きついた時、僕の体はその温かさに溶けてしまいそうな気がした。 背中に感じる彼の手と頬に触れる胸はまったく同じ温度だった。
「お前、体が冷え切ってるぞ」
凛が僕の耳に小さくそう囁いた。道路を走る車の音と凛の声がとても心地よく僕の耳に響いた。 きつく閉じた瞼の奥には黄色い光の中に立つ彼の影が色濃く残されていた。
「顔を上げろよ」
そう言われても、僕にはその勇気がなかった。
この時僕の顔は涙でグシャグシャになっていた。それが分かっていたから、どうしても顔を上げる事ができずにいた。

 「徹、俺こいつを送っていくから、悪いけど……」
凛がそう言った時、僕はびっくりしてようやく彼から離れた。
僕の頭にはもう凛の事以外何もなくて、彼が徹くんと一緒にいる事なんかその時まで全然気がつかなかった。
この時凛は僕の1メートル先に立って笑顔を見せていた。それは僕が頭に浮かべていたのと同じで、すごく優しい笑顔だった。
そして凛の2メートル後ろには胸にドクロのネックレスをした徹くんの姿があった。 恐る恐る徹くんの顔を見つめると、彼は凛と同じ目をして笑ってくれた。
僕は彼と目が合った時、凛に抱きついてしまった自分を初めて恥ずかしく思った。
「じゃあな、転校生。元気出せよ」
徹くんはそう言って僕に2度手を振った。彼はそれからすぐ僕らに背を向け、夜の闇に溶けていった。
歩道の上に残された僕は上目遣いにもう一度凛の顔を見上げた。その時、細身な彼の後ろを何台もの車が通り過ぎていった。 白や黄色の車のライトが、凛の姿を時々明るく照らした。この時彼は頬の肉を緩ませてにっこり微笑んでいた。
「家出してきたって事は、今日は帰らなくていいんだな? だったら遊ぼうぜ」
僕はそう言われた時、心に引っかかっていたものがすぐに消えてなくなる感覚を味わった。
凛の弾むような声が、落ち込んでいた僕の心を和ませてくれた。
そうか。家出してきたっていう事は、家に帰らなくていいっていう事なんだ。という事は、一晩中凛と一緒に遊べるっていう事なんだ……
彼はこうしていつも僕の心に光をさしてくれた。
転校した事をプラスに変えてくれたのは彼であり、僕の泣き顔を笑顔に変えてくれたのも彼だった。


 その後突然凛の細い指が僕の濡れた頬に触れた。彼の温かい手は僕の涙が冷え切る前にその雫をそっと拭き取ってくれた。
それから凛は意表をついた発言をして僕を驚かせた。でもその時彼は真顔だった。
「おい、鬼ごっこしようぜ」
「え?」
「こんな所に突っ立ってたら風邪ひくぞ。走れば少しは体が温まるだろ?」
ふと見ると、凛の腕には鳥肌が立っていた。彼は自分の両手でティーシャツから伸びる腕を擦り、寒そうに肩をすぼめていた。
「ほら、早く逃げろよ」
「え?」
「最初は俺が鬼だ。だから、早く逃げろ」
凛は渇いた唇を震わせていた。冷たい風が吹いて彼の金色の髪が大きく揺れ動いた。 コンビニの明るい光が、夜空の下で躍動する金色の髪をキラリと輝かせた。

 僕は、彼に背を向けて駆け出した。
この時僕はいったいどこへ行こうとしていたのだろう。
車通りの少ない道へ入ると、雲の切れ間から顔を出した月が僕の行く手を柔らかく照らした。
人気のない真っ直ぐな道の両側には一軒家が並び、その窓には時々明かりが灯っていた。
住宅街の静かな道は、この時僕たち2人だけのものだった。 薄暗い道に響き渡るのは僕と凛の足音だけだった。 彼の前を走る僕に凛の姿は見えなかったけど、背中の後ろに彼の足音が響くとそれだけですごく安心した。
凛、早く僕をつかまえて。
僕は心の中で何度もそう叫び、大地を蹴って、風を感じて、月明かりが照らす道をひたすら走り続けた。

 長く走り続けると僕はそのうちバテてきた。
額に浮かぶ汗が目尻の横を通り過ぎて頬へ流れ落ちてくるのが分かった。
凛の足音はどんどん僕に近づいていた。それでも僕は走り続けた。
大きな家の前を横切って右へ曲がり、電信柱の向こうの道を左へ曲がり、それからまたすぐに道を右へ曲がった。
そして背中の上を一筋の汗が流れ落ちていった時、僕はとうとう凛につかまってしまった。
「つかまえた!」
暗い道の真ん中で彼に右腕を掴まれた時、僕の心臓は大きく脈打っていた。
この時もう月は雲の陰に隠れていた。凛の早い呼吸が耳のすぐそばで聞こえた。
「お前……足早いよ」
振り返ると、肩で息をしている凛がすぐ後ろに立っていた。彼の息はすごく弾んでいた。
「バカヤロー。本気で逃げるなよ」
彼は少し苦笑いをしながら右手の指で僕の頬の肉をぎゅっとつねった。 そしてその指が僕の頬を離れた時、凛の細い目が僕の肩越しに見える物をじっと眺めた。
僕はすぐに後ろを振り返って彼の目線を追いかけた。凛の視線の先には白く輝く小さな光があった。 100メートルぐらい先の、家並みが途絶えたあたりの高い位置にその光は存在していた。
僕はもう一度凛の顔を見つめた。雲の切れ間から再び顔を出した月が、凛の細い目を淡く照らした。
その時凛は遠い目をして高い位置にある白い光を見つめていた。 冷たい風に髪が乱れても、凛はそんな事を気にする様子もなくただじっとその一点を見つめていた。
静かな住宅街に一瞬張り詰めた空気が走った。
僕は急に不安になり、凛の両手を自分の手できつく握り締めた。彼の手は大きくて、少し汗ばんでいた。
凛はハッとしてやっと僕の顔を見てくれた。でも彼の目は決して微笑んではいなかった。
僕は表情のない凛の目を見て言い知れぬ不安を感じ、静かな道の真ん中で彼の手をもっともっと強く握った。
僕はこの時絶対に凛を離したくないと思っていた。
今自分が彼の手を離したら、凛が1人でどこかへ行ってしまいそうな気がしていた。

 「凛……あそこに何があるの?」
遠慮がちにそう言うと、今度は凛が僕の手を痛いほど強く握ってくれた。 そして彼の手が僕から離れた時、凛は僕を白い光の下へ案内してくれた。
薄暗い道の両側に並ぶ家の前をゆっくりと歩き続け、その家並みが途絶えるとさっきは遠く見えた白い光がだんだん僕らに近づいてきた。
そこは住宅地の外れにある広場のような所だった。そこは全体的に白い光で薄く照らされていた。
平らな土地に短く刈られた芝生が100メートルぐらい続き、その奥の方には小高い丘があった。 丘の上には1本の大木が生えていて、その隣にはポツンと1つ白い光を放つ外灯が設置されていた。
僕と凛は広場の前で立ち止まり、高い位置にある白い光を2人で見上げた。
「ここ、何なの?」
「ちょっとした遊び場さ。 あの丘の上からダンボールに乗って滑り落ちるんだ。ここらへんに住んでるガキなら必ず一度はそうやって遊んだ事があるはずだよ」
彼の説明は簡潔なものだった。
丘の斜面はかなり急だった。でもそれ故に上から滑り落ちるとスピードがついて楽しそうに思えた。
「上まで行ってみるか?」
凛は僕が返事をしないうちにもう丘へ向かって歩き始めていた。僕は凛の腕をしっかり両手で掴み、彼と一緒に丘の方へと歩いていった。 この時彼の腕はとても冷たくなっていた。

 広場の平らな所にも、小高い丘の上にも、青々とした芝生が広がっていた。 時々芝生が擦り切れて土が見えているのは、凛の言うように子供たちがダンボールを使って斜面を滑り降りた跡だと思った。
「ここへ来るのは久しぶりだな」
丘の上へ行くと凛は大木に寄り掛かって地面に座り、芝生の上に長い足を伸ばした。 僕はこの時やっと彼の腕を離してその隣に腰掛けた。
誰もいない丘の上に座る僕たち2人は芝生と同じく白い光に照らされていた。
冷たい風が吹くと、頭の上で木の葉がサワサワと音を立てた。スッと息を吸い込むと、はっきりと緑の香りを感じた。
丘の上から斜面を見下ろすと、やっぱりそこは急に見えた。 広場の向こうには人気のない狭い道とレンガ造りの塀がぼんやりと見えた。
一息ついた凛はタバコを1本口にくわえた。彼は一度たっぷり白い煙を吐いた後、いつものように火のついたタバコを僕に差し出した。
湿ったフィルターを口にくわえると、一瞬母さんにタバコ臭いと言われた事を思い出した。
「親とケンカしたの、俺のせいだろ?」
凛が突然そう言ったのは、僕がタバコの煙を肺の中へ入れた瞬間の事だった。 その時僕は体内に入れた煙をうまく処理できず、思わずゲホゲホと咳込んでしまった。
「お前は嘘のつけない奴だな」
凛は口元を緩ませて笑い、丘の上で咳込む僕を見つめていた。
僕は早く咳を止めて彼の言葉を否定しなければならないと思った。 たしかに僕は凛の事で母さんとケンカしたかもしれないけど、あのケンカの本当の原因は別なところにあったからだ。
でも僕がそうする前に彼が自分の身の上話を始めてしまい、僕は結局大事な事を言いそびれてしまった。

 日焼けした凛の頬は白い光に照らされ、金色の髪は緩い風になびいていた。
彼の細い指は短い芝生をしきりに引きちぎっていた。
さっきまでサワサワと音を立てていた木の葉は凍り付いたかのようにおとなしくなり、その代わりに僕の心臓の音がドクンドクン、と大きく音を立てた。
急に静かになった木の葉は、僕と同じように彼の話に耳を傾けているかのようだった。
「あれはちょうど去年の今頃だった。 俺は徹と花火を見に行った後、夜中の2時頃あいつと2人でここにいた。 別に何をするわけでもなく、ただここで喋ってたんだ。 そうしたら俺たちと仲たがいしてた隣の中学の連中が突然現れて……奴らは5人で丘の上へ駆け上がってきた。 その後は当然のようにケンカが始まった。でも、こっちは2人で向こうは5人。あれはどうやったって勝ち目のないケンカだった」
凛は遠いところを見つめ、相変わらず短い芝生を指で引きちぎっていた。 彼は淡々と話をしていたけど、もしかして芝生を引きちぎる事で感情を押し殺していたのかもしれない。
「俺たちは取っ組み合いのケンカになった。 お気に入りのティーシャツは誰かに引っ張られて伸びたし、爪で引っかかれた頬はヒリヒリしてた。 そのうちに、5人の中の1人がナイフを持ち出したんだ。 白いナイフの光を見た時は正直言ってビビった。 向こうもこっちも熱くなってたし、あの時は本当にやばいと思った。 だから俺と徹はすぐに逃げようとしたんだ。 何度もつまづきそうになりながら丘を駆け下りて、広場の前の道へ出たところまではちゃんと覚えてる。 でもその後はもう自分がどうなったのか分からなかった。 とにかく体に何度か火傷のように熱い感触が走って、破れたジーンズの隙間から真っ赤な血がドクドク溢れてた。 自分がどうして地面に倒れてるのか分からなかったし、どうして砂を噛んでるのか全然理解できなかった。 俺は何も分からずただ地面を這いつくばっていた。 徹がすぐそばで俺の名前を叫んでた。 頭の横を誰かが走っていくのがなんとなく分かった。そいつらの足音はすぐに耳から遠ざかっていった。 その後、どこかから走ってきたバイクのライトが地面に寝転ぶ俺の目に突き刺さったんだ。 バイクの音が徹の声をかき消した。 そして、ほとんど感覚のない俺の左足にタイヤが乗っかった。 ぼんやりと頭に記憶されてるのはそこまでだ。 気がついた時は夜が終わっていて……病院のベッドで目を覚ました時は朝の光が眩しかった」
一気にそこまで話した後、凛は唇を噛んで俯いてしまった。
僕はその時彼の背中や足に長い傷跡があった事を思い出した。あれはきっと、ケンカの相手にナイフで切られた傷だったんだ。
「病院のベッドで目が覚めた時、腹と背中に激しい痛みを感じた。 でも足の感覚はなかった。 枕元に立つ若い医者は、俺の腹の傷が腹膜に達していたと言った。 それから俺にもう以前のようには歩けないかもしれないと言ったんだ」
凛は右手の指で前髪を引っ張り、自分の目を覆い隠そうとした。
彼の壮絶な体験は、僕には想像のつかないものだった。
ベッドの上で気がついた時、凛は最初に何を思ったのだろう。
医者から歩けなくなるかもしれないと言われた時、彼はどんな事を考えたのだろう。
鬼ごっこができるほどに足が回復するまでの間、凛はいったいどれほど努力をしたのだろう。
彼は今まで何回1人で泣いたのだろう。いったいどうやって心と体の痛みに耐えてきたのだろう。

 凛はそれからしばらく顔を上げようとしなかった。俯いて話し続ける彼の声は少し雲って聞こえた。
「でも、全部自業自得だ。 お前は転校生だから何も知らないかもしれないけど、俺はこのあたりでは有名な札付きの不良なんだ。 あの頃はケンカに明け暮れてたし、悪い事ばかりやってた」
「……」
僕はこの時何も言えなかった。それは凛の心の傷がまだ癒えていない事を感じ取ったからだった。
「今は夏休みだ。俺とお前が仲良くしてる事を同じクラスの奴らはまだ知らない。 だから今ならまだ間に合う。 お前はもう俺に近づかない方がいい。 俺と一緒にいたら、お前はきっとまともな連中とは付き合えなくなる」
凛の口調はきっぱりとしていた。前髪を引っ張って自分の目を必死に隠しながら、彼は僕にそう言った。
僕は凛や徹くんとは違う。凛がそんなふうに言ったのは、きっとこういう事だったんだ。
僕はこの時すごく悲しかった。
凛はすごく敏感なくせに、肝心な事は何一つ分かっていなかった。
今の僕には凛しかいない。彼の過去なんか、僕には関係ない。
今の凛がすごく優しいから、昔の彼がどうだってちっとも気にしたりなんかしない。
僕は誰よりも凛の事が大好きだった。だから彼の事を少しでも悪く言った母さんを許せなかった。
凛を失ってしまったら、僕がここにいる理由なんかなくなってしまう。 たとえ凛がダメだと言っても、僕は絶対彼のそばにいたい。
この先僕に100人の友達ができたとしても、その中に凛がいなければ僕はきっと1人ぼっちと変わらない。
凛と一緒にいる事で世界中を敵に回すなら、僕はそんな世界で生きていたくなんかない。
それでもこの世界で生きるしか方法がないのなら、僕は彼のたった1人の味方でいたい。

 僕は俯く彼の金色の髪に手を伸ばした。僕は一度でいいからサラサラなその髪に触れてみたかったんだ。
僕の手が彼の髪に触れると、凛がビクッとして顔を上げた。
凛の細い目は少しだけ潤んでいた。そしてティーシャツから伸びる彼の腕はとても冷たそうだった。
僕は彼の目を見つめてにっこり微笑んだ。でも凛は力のない目でぼんやりと僕を見つめるだけだった。
冷たい風が吹いて、また凛の髪が大きく乱れた。頭の上で木の葉がサワサワと音を立てていた。 スッと大きく息を吸い込むと、凛の香りが僕の体の中にいっぱい入り込んだ。
「ごめん。ここへ来るとあの時の事を思い出すんだ」
彼は細い指で零れ落ちそうになる涙をそっと拭った。
僕は彼のその様子を見た時、自分の胸に鈍い痛みを感じた。
僕は今まで自分だけが悲しみの中心にいるような気持ちでいた。でも、僕以外の皆にもきっといろいろあるんだ。
いつも明るい凛にも悲しい事がいっぱいあったんだ。 でもきっと……彼はその悲しみを優しさに変える強さを持っていたんだ。
この時僕は、自分も強くなりたいと思った。僕も凛のように強く優しくなりたいと思った。
できる事なら凛の心の痛みを半分引き受けて、彼を少しでも楽にしてあげたいと思った。

 「凛、早く逃げて」
僕は木の葉のざわめきを聞きながら彼の耳にそう囁いた。 風に揺れる木の葉の音は、僕の声をかき消す事もなくしだいに小さくなっていった。
「今度は僕が凛を追いかける番だよ。凛はちゃんと走れるようになったんだから、早くここから逃げて」
凛は何も言わずにまた俯いてしまった。
さっきまでしきりに芝生を引きちぎっていた彼の指が、今はしきりに零れ落ちる涙を拭っていた。
「僕はずっと凛のそばにいるよ。 どこまで逃げても僕は絶対に凛を追いかけるから。 僕はすぐに君をつかまえてみせるから。僕は絶対凛を離さないから。だから、安心してここから逃げて」
凛は両手の指で溢れ出る涙をずっと拭っていた。でも僕は彼の頬に涙が零れ落ちるのを何度も何度も見た。
凛は渇いた唇を噛んで遠慮がちに鼻をすすった。木の葉がサワサワと音を立て、凛の小さな泣き声をかき消した。
遠慮がちに抱き寄せた彼の肩は小刻みに震えていた。
僕たちの長い夜はまだ続いていた。