夢か現か

 起きた時、辺りは真っ暗だった。ぱちぱちと瞬きを繰り返して、徐々に目が慣れてくると、ぼんやりと視界に入ったのは自宅のリビングの天井だった。
 なんだと思いながら、寝返りを打つ。すると、目の縁からすとんと冷たいものが流れ落ちた。そこでようやく彼は、自分が泣いていることに気づいた。
 仕事柄悪夢にうなされることはしょっちゅうで、泣きながら目を覚ますことは、彼にとっては珍しいことではなかった。しかしそのときはなかなか泣き止むことができなかった。次から次へと涙が溢れ出てくる。
 訳も分からないまま、とりあえず顔を拭こうと、布団から起き上がる。すると、体を起こした拍子に胸がつきんと痛んだ。奥の方までつき刺さるような、鋭い痛みだった。
 最初はいつもの胃痛かと思った。しかし両手で胸を押さえても、なかなか痛みは薄れなかった。それどころか、胸に風穴が開いているような錯覚すら覚えた。
 そして彼は思いだした。つい今しがたまで見ていた夢の内容を。
 そうだ、この痛みは胃炎によるものではない。夢の中で胸を引き絞られるように悲しい思いをして、それがあまりにも辛すぎて目を覚ましたのだ──。
 そうと分かっても、薪はなかなか気持ちを落ち着けることができなかった。心臓の鼓動が少し早まっている。
 周囲を見ると、彼はリビングの隅に敷かれた布団の上にいた。普段は寝室のベッドで寝ている。この布団は家に客人が来る時に使っているものだ。ということは──彼が家に来ているということなのだろう。
 薪は思わず安堵の笑みをこぼした。
 夢から目覚めて良かった。現実に戻ってこられてよかった。あんな悲しい夢を見るのは二度とごめんだ。

 あんな、親友を殺す夢など──。

 しかし友人が泊まりに来ているのはいいとして、自分がここに寝ているのはどういう理由なのだろう。まだ寝ぼけているせいか、前後がよく思いだせない。そのうちに、薪はさてはと思い当たった。
 以前、友人が布団に不満を漏らしたことがある。彼の身長では敷布団から足が飛び出てしまうのだ。それで互いの寝る場所を交換して、ベッドを使わせてやったことがあった。翌朝はすっきりした顔で寝心地の良さを褒めていたが、ついでのように「お前の身長ならあの大きさは余るんじゃないか」と言われたことは忘れていない。
 大方今回も同じように丸め込まれてしまったのだろう。全く不遜な男だ。そう何度も同じ手を食うわけにはいかない。今度こそ家主の正当な権利として、ベッドを取り返さなければ。憤然と決意して寝室に向かう。
 ところがドアノブに手をかけた瞬間、彼はなぜか躊躇いを覚えた。扉を開けた先に友人がいなかったらどうしようと思ったのだ。
 しかしすぐにその考えを打ち消す。あれはただの夢だ。自分が彼を殺すだなんて全く馬鹿げている。そんなことあるわけがない。隣に彼がいないのに、のびのびと楽しく室長を勤めているだなんて、そんなことあるはずがないのだ。
 繰り返し自分に言い聞かせながら、薪は扉を開ける。そして恐る恐る中を覗き込んだ。すると、暗がりではあったが、ベッドにこんもりと大きな膨らみがあるのが見えた。思わず声が出そうになるのを、彼は口を塞いで堪えた。
 間違いない、あの大きな人影は──。
 そのまま足音を殺してベッドに近寄る。さっきまで彼を叩き起こすつもりでいたのに、今はもうそんなことはどうでも良かった。大切な人が生きて、ここにいる。それだけで全てを許せる気がした。
 顔を見たかったが、彼は反対側を向いて寝ていた。寝息も全く聞こえない。よほど深く眠っているのだろう。起こすのが忍びなくて、後ろ頭をぼんやりと見ているうちに、薪は不思議な感覚に襲われた。
 なぜだろう、気分がふわふわしている。ちゃんと自分の足で立っているはずなのに、その感触が得られない。まるで壁一枚隔てたところからこの光景を見ているかのように、現実感がひどく薄れていた。
 そして、彼の様子が静かすぎるのが気になった。いくら熟睡しているとはいえ、普通はもう少し体が動くものではないだろうか。肩が全く上下しないのはどういうわけだろう。ちゃんと呼吸をしているのだろうか。
 一旦そんなことを考えると、どんどん不安は膨らんでいった。なぜかこのまま彼が目覚めないような気がしてくる。
 そこで薪は思いきった行動に出た。そうっとベッドに乗りあげて彼の横に寝そべったのだ。おかしなことをしている自覚はあった。もしこれで彼が目を覚ましたら、驚かせてしまうかもしれない。しかしそれよりも今は、一刻も早く友人の無事を確認したかった。
 恐々と手を伸ばして、背中に触れる。するとそこにはちゃんと温もりがあった。穏やかな呼吸の気配も伝わってくる。薪はくしゃりと顔を歪ませた。
 良かった、彼はちゃんとここにいる。自分のそばに。この世で一番失くしたくないものを自分は失っていなかったのだ。
 じわりと涙がにじんで、薪はそっと額を背中に押し付けた。
「す……ずき……」
 小さく彼の名前を呼んだ瞬間だった。
 突然目の前の影が動いたかと思ったら、視界がぐるりと回った。
 気が付くと薪はベッドの上に仰向けになっていた。両手は顔の横で押さえつけられて、ぴくりとも身動きできない。
 驚きながら、自分を押さえつけている大きな影を見上げる。するとそれが友人でないことに彼は気づいた。
 黒くて硬そうな髪、少し幼さを感じさせる額、そして暗闇の中でもきらきらと輝く瞳。

 夢の中の登場人物が、なぜかそこにいた。

「青、木……?」
 呆然とその名を呼ぶ。すると、彼の喉仏がごくりと動くのが見えた。おもむろに彼の頭が降りてきて、薪の胸元に沈み込む。首筋を吸われて、はっと息を飲んだ。
「え、なん……で……」
 薪は混乱した頭で考える。青木はさっきまで見ていた夢に現れた人物だ。どうして夢の中の人間がここにいるのだろう。それではやはり自分は眠っていて、今も夢の続きを見続けているのだろうか。
 もしそうなら──。

 ──夢を見続けるのと、夢から覚めるのとどちらが恐ろしいのだろう。

 なんだろう、この感覚は。胸がざわざわと掻き立てられる。何か恐いもの、見てはいけないものが待ち構えている、そんな気がしてならない。
 薪は恐ろしくなって、目の前の熱い塊にしがみついた。すぐさまそれ以上の力で強く抱きしめ返される。
「あ……や……」
 息苦しくなって、薪はいやいやと頭を振る。すると後頭部を掬われ、上から唇を塞がれた。
「んん……」
 ぬめりとした感触が押し入ってくる。強く舌の根を吸われ、息を継ぐこともできない。口づけのあまりの激しさに、くらくらと眩暈がした。
 服の下に手のひらが忍び込み、肌の上を這いまわる。だが少しも不快ではなかった。それどころかもっと触ってほしいとさえ思った。彼の指が触れたところから熱が生まれる。体の芯が熱くなって、薪は身をよじらせた。
 ズボンのウエスト部分に手を差し入れられた時は、自分から腰を上げてみせた。
 ああ、やはりこれは現実ではない。夢なのだ。こんな風に自分が何の抵抗なく他人を受け入れることなど、ありはしないのだから。
 そう思った途端、薪は理性の最後の欠片を手放した。全身の力を抜いて相手に身を委ねる。
 もう何も考えたくなかった。若い嵐のような激情に巻き込まれ、振り回されて、心も体もぐちゃぐちゃになる。広い背中に爪を立てながら、彼は子供のように泣き声を上げた。
 
 それからどれほどの時間、嵐が続いたのか。体力を使い果たしてぐったりとなった彼は、再び眠りに沈んでいった。今度こそ夢も見ないほど深く、深く。
 暗闇へと落ちる瞬間、彼は自分でも意識しないままに、一筋の涙をこぼしていた。

コメント

なみたろうさん

「酒での最大の失敗-薪剛の場合-」
こうゆういきさつでしたか!(°▽°)
鈴木さんの夢まで見ちゃって。
うんうん、悲しい夢を見たあとは誰かに子供のように甘えたくなりますよね。
薪さん夢の中では反動なのか甘えたさんですもんね(萌)
でもちゃっかり青木も出演してたんですねぇ、どんな?(血眼)
深層心理では好きだからこうなったんでしょ?でしょ?

この後どうなっちゃうんでしょう?目覚めてからの二人のズレは解消されるんでしょうか?
「僕から誘ったって言うのかーーっ!!」ガターン←椅子ひっくり返る
とか(笑)
楽しみです!(о´∀`о)

> 「酒での最大の失敗-薪剛の場合-」

なんて分かりやすくて端的なタイトル! もうこっちに改題しちゃおうかな(笑)。
いいですよね、薪さんがお酒で失敗するって。
もちろん青木以外とで失敗してほしくないですけど☆

> 鈴木さんの夢まで見ちゃって。

正確には「夢だと思っちゃった」んですね、薪さん。
第九のこととか、直前に岡部と飲んでいたこととかも全部、夢だと思いこんだんです。
だから起きた時に「なんだ夢か、目覚めて良かったー」ってなっちゃったんですね。うう……。

> 深層心理では好きだからこうなったんでしょ?でしょ?

それはもう♪
清水先生曰く、薪さんが青木を好きになったのが3巻だそうなので、
このお話は3巻以降、4巻以前の設定なんです。
雪子さんは青薪の仲を進展させるために生まれたキャラだそうですが、
「雪子さんと出会う前に薪さんと間違い起こしちゃったら、もっとてっとり早いじゃない!」
という発想で、生まれた話なので。めっちゃいい発想だと思いません?(笑)

> 「僕から誘ったって言うのかーーっ!!」ガターン←椅子ひっくり返る

なんか鉄拳が飛びそうですね(笑)。薪さん手が早いからなあ。
実は二人の認識のズレはまだあるんですよ。まだ全部は明かしてないので。
楽しみって言ってもらえたので、続き頑張りますねー^^

 

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