青木家と倉辻家について
倉辻家がいい人達で本当に良かったなあと思います。なぜって、あの人達が舞を取り上げても、何もおかしくなかったから。
青木が彼らに恨み節を吐かれて、仇のように憎まれても、何もおかしくなかったから。
「顔を上げて」と言われても、土下座し続けた青木の気持ちが痛いほど分かります。
自分の人生を全て舞に捧げようという気持ちにもなるでしょう。
そのために恋人を失ってでも。
姉夫婦の葬式では対面に倉辻家がいたはずです。
それを思うと、あの時母親が青木に手を上げたのは全くもって正解でした。
青木のあの行動は、倉辻家の被害者感情を逆撫でするものでしかありませんでした。
薪さんや岡部では立場上強く諫められなかっただろうし、
たとい諫めたとしてもそれほど大きな意味を持ちえなかったでしょう。
もちろん母親が意識的にそうしたとは思いません。
ですが結果的に、誰よりも近い血縁者である母親が彼を罰するのが、
あのシーンにおいて一番正しい行動だったと、そう思うのです。
そうは言っても、あの時の青木の行動を批判したいわけでもありません。
ああまで追い詰められていた青木の心情はすごく分かります。
けれど、突然娘や息子を奪われた両家の親達の気持ちも分かってしまう。
もし青木が母親に打ち据えられていなければ、
倉辻の人達はあんなにすんなりと舞を返してくれたでしょうか。
両家の間に溝ができていなかったと果たして言いきれるでしょうか。
話は少し変わりますが、青木と薪さんが葬式で事件後最初に再会したシーン、
あそこの流れは何度読み返してもすごいと思います。
台詞がただの一つもないのに、表情だけで互いの考えが読み取れるようになっていますよね。
一コマ一コマに文字では追いつかないほどの情報量が込められているなあと思います。
例えば青木の笑顔が消えたことで、薪さんがゾクリと蒼褪めますが、
あれで、薪さんが今まで殉職した部下の家族たちにどういう扱いを受けてきたかが分かります。
それと同じように青木からも責められ、蔑みの目で見られるのだと思ってしまったのでしょう。
薪さんのことですから予めそうなることを想定し、心の準備もしていたはずです。
だから最初に青木に微笑まれたときは、「えっ?」と驚いてしまった。
しかしすぐその微笑みが消え、薪さんは戦慄して身をすくめます。
いよいよ彼から侮蔑の言葉が吐きかけられるのだと。
その瞬間、理性とは別に、薪さんの心が「彼にだけは拒否されたくない」と思ってしまったのでしょう。
一方青木ですが、あの時彼が微笑みんだのは薪さんを見て安心したからですが、
それはただ信頼している上司だからという単純な理由ではありません。
彼の中で唯一「狂っていないもの」が薪さんだったからです。
あの時青木の目に映った薪さんは「薪剛」と言う個人ではなく、
正常な世界そのものでもあったのでしょう。
例えるならそれまで地面のない所にふわふわ浮かんでいたのが、
ようやく地に足を付けられた、そんな実感がしたんじゃないでしょうか。
大海に放り投げられた人間が、浮かんでいる木っ端にすがりつくような。
まさしく「蜘蛛の糸」だったのだと思います。