晩夏

 青木は木陰に入ると、足を止めて額の汗を拭った。頭上では蝉の鳴き声が、わんわんと反響している。
 ──着替えを持ってきた方が良かったかな。
 青木はシャツの襟を摘まんで、パタパタと首元を仰いだ。
 先程地下鉄の駅を出た時に、ジャケットを脱いでシャツ一枚になったのだが、それでも滝のような汗がひっきりなしに吹き出てくる。こんな真夏に山を登ろうというのだから、仕方ないことではあるのだが。
 ちょうど自動販売機があったので、青木は飲み物を買った。このままだと熱中症になってしまう。目の前のアスファルトの道路には陽炎が立っていた。
 ペットボトルのお茶が、まるで甘露のようにのどを潤し、身体の中に染み渡っていく。一気に半分ほど飲むと、青木は「よし」と気合いを入れ直して、再び坂を上り始めた。
 目的地にたどり着く頃には、全身が汗で濡れて、スラックスの生地すらも足に張り付いていた。すでに日は暮れかけて、橙色の日差しが林立する御影石に長い影を作っている。昼間の暑さを避けてか、この時間帯でもまばらに人がいた。
 区画は知らされていたので、大よその見当はついたが、それでも目的の場所を見つけるまでは少し時間がかかった。青木は似たような小道をいくつも探索して、ようやく「鈴木家」と刻された墓石に向かい合った。

 両脇の花立てには、まだ瑞々しく咲いている花が供えられていた。墓自体も綺麗に掃除されており、周りの地面には雑草を引き抜いた痕跡があった。今日が彼の命日だと聞いているから、先客があったのだろう。
 持参した仏花を二つに分け、花立ての開いているスペースに差し込む。そして線香に火をつけ、香炉に立てた。
 線香のどこか懐かしい匂いをかぐと、青木は気分が落ち着くのを感じた。線香には死者と向かい合うための場を整えてくれるという意味合いがあるらしい。ならば、このか細い煙が立ち上っている間だけでも、彼は自分にも会いに来てくれるだろうか。
 準備が整うと、青木はネクタイを締め、ジャケットを羽織って身なりを整えた。そして彼は片手に数珠を持ちながら、墓に向かって手を合わせた。

 薪が何を思って、自分をここに来させたのかは分からない。ただ「鈴木の墓参りに行ってほしい」とだけ言われた。他には何も頼まれていない。だから青木は薪のためではなく、自分のために鈴木に祈ることにした。
 青木は最初に、彼に謝罪をした。彼のMRI画像を見てしまったことに対して、また彼の遺志に反して、貝沼の映像を薪に見せてしまう結果になったことに対して。
 鈴木がどんな人だったのか、青木はよく知らない。伝聞でその人となりを知ることはあっても、やはり彼の人物像は青木の中でぼやけたままだ。だから自分の謝罪を彼が受け入れてくれるかどうかは分からない。だがこうして彼に会いにきたことで、それまで自分の中でわだかまっていた思いが、少しだけ軽くなったような気がした。
 青木は彼にたくさんのことを報告した。現在の第九について、薪について、そして彼の愛した女性について。けれど彼と面識のない自分が、彼の大事にしていたものについて勝手に語るのもおこがましいような気がしたので、青木は言葉で説明するのではなく、代わりに頭の中に思い浮かべるようにした。自分が彼のMRI映像を見たのと同じように、彼にもまた青木の見たものがそのまま伝わるようにと。
 それからどれぐらい時間が経ったのか。さやと風が吹いて、青木は目を開けた。気が付くと、空が翳り始めていた。すっかり人影はなくなっている。蝉の鳴き声も遠ざかり、空の高い所に一番星が輝いていた。
 青木は墓を見つめ、最後にもう一度頭を下げた。
 暗くなった足元に気を付けながら、ゆっくり坂道を下って行く。途中で携帯に着信が入った。薪からの電話だった。ちょうど墓参りが終わったことを伝えると、「下にいる」と言われた。
 山を降りると、前の道路に見慣れた車が一台停まっていた。薪の自家用車である。一度家に戻っていたらしい。青木が近づくと、運転席側の窓が下りた。
 中にいた薪に「終わりました」と告げると、彼はただ頷いた。青木は反対側に回り込んで、助手席に乗り込む。薪は車を静かに発信させた。
 薪のマンションに辿りつくまでの間、二人は一言も言葉を交わさなかった。

 家に着くと、青木は真っ先に風呂を借りた。頭からシャワーに打たれて全身の汗を流し、気分がさっぱりとなる。薪には「わざわざスーツなんかで行くからだ」と呆れられてしまった。
 青木が風呂に入っている間に、薪が食事を作ってくれていた。青木が戻ってきたのを見て、彼が冷蔵庫からビールを出す。水滴のついた缶を見て、思わず喉が鳴った。
 そのままテーブルについて、二人で夕食を取る。苦みのある泡を喉の奥に流し込んで、青木はようやく生き返った気持ちになった。
 夕食は夏らしいさっぱりとしたメニューで、青木の好物がいくつも並んでいた。青木が喜んで舌鼓を打っていると、薪が突然切り出した。
「今日はすまなかったな」
 約束をドタキャンされたことか、それともお使いをさせられたことか、そのお使いの内容が炎天下での山登りだったことについてか。一体どのことを言われたのか分からなかったので、青木は「いえ」とだけ返す。そのやり取りだけで向こうは満足したらしく、それ以上この件について触れることはなかった。
 食後にリビングでくつろいでいると、薪の携帯にメールが入った。画面を見た薪がふっと笑みをこぼす。
「雪子さんだ」
「え? 雪子さん?」
 思いがけず懐かしい名前を聞いて、青木はぎょっとなる。
「昔、鈴木の墓の場所を僕に教えてくれたのは彼女なんだ。だからさっきお前が風呂に入っている時に、彼女にお礼のメールを送っておいた。その返信が来たんだ」
「はあ、そうだったんですか」
 薪は返事を打たず、そのまま携帯をテーブルの上に置いた。そしてソファに座り直し、青木の方に体を寄せた。
 彼がこういうことをしてくるのは珍しい。顔を見たかったが、距離が近すぎるせいでそれは叶わなかった。
「僕は知らされてなかったから……」
 ふと薪が喋り出す。彼がプライベートでは言葉足らずなのはいつものことだったので、青木は今の言葉を何度も反芻し、彼の言わんとしていることを理解した。
「鈴木さんのお墓の場所を、ですか?」
「ああ」
 薪はいったん口を閉じて、それからこう続けた。
「向こうのご両親に、墓参りに行くことを禁じられていて……」
 それを聞いて、青木は胸が塞がれる思いがした。
 彼の声は別段悲哀の色を帯びていなかったが、それはむしろ悲しみに慣れてしまったが故の平坦さなのかもしれなかった。
「だから、お前に代わりに行ってもらえて良かった。肩の荷がひとつ、下りた気がした……」
「俺、何か伝言預かった方が良かったですか?」
「いや、いいんだ」
 薪が甘えるように、青木の肩に頭をすり寄せる。その仕草に、言葉に出せない彼の寂しさを感じ取り、青木は彼の肩に手を回した。

 その晩、薪はなかなか就寝しようとしなかった。眠そうにしているにもかかわらず、ソファから動こうとしないのだ。それを不思議に思っているうちに、青木は気づいた。どうやら彼は自分と一緒に眠ることを躊躇っているらしい。
 青木の方から「今日は何もしませんから」と申し出ると、薪は申し訳なさそうにしながらも、少しほっとした顔をしていた。
 電気を落として、ベッドの中に入る。すると向こうから体を寄せてきた。彼の手が青木のパジャマの胸元を掴み、そしてぽつりと言う。

「もしかしたら、僕は……お前をあいつに会わせたかったのかもしれない」

 返事を求められていないことは、なんとなく分かっていた。だから青木は何も答えず、黙って彼の頭に手をやり、さらさらと髪を撫で下ろした。何度もそうしているうちに、隣から寝息が聞こえてきた。
 月明りの中で、青木はじっと薪の寝顔を見つめる。
 自分が彼にしてあげられることはあまりにも少ない。仕事のことだけではない。彼が抱えている苦悩を根本から絶つことは、きっとこの先もできないのだろう。
 だが今日の所は、彼に安らかな眠りを与えることができた。これだけは自分の手柄だと、自信をもって言える。
 そんなささやかな満足感を胸に、青木もまた眠りについた。

 少し湿り気の帯びた夜風がカーテンを揺らす、静かな夏の夜のことだった。


END

暦とは少し時期がずれていますが、
薪さんにとっての夏=「鈴木との永訣」という意味で
ひとつの夏が終わったということで。

コメント

カリンさん

夏が近づくと鈴木さんを思いだし、このタイムリーな作品を読ませていただきました。
ひたすら優しく好青年な青木がとても良いな…と思いました。
あと 素の薪さんの口数の少なさ…というか不器用な所も良かったです。
作品の中に流れる静かな時間が良かったです。
楽しませていただきました!(*^^*)

カリンさん、こちらでは初めまして!
いつもツイッターで構ってくださってありがとうございます♡

> ひたすら優しく好青年な青木がとても良いな…と思いました。
> あと 素の薪さんの口数の少なさ…というか不器用な所も良かったです。

カリンさんの言葉を通すと、自分の作品なのにとても優しく感じられますね。
青木は多分ちょっと無理してるんだと思います。
薪さんを受け止めたくて、薪さんに釣り合うような自分になりたくて。
だから本当は色々思うところがあるけど、ぐっと堪える。
薪さんはそんな青木のことをわかっていて、言葉少なに甘える。
プライベートの薪さんは黙って青木にそっと寄り添っているイメージなので(仕事の時とは裏腹に笑)
そう感じ取ってもらえて嬉しいです。
読んでくださってありがとうございました!

 

あやさん

私ももしかして、鈴木さんのお墓参り?て思いました。
青木を鈴木さんに会わせたかったて、なんか解る気がします。
こいつがいるから僕は大丈夫だよみたいな。
墓参りまで禁じられていたら切ないですね(T_T)
雪子さんに教えてもらうってほんとありそう。
うん、青木は貝沼の脳を見せたこと謝っておいた方がいいよ^^;
私はエロいの読んでませんけど、恋人同士になっても
遠慮深くてひたすら尽くそうとする青木はやっぱり好きですね。
鈴木さんもきっと、天国で安心しているでしょう(*^_^*)

> 墓参りまで禁じられていたら切ないですね(T_T)

薪さんには酷ですが、あちらのご両親からしたら、やっぱり自分の息子を殺した相手には
墓参りしてほしくないだろうなと。
せめて鈴木の生前まで、薪さんと鈴木家の関係が良好だったら、まだ余地があったかもしれませんが
ジェネシスの一件で薪さんとの付き合いは相当反対されていただろうし……。
せめて薪さんが悪い人だったら、薪さんが逮捕されて、心の持って行きようがあったかもしれませんが
薪さんはあくまで善良な警官で、正当防衛で、鈴木を殺すつもりはなくて、
二人は本当に仲が良くて……だから余計にやり切れなかっただろうなと思います。

> うん、青木は貝沼の脳を見せたこと謝っておいた方がいいよ^^;

賛否両論かもしれませんが、私は青木のしたことは正しかったと思うんですよね。
実際に薪さんは、銃口を向けてきた鈴木の真意が分からなくて苦しんでいたわけだし。
何が悪かったって言ったら、結局自分一人で抱え込もうとしちゃったことなんだろうなと。
薪さんにしても、鈴木にしても。
だから薪さんに貝沼の脳を見せまいとした判断は、やっぱり間違っていたんだと思います。
でもそれをしたのは鈴木の優しさで……本当にやりきれないですね。

> 遠慮深くてひたすら尽くそうとする青木はやっぱり好きですね。

現時点ではこういう青木しか想像できないんですよね〜。
私としてはその先、薪さんに少しぐらいワガママを言えるような関係になってほしいんですけど。^^;

 

なみたろうさん

ううう。(風呂の中で読んでホロリ)
わんこ偉かったね、パトラッシュみたいだ。
いや、薪さん死んじゃダメ。ご主人にそっと寄り添って、てところです。
薪さんは鈴木さんのことになると子供返りするんでしょうか?エライ儚げで可愛いッ!!( ;∀;)
青木ほんと、遠慮ばっかで薪さんのため、ばかり考えてますけど(そこもリアル!)
ちゃんと薪さんの癒しになれてるように感じましたよ?
ガンバレ。たっぷり愛してあげてくれ!

> (風呂の中で読んでホロリ)

スマホで読んでくださったんですね。携帯対応のデザインにして良かったー。
秘密はスマホユーザーさんが多いようなので前から気にしてたんですが、思い切って改築して良かったです。

> 薪さんは鈴木さんのことになると子供返りするんでしょうか?

今回、薪さん付き合って初めて青木に甘えたんですよ。
でも薪さんって基本そういうのに慣れてなさそうじゃないですか。
寂しい時に寄りかかったり、正直な気持ちを打ち明けたりとか。
だからまだ青木の様子を見ながら恐々手を伸ばしてる段階なんです。
それが幼いイメージに繋がったのかもしれませんね。

> 青木ほんと、遠慮ばっかで薪さんのため、ばかり考えてますけど(そこもリアル!)

わー、ほんとですか? なみたろうさんの青木像と一致したようで良かったです〜!
私青木が大好きすぎて、若干欲目が入っちゃってるかなーって気もしてたので(笑)。

 

kahoriさん

初めてのお願いが結構重たい内容でしたね。
夏の日に想いを馳せる人と言ったらやはり鈴木しかいないので、
御墓参りかなとの予想はつきましたが、どのような情景描写なのか楽しみにしておりましたよ^ ^
夏の墓参りって本当に蒸し暑い中大変ですよね。祖父母のお墓参りを思い出しました。
死者に対する時の礼儀正しさ、きちんと身なりを正す青木君の描写素敵です。
薪さんはあまり多くを語らないけれど、青木君の好物ばかりで手料理の献立作ったところから、
無言の感謝があふれている気がします。きっともりもり食べる青木君の姿に癒されているのは薪さんですよね。
仕事帰りでもこうして料理を頑張れるのは一緒に食べてくれる相手がいるからこそと思います。
青木君が自分自身のために鈴木と話をしたっていうのが良かったです。
いくら代理の墓参りを頼まれたとはいえそれぞれが鈴木に対して想っている感情は違いますし、
薪さんの感情は代われるものではないですし。
でも、墓前に足を運びたい気持ちは青木君が持って行ってくれたんですね。
薪さんの気持ちも青木君の気持ちも一区切りついて安心しました。
一年の中で薪さんが一番思い悩む日に青木君という安らぎが共にあってくれて本当に良かった。
今回はまあ、特別な日ですからワンコも大人しくお預けでしたが、
薪さんに甘えられたり、寝顔を間近で見られる特権はやはり贅沢ですv
ささやかなことにも喜びを見つけれる青木君は幸せをたくさん見つけることができますね。
薪さんの幸薄い部分を青木君で満たしてあげてほしいと思います!

> 死者に対する時の礼儀正しさ、きちんと身なりを正す青木君の描写素敵です。
> 薪さんはあまり多くを語らないけれど、青木君の好物ばかりで手料理の献立作ったところから、
> 無言の感謝があふれている気がします。

わーそうなんです、まさしくその通り……!
こちらの意図して書いた所を、ちゃんと読み取ってくれてありがとう〜!
二人とも典型的な日本人男性なので、自分の気持ちをあまり言葉にしないと思うんです。
その代わり、行動に現れるんじゃないかなって。
だから二人の行動描写に自然と熱が入っちゃうんですが、
薪さんならこうするだろうな、青木ならこうするだろうなっていうのが
自然と頭に降りてきて、書くのが本当に楽しいです。
清水先生が二人のキャラクターをしっかりと構築されているおかげなんでしょうね。

> 青木君が自分自身のために鈴木と話をしたっていうのが良かったです。

実は墓参りのシーンは特に構想もなく、漫然と書き始めたのですが、
いざお墓の前に立つと、青木が勝手に自分で動いてくれたんです。
自分でも「へー、青木はこういう風に考えるんだな」って思いました。
薪さんが青木に代理を頼んだのも、彼が恋人だからじゃなく
そう言う風に鈴木と向き合ってくれる人だからかなって思います。

> 今回はまあ、特別な日ですからワンコも大人しくお預けでしたが、
> 薪さんに甘えられたり、寝顔を間近で見られる特権はやはり贅沢ですv

散々エロいの書いてる私が言うのも説得力のない話なんですが(笑)、
薪さんに必要なのはこういう時何もしなくても、ただ傍にいてくれる存在なんじゃないかなって。
それさえあれば極論、身体の関係もなくてもいいのかもしれませんね。
青木の「家族になりたい」は、そう言う意味では薪さんに取ってベストアンサーだったんだなって思います。
……いや、身体の関係も力いっぱいあってほしいですけどね?

 

 (無記名可)
 
 レス時引用不可