忘れられない人

 1.

 「ねぇ、今日家へ泊まっていく?」
バーを出た後、真知子が潤んだ目をしてそう言った。
きっと、付き合い始めて半年になる彼氏をそろそろ一人暮らしの部屋へ招 待しようと彼女なりに考え、酒の勢いを借り、少しの勇気を振り絞ってそ う言ったに違いない。
だけど俺は首を縦には振らなかった。振れなかったんだ。
「ごめん。俺明日の朝早いんだよ」
彼女の勇気を踏みにじる俺の言葉。
でも真知子はいい子だから、それ以上わがままを押し付けるような事はし なかった。
「そうか。じゃあしかたないよね」
彼女は笑顔でそう言った。いつものように白い歯を見せて、唇の端をキュッ と上げて。
「家まで送るよ」
俺は彼女の笑顔を見ているのが少し辛かった。
彼女は俺と離れるのが淋しいらしく、俺の腕に自分の細い腕を絡め、必死 に俺に寄り添っていた。

 金曜日の夜。11時を過ぎた繁華街には人がわんさかいた。
飲み屋が連なる大通り。視線の先にはギターを片手に歌うストリートミュー ジシャン。
そして、酔いつぶれて歩道の上に横たわるハゲ頭のオヤジ。
この時間、酒が入って妙にテンションの上がっている奴らがすごく多くなっ ている。
でかい声を張り上げて騒ぐ大学生風の男たちや、ナンパ男をじらすミニス カートの女。歩道の上にはいろんな奴らがいっぱいいた。
そして誰もが足元に倒れているオヤジの事なんか気にしない。

 「和ちゃん、好きだよ」
雑踏の中、真知子が悩ましげな目で俺を見上げ、小さくつぶやくようにそ う言った。
白いネオンに照らされた彼女の頬は少し火照っていた。
「俺も…好きだよ」
そう返事をすると彼女はにっこり微笑み、俺の腕を更に強く掴んだ。
彼女のサラサラな長い髪が秋の風に舞う。
くっきり二重の目はじっと俺だけを見つめ、濡れた唇は「キスをして」と 言いたげだった。

 タクシーに乗って真知子を送った後、俺は誰もいないアパートへ帰って 電気もつけず、コートも脱がずにベッドへ倒れこんだ。
頭が痛いのは酒のせいなのか…それとも真知子のせいなのか…
本当は分かってる。
全部 裕也のせいだ。そうさ。全部あいつがいけないんだ。
あいつのせいで、俺はコートを脱ぐ元気もないほどにまいってる。
俺は今夜、真知子にウソをついた。
明日は遅番だ。1時までに出勤すればいい。
だけど、俺は真知子を抱くのが辛かったんだ。

 俺は1人の部屋でベッドに横たわり、暗闇の中で自分が身に着けている 物をすべて脱いで次々と床の上に投げていった。
洋服が床の上に落ちるバサッという音をいったい何度聞いた事だろう。
コートからパンツまですべて床に投げつけて布団の中へ潜り込むと、自然 と目から涙が溢れた。

裕也…会いたいよ。
今すぐここへ来て。ずっと俺の側にいて。

 俺は彼の代わりに抱き枕をぎゅっと抱きしめた。
冷え切った部屋で俺を待っていた枕はやはり冷たくて、裕也の温もりとは 程遠いものだった。