夢か現か

 ドアを静かに開けて外を覗き見る。廊下に誰も居ないのを見計らって、薪は部屋を抜け出した。どうして家主がこんなにこそこそしなければならないのだろう。全く持って理不尽な話である。
 薪が憤慨しながらバスルームに行こうとした時、
「薪さん」
 背後から声をかけられた。バスルームのドアノブに伸ばしかけた手が止まる。今、一瞬肩が強張ったのが分かってしまっただろうか。
 薪は振り返らずに返事をした。
「なんだ」
「俺、コンビニで朝食買ってきますから。何か食べたいものはありますか?」
「いや……別に」
「じゃあ適当に買ってきます。シャワー浴びる前に、鍵お願いしますね。俺が戻ったら開けてください」
「……分かった」
 すぐ傍を通り過ぎる気配。青木が玄関で靴を履いている間、薪は固まったままそこに突っ立っていた。
「行ってきます」
 玄関の扉が閉まる。そこでようやく薪は動き出した。青木に施錠を頼まれていたが、それより今は一刻も早く確かめたいことがあった。
 洗面台の前でパジャマのボタンを一つずつ外していく。そして上半身裸で鏡の前に立った薪は、そこに逃れようのない証拠を見つけてしまった。
 白い肌に浮き上がったいくつもの鬱血の痕。胸元や首筋、脇腹にまである。それは紛れもなく情交の痕跡だった。このシチュエーションでこれをつけた相手は一人しか考えられない。
 でも、そんなまさか──。
 薪はしばらく鏡の前で呆然としていたが、やがてのろのろと手を動かした。こうしていたって鏡に映るのは自分の間抜けな顔だけだ。彼は自分の体をなるべく視界に入れないようにして、残りの服を脱いだ。

 浴室の中には水滴と湿気が残っていた。換気扇も回されている。恐らく青木が先に使ったのだろう。
 寝汗をシャワーで洗い流して、薪はようやく一心地ついた気分になった。今更じたばたしても仕方がない。すぐに青木は戻ってくるのだ。それまでに一旦状況を整理しなければ。
 バスチェアに座ろうとしたら、屈んだ瞬間腰の奥がズキリと痛んだ。さっきベッドの上に起き上がった時にも感じた痛み。
 薪は一度床に膝をついてから、恐る恐る腰を下ろした。
 ──全く……なんでこんなことに。
 頭からシャワーに打たれながら自問する。
 記憶をなくして朝を迎えたことは、これまでにも何度もある。しかし殆どが仕事に打ち込む余り失神したケースで、こんな風に酒に飲まれたことは初めてだ。それも、自分の部下と関係を持ってしまうなんて最悪のおまけつきだなんて。
 こちらから迫ったと言うことはないと思いたい。だが、青木は意識のない相手をどうこうするような性根の持ち主ではないし、先ほどの様子を見るにつけても、彼の中に疚しさや後ろめたさと言ったものは見受けられなかった。ただ穏やかにほほ笑んで、まっすぐにこちらを見つめていた。
 薪の身体にもおかしな兆候は見られなかった。多少関節が痛む所はあるが、力づくで抑えつけられたとか、強引に突っ込まれたと言う感じではない。体中についたキスマークのこともある。信じがたいことではあるが、合意の上でのことだったのだろう。全ての状況証拠がそう物語っている。
 何より、さっきベッドの上で額に落とされた感触──。
 少なくともあれは、無理やり関係を持った相手にすることではない。青木の行為は彼の心情を証明するかのように、限りなく優しいものだった。
 薪は額を抑えながら、ため息を落とした。
 頭と体を洗い、最後に足の間に手を伸ばす。後ろの状態を確認してみると、どうやら中には出されていないようだった。何もなかったというわけではなさそうだが、青木は最低限のマナーだけは守ってくれたようだ。とりあえずそのことに安堵して、彼は浴室を出た。
 タオルで体を拭いていると、チャイムが鳴った。青木が帰ってきたのだろう。先ほど彼に施錠するよう言われていたが、薪はそれをしなかった。不用心だとは分かっていたが、鍵を開ける際に彼と顔を合わせることを思って躊躇ったのだ。
 どうせならこのまま鍵のかかったふりをして、居留守を使い続けようか。そうしたら青木は諦めて帰ってくれるかもしれない。薪はタオルを体に巻きつけて息を潜める。
 が、淡い期待もむなしく、青木はドアノブを回して中に入ってきた。
「薪さーん、ドア、鍵かかってませんでしたよ? 鍵かけるの忘れちゃったんですか?」
 バスルームの扉越しに青木が声をかけてくる。薪は聞こえない振りをして、そそくさと服を着込んだ。

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