夢か現か
──……ました、薪さん。
誰かに名前を呼ばれて、薪の意識がゆっくりと浮上する。
瞼の裏が明るい。もう朝になったのか? いや、誰かに呼ばれている。ということは、ここは職場だ。またソファで眠ってしまったのだろうか。
投げ出した腕が指先まで柔らかい感触に沈んでいる。ソファはこんなに広くない。ちゃんとベッドの上に寝ているのだ。ならばここは……仮眠室?
──薪さん?
さっきから聞こえている声。この声を知っている。部下が自分を起こそうとしているのだ。だとしたら、早く起きて捜査に戻らなければ……捜査? どの捜査だ? 今担当している事件は、ええと確か……。
思い出そうとして、こめかみがズキリと痛む。薪は眉間にしわを寄せ、寝返りを打った。
仰向けになって、右手の甲を瞼に当てる。視界が暗くなって、薪は少しだけほっとした。
「う……」
声が出ない。喉が酷くひりついている。水が欲しい。でも起き上がるのがだるい。倦怠感のようなものが体中に広がっている。指一本動かすのも億劫だ。誰か、水を持ってくれないだろうか。
そう思った途端、心の声を聴き入れたように、大きな手が彼の背中を支え起こした。
目を開けると、水の入ったコップが目の前に差しだされている。薪はそれを取ると、貪るように一気に飲み干した。
「ふう……」
こんなに水は甘かっただろうか。体の隅々まで水分が染み込んでいくようだ。 薪は大きく息を吐いた。
気の利いた誰かに礼を言わなければ。視線を上げると、思ったより近いところに顔があって、彼は思わず瞬きした。
そこにいたのは青木だった。眼鏡の奥の瞳がじっと自分を見つめている。この男は部署移動してから一年経ってもまだ一番の新入りで、そのためによくお茶汲みをやらされている。彼が水を運んできてくれたのも納得だ。
しかしこの距離はいかがなものか。顔が近すぎる。後ろに身を引こうとして、薪は自分の背中に当てられた手に気づいた。ずっと支えられたままだったのか。
「おはようございます。体は大丈夫ですか?」
「ああ……」
声を出すと、喉に痛みが走る。薪はごほ、と咳をした。
「ゆっくり休んでください。事件も解決したことですし、今日は休みですから」
そう言われて、薪は思い出した。緊急性の高い事件が起こって、ここ数日仕事場に泊まり込んでいたのだが、それがようやく解決したのだ。気分がどこかスッキリしているのはそのせいだろう。事件が未解決の間はどれだけ心身が疲弊していても、すぐにスイッチが切り替えられるようになっている。こんなに寝起きにぐずぐずしていられるのは、頭の中に懸案事項がないことの証だ。
青木の手が自分をゆっくりと横たわらせる。目を閉じると、たちまち泥のような眠気が襲ってきた。あともう少しだけ仮眠を取ろう。そうでないと、とても体を動かせそうにない。
「お休みなさい」
部下の声が遠くに聞こえ、薪は安心して意識を手放そうとした。
その時、額に何か柔らかいものが当たった。少し濡れたような、しっとりとした感触。これは一体何だろうと、眠りの淵に足をかけながら薪は考え、そして──
ぱちりと瞼を開けた。
視界に映るのは見慣れた天井。と言っても仮眠室のそれではない。もっとよく知っている場所だった。薪は天井に設置された照明器具を凝視する。数秒前までの睡魔は嘘のようにどこかへ消え去ってしまった。
体を起こそうとして、頭に痛みが走る。酒で過ごした時特有の鈍痛。体の節々も痛いし、それに──。
パタンと部屋のドアが閉まる。薪はベッドに手をついて、ゆっくりと起き上がった。そして周りを見回す。やはり、間違いない。
「なんで、あいつがここに……」
頭に手を当てながら、掠れた声で呟く。その問いかけに答える者は、もうここにはいない。
そして薪は、自分が職場の仮眠室ではなく、自宅の寝室にいることを認めたのだった。
コメント
かなさん
まあ。。(にやり)
にやりして頂いてありがとうございまーす♪