夢か現か
男二人で、ダイニングテーブルで向かい合って朝食をとる。薪にとってはこの上なく気まずい食事だったが、向かいの席の男はそうでもないらしい。呑気にインスタントの豚汁を啜っている。
青木が買ってきた物の中で、薪はおにぎりとしじみの味噌汁を選んだ。それに対して青木の方は、若さを隠そうともしない食べっぷりだった。おにぎりとサンドイッチ数個に加えて、唐揚げ弁当まで開けている。よく朝からそんなに食べられるものだ。薪が呆れていると、青木がへらりと笑った。
「いつもはここまでじゃないんですけど……今日はなんか、腹減っちゃって」
何も言わなかったのに、こちらの視線の意味を正しく読み取ったらしい。MRI捜査の賜物と言うべきか。
薪は黙って、おにぎりの最後の一口を喉の奥に押し込んだ。新潟産コシヒカリも、今は砂を渇むように味気ない。
本当なら事件明けの朝は薪もよく食べるのだ。しかし今朝に限っては食欲が出ない。原因は勿論目の前の男で。
──いや、本当の原因は僕自身……か。
割り箸で味噌汁の底をかき混ぜながら、薪は昨夜のことに思いを馳せた。
* * *
事件解決後もやることはたくさん残っている。提出された報告書に承認印をつき、全ての業務を終えた薪が研究室にセキュリティをかけたのは、深夜になってからだった。
居残りに付き合ってくれた岡部と二人で、敷地内の駐車場に向かう。
「すっかり遅くなっちゃいましたね。どこかで飯食って行きますか」
「できればそうしたいが、今からだとどこもラストオーダーが終わっているだろう」
「そうですねえ……」
岡部が腕時計を見る。
「じゃあ薪さん、少し遠回りになりますが、俺んちの近所の店に行きませんか? 朝までやってる居酒屋なんですけど、飯も結構いけるんですよ」
「そうだな……」
「もちろん帰りは俺が送りますから。薪さん、酒飲んでくれていいですよ」
その一言で、薪は誘いを承諾した。自分の車は駐車場に残し、岡部の車の後部座席に乗り込む。
今日はアルコールを体に入れたい気分だった。岡部は薪が気兼ねなく飲める数少ない相手である。大きな事件が片付いた後二人で祝杯を上げるのも、いつのものことだった。
岡部が車を回したのは、薪の住所とは反対の方向だった。駅からやや離れた住宅街の真ん中に、小さな灯りがぽつんとともっていた。岡部のマンションから近いそうで、よく仕事帰りにここで食事しているらしい。岡部は店の斜向かいにあるパーキングに車を止めた。
店は半地下にあった。黄色い電飾に照らされた階段を下り、いかにも居酒屋然とした店内に入る。深夜にも関わらず、狭い店内は満員の入りだった。運よく自分たちが入店した瞬間に奥の個室の部屋が空いたので、そこに通される。
靴を脱いで畳の上に上がると、薪はほっと息をついた。足先にじわじわと血が戻っていく感じがする。こうして事件解決後に何の憂いもなく酒を酌み交わせる時が、彼は一番心安らぐ。明日からも仕事は山積しているし、陰惨な事件も再び起こるだろう。しかし今はただ、これから飲む酒のことだけに頭を悩ませていればいい。
嬉しいことに、その店は全国の地酒や地ビールを取り揃えていた。どれでもグラス一杯から試すことができる。岡部も「遠慮なく」と言ってくれたので、薪は酒のメニューを開いた。料理の選択は常連客の岡部に一任する。
間もなく飲み物が先に配られた。
「お疲れ様でした」
チン、と互いのグラスを合わせる。岡部はウーロン茶を頼んでいたが、喉が渇いていたのか、ジョッキを一息で飲みつくしてしまった。飲むというより、喉の奥に流し込むという感じで、あれでは味を楽しむ暇もなかっただろう。薪はちびちびとグラスを傾ける。
「お互い、疲れた顔してますね」
岡部にそう言われて、薪は苦笑する。ここ一週間ほどは職場に寝泊まりしていた。食事と睡眠はなるべく取るようにしていたが、多少面やつれしてしまうのはしょうがない。若い青木などはげっそりしながらも、最後まで肌つやは損なわれなかった。若さは正直だ。
「今から家に帰るのが怖い。特に冷蔵庫を開ける時のことを考えるとゾッとする」
「ああ、薪さん料理するんでしたね。俺んちはそういう心配はないなあ」
「お前は外食オンリーか? 体に良くないんじゃないか?」
「なるべく野菜は取るようにしてますよ。もういい年ですしね」
同年代だからこそできる気兼ねのない会話を楽しみながら、酒を傾ける。他の部下とはこういう風に話すことはできない。世代のこともあるし、何より立場が違う。薪は室長であり、岡部はその補佐だ。二人とも己の責任を自覚している。
もっとも曽我や小池辺りは、その辺りのことをさほど気にしていないようで、気安く距離を詰められて薪が戸惑うことがある。小池や宇野などは一歩引いてくれているようなのだが。
なんにせよ、全員貴重な人材だ。仕事の過酷さや自分と言う厳しい上司の存在にも負けず、ここまで着いてきてくれた。薪はそのありがたみを誰よりも理解している。
料理はどれも満足のいく内容だった。岡部が薪の好みを加味して、さっぱりと食べられる和食中心のメニューを選んでくれたし、味もなかなかのものだった。一皿のボリュームは少なめだったが、それより様々なバリエーションの酒を楽しめることの方が重要だ。この店が近所にあれば、薪も通いつめたいくらいである。
「ふう、少し飲みすぎたな」
食事を終えて、個室を下りようとしたところ、膝がかくんと抜ける感覚がした。岡部の腕に支えられて出口まで歩く。彼に財布を預けて、薪は一人店の外のベンチに座った。
少しして岡部が渋い顔をして戻ってきた。
「薪さん、ちょっと不味いことになりました」
「どうした。ぼったくられでもしたか」
薪の口から軽口がこぼれる。どうやら相当酔ってしまったようだ。薪は割と酒に強いタイプで、酩酊することは殆どない。だが、今夜は疲労が蓄積されていた分、いつもより酔いが回りやすかったのかもしれない。
腕時計の盤面で熱くなった頬を冷やしながら、岡部を見上げる。
「そうじゃないんです。俺が飲んでいたドリンクなんですけどね、あれ、ウーロンハイだったみたいです」
「ウーロンハイ? お前、ウーロン茶頼んだんじゃなかったのか?」
「ええ。けど、どうやら店員が注文を取り間違えたようで」
「お前、飲んでて気づかなかったのか?」
「まあ確かに、ウーロン茶にしては美味いような気もしましたが、たいして度数もないですし、分かりませんでした」
岡部も酒は弱くないが、それにしたってアルコールが入っていたことに気付かなかったとは。いや、彼も薪と同じように疲労が溜まっている。そのせいで味覚が鈍感になっていたのだろう。まして居酒屋の濃い味付けの料理を食べながらでは、仕方ないのかもしれない。
しかし、そうなると困った状況になってきた。岡部はまだいい。家まで歩いて帰れる距離なのだから、車はパーキングに置いて、明日の朝取りに来ればいいだけの話だ。
問題は薪だ。帰りの足をどうするかと言うことになる。携帯で電車の時間表を確認すると、最寄りの駅からは電車が残っているが、その後乗り換えが繋がらない。あと五分早ければなんとかなったのだが、タイミングが悪かった。
「分かった。じゃあ僕はタクシーで帰ることにする」
「いや、薪さんそれはちょっと……」
立ち上がろうとした薪の腕を捕まえて、岡部が渋る。
薪はその特殊な立場から、何度も脅迫や嫌がらせ行為を受けている。部下たちには教えていないが、命を狙うような文言の手紙を受け取ったことも一度や二度ではない。
岡部が自分をドアトゥドアで送るのは、ただ部下だからと言う理由だけでなく、薪のボディガードを務める意味合いの方が強いのだ。だから、深夜に安易に一人になってほしくないのだろう。特にこんな足腰の立たない状態になっては。しかし現実的に残された手段はそれしかない。
「しょうがないだろう。お前に飲酒運転させるわけにはいかないんだから」
「俺のうちに泊まる……ってのは、なしなんですよね」
今度は薪が渋い顔を作る。
付き合いの長くなった今ですら、岡部相手にも盗聴盗撮のチェックをしている薪である。他人の家にいてくつろげるわけがない。たとえ体にアルコールを入れた状態でも、朝まで不眠不休で過ごすことになるのは目に見えている。それは仕事上がりでへとへとの薪にとっては、ありがたくないことだった。
薪は何も言わなかったが、表情から察してくれたらしい。岡部は諦め顔で、「分かりました」と答えた。
「ちょっとここで待っていてください。なんとかします」
「なんとかって……」
岡部が携帯を取り出して、道の反対側に歩いて行く。どこかに電話をかけているようだ。代行サービスを呼んでいるのだろうか。それでも薪が他人に送られることに変わりはないが、流しのタクシーよりはいくらかマシかもしれない。
やがて岡部は電話を終えて戻ってきた。
「なんとか都合をつけました」
「そうか」
「青木がここに来てくれます。あいつの家、ここから電車で一本なんで、ギリギリ終電に間に合うそうです」
薪は眉間にしわを寄せ、究極に不機嫌な顔を作って見せたが、岡部は目を閉じて見ない振りをした。