夢か現か

 青木は自宅のベッドの上で、何度目かの寝返りを打った。
「はあ……」
 肺から重苦しい息がこぼれる。天井の照明を見上げるのにも飽きてきた。青木は諦めてベッドの上に起き上がった。
 明日は土曜で、しばらくぶりに目覚ましをかけないで寝られるというのに、一向に眠気が訪れない。眠りたくないわけではない。むしろ体は休息を求めている。なのに、脳が変に興奮して目が冴えてしまっている。
 諦めてその辺を散歩でもしてみようか。少し体を動かした方が眠れるかもしれない。しかしこんな深夜に出歩いて、職質でも受けたら相当間抜けだ。青木は人並み外れて身長が高いため、夜間、警官の目に留まりやすいのだ。
 DVDを見たり、本を読んだりして気を紛らすことも考えたが、どちらも気乗りしなかった。ここ一週間、散々MRI画像を見ては報告書を読んだり書いたりしてきたのだ。もうこれ以上、字も画面も見たくなかった。
 となると最終手段しか残っていない。青木は睡眠薬を持っていないので、天然ものに頼ることになる。二十歳になってからでないと許されない、大人の睡眠薬の出番だ。
 冷蔵庫を開けると、奥に缶ビールが一本だけ入っていた。青木がそれに手を伸ばした時、どこかから音が聞こえてきた。携帯の着信音だ。
 缶ビールを持って寝室に戻る。送信元を確かめると、「岡部靖文」の文字が表示されていた。
 こんな夜中にどうしたのだろう。緊急の要請だろうか。それとも、飲みに付き合えと誘ってくれるのだろうか。岡部は上司だが、飲み友達でもある。お互いの住所が沿線一本で繋がっているため、呼び出しがかけられやすいのだ。
 この時間からだと朝まで飲むことになるが、今の青木にはその方がありがたい。どうせ家にいても鬱々と過ごすだけだ。青木は嬉々として受信ボタンを押した。
「青木です」
『岡部だ。夜中にすまん』
「いえ、起きてたんで大丈夫です。それよりどうしたんですか?」
『ああ、それなんだが……今からちょっと出てこれないか?』
 やはり飲みのお誘いだ。青木は時計を見る。急いで支度をすれば、十分最終電車に間に合う。
「はい、構いませんよ」
『そうか……ちなみに聞きたいんだが、お前、今日酒は飲んだか?』
「いえ、ちょうど飲もうかなって考えてた時だったんで、岡部さんが電話くれて良かったです」
 青木が答えると、なぜか電話の向こうで大きく息を吐いた気配がした。
『そりゃ良かった。実はな、お前に運転を頼みたいんだ』
「え?」
『薪さんを自宅に送ってほしい』
 この世で最も深く敬愛する上司の名を聞いて、青木の目が輝く。
 それから岡部から事情を聞いて、彼は二つ返事で了承した。速攻で服を着替え、財布と携帯だけ持って、青木は家を飛び出した。

 岡部の指示に従って、パーキングにたどり着くと、奥に見覚えのある車が停まっていた。青木が近寄ると、運転席から岡部が出てくる。
「悪かったな、こんな時間に」
「いえ。薪さんは?」
 青木が尋ねると、岡部が親指で後ろを指した。後部座席に乗っているようだ。街頭の灯りが届いていないせいで、ぼんやりとしか分からないが、確かに人が乗っている。
「薪さんちは知ってるな?」
「はい。これまでも自宅に送迎したことがあります」
「そうか。じゃあ薪さんを車で送った後、そのまま帰ってくれていい。車は明日俺が取りに行くから」
「そんな、いいですよ。俺が返しに伺います」
「しかしそれではお前に悪いだろう。こんな遅くに呼び出したのに、休日まで潰させて」
「岡部さんをうちに来させる方が、俺には申し訳ないですよ。車は早いうちに返した方がいいですよね?」
「ああ、お前がいいのなら……」
 同意しながらも、岡部は複雑な表情を浮かべている。うっかり飲酒して、運転ができなくなったと言っていた。自分のミスなのに、青木にその付けを払わせるのが心苦しいのだろう。厳めしい外見に反して、実は誰よりも気配りの細やかな男なのだ。
 彼の心の負担を減らすために、青木は別の提案を考え付いた。
「それか、薪さんを送った後、すぐこちらに車を戻しましょうか? その方が岡部さんも明日の予定がまるまる空くでしょう?」
「いいのか?」
「ええ。岡部さんのおうちに泊めてもらわなくちゃいけませんが、いいですか?」
「ああ、勿論だ。その代わり、俺んちは臭いぞ。覚悟しとけよ?」
「そこは掃除しといてくださいよ」
 交渉成立。青木は岡部から車のキーを預かった。
 早速運転席に乗り込む。やけに後ろの席が静かなので、バックミラーの角度を変えると、薪の顔が映った。青木の背筋が自然と伸びる。
 いなければいないで、ほっとする存在ではあるが、いればいるで、その姿を目で追ってしまう。こうして一目見るだけで、胸がざわついて仕方がない。その重圧感も含めて、なお強く惹きつけられる、恒星のような人だった。
 それにしても機嫌が悪そうだ。薪は目を瞑ったまま、むっつりとしている。声をかけない方がいいのだろうか。
 ──それか、もしかして寝てる?
 ならば起こしてはいけない。青木は静かにシートベルトを締めた。
 キーを回してエンジンをかけた後、カーナビを起動させる。この辺りの地理には明るくない。大通りに出た後の道順は把握しているが、それまでに一方通行の道に迷いこむ恐れがあった。
 すると、後ろから声がかけられた。
「……岡部と長く話していたな」
 どうやら眠ってはいなかったらしい。青木は車を動かしながら、「はい」と返事をした。
 駐車場の入り口に佇んでいる岡部に会釈して、ゆっくりと路上に出る。カーナビのガイドに従って路地を抜け、やがて幹線道路に出た。前後の流れに乗って、走行スピードを上げていく。
 再び、薪が口を開いた。
「岡部と何を話してたんだ?」
「別にたいしたことじゃありませんよ。この後のことを話してただけです」
「後のこと?」
「はい。薪さん送った後、もっかいここに車を戻して、岡部さんちに泊めてもらうことになりました」
「それだと大分面倒じゃないか?」
 薪の家までは車で三十分ほど。往復で掛ける二の、一時間超と言ったところか。
「たいしたことないですよ。それより岡部さんちが大分臭くなってるそうで、そっちの方が俺には大問題です。今夜、ちゃんと眠れるかな」
 薪に気を使わせないよう、青木は冗談めかして言った。それで納得したのか、薪は黙り込んだ。
 交差点を何度か曲がり、段々薪のマンションが近づいてくる。ある通りに差し掛かったところで、赤信号に引っかかった。深夜のせいで車の影は少ない。結局停車している間、横から出てくる車は一台もなかった。青信号になって、ブレーキペダルから足を離す。
 その時、唐突に薪が言った。
「お前、今夜はうちに泊まれ」
「えっ」
 危なかった。動揺して、咄嗟にアクセルをべた踏みしてしまうところだった。運転に関しては、薪にほとほと信用されていない。また怒られてしまうところで──いやいや、そうじゃなくて。
 今、彼は自分に何と言った?
 ──こんやはうちにとまれ……とまれ……とまれ……。
 薪の言葉を頭の中で繰り返した後、青木は「ないな」という結論に達した。恐らく何か聞き違いをしたのだろう。泊まれ、ではなく別の「とまれ」ではないだろうか。そうだ、そこのコンビニで買い物をしたいから、「ちょっとそこに停まれ」と言ったのを、なぜか聞き間違えて──。
「メールで岡部に連絡した。車を返すのは明日でいいそうだ。なんなら僕が返しに行く。今夜はうちに泊まれ」
 さすがにこの会話の流れから、聞き違いと思い込むには無理があった。青木は目と口を真ん丸に開けたまま、恐る恐る返事をした。
「……了解です」

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