夢か現か
「いっ……」
耳元で小さく、だが鋭い悲鳴が上がる。青木は動きを止めて、「大丈夫ですか」と聞く。しかし、薪は何も答えない。
青木は体を起こし、サイドランプを点けた。
「あ……」
オレンジ色の光の下に彼の姿が浮かび上がった瞬間、青木はしまったと思った。
薪の顔はひどく青ざめていた。手は枕をぎゅっと掴んで、体を強張らせている。自分が痛みを与えてしまったせいだとすぐに分かった。
そうだ、彼は男性なのだ。女性と同じように扱ってはならない。ちゃんと手順を踏んで事を進めなければ、怪我をさせてしまう。そんな当たり前のことにも気づかないほど、自分が余裕をなくしていたことに青木は今更気づいた。
「ごめんなさい、薪さん。痛かったですか?」
「…………」
「で、ですよね。あ……ええと、ちょっと待ってくださいね。すぐ、すぐ戻りますから!」
青木はベッドから下り、そそくさと寝室を出た。遅まきながら、今から準備をしようと思ったのだ。
まず台所に行き、潤滑油にするためのオイルを探した。専用の物ではないが、食用だから体に入れてもおかしなことにはならないはずだ。
避妊具は自分の鞄の中に入っていた。前の彼女と別れて以来、入れっぱなしになっていたものだ。使用期限内かどうかは分からない。だが、背に腹は代えられない。今はこれを使うしかなかった。
それにしても、今の自分の間抜けさといったらどうだ。初めて訪問した上司の家を裸でうろつき回るだなんて、目も当てられない。後で正気に返ったら首をくくりたくなるかもしれない。
自虐的な思いが浮かびながらも、それを頭の中の屑籠に投げ捨てて、青木は急いで寝室に引き返した。
薪は布団を被って、向こうを向いていた。まさか寝てしまったのだろうか。だとしたら、かなりもったいないことをしてしまった。せっかく用意ができたのに。
「あの……薪さん、起きてますか?」
諦め半分で、恐々と肩に手をかける。すると薪はパッと跳ね起き、青木の首元にしがみついてきた。
「わっ、薪さん!?」
予想だにしなかった反応に面食らいながら、青木は両手で彼を受け止める。背中に手をやると、肌のしっとりと滑らかな感触に、思わず喉が鳴った。
「お待たせしてすみませんでした。遅かったですよね。本当にごめんなさい」
「青木……」
「は、はい」
吐息交じりに話しかけられて、心臓が跳ねそうになる。
どうしよう。この人はまぎれもなく自分の上司なのに、今だって名前を呼んでくる声はいつもと同じはずなのに、胸がざわついて仕方がない。か細い呼吸が鎖骨の辺りに当たるのを感じて、青木は体の芯に再び火が灯るのを感じた。
すると、薪は涙ににじんだ声で言った。
「……もう僕を、独りにするな」
「あっ……薪さん……!」
青木はたまらなくなって、彼をぎゅっと抱きしめた。
まさか彼がこんなにも可愛い人だなんて、思いもしなかった。仕事ではあんなに優秀で恐ろしいほどに完璧な薪が、今は幼子のようにたよりなさげにしがみついてくる。
「はい……はい、分かりました。もう二度と薪さんを離しません。俺がずっとあなたを抱いていますから」
「ん……」
じっと彼を見つめると、瞼が閉じられた。顎に手をかけて上を向かせる。薪は抗わない。青木はこくりと唾を飲み、ゆっくりと顔を近づけていった。
先ほど背後から囁かれた声は、今も青木の耳に残っている。
『す……好き……』
それが聞こえた時、最初は何かの間違いだと思った。彼が自分に恋情を寄せているだなんて、しかもこんな風に誘いをかけられているなんて、そんなことは絶対にありえないと。
だが薪の反応は意外にも積極的だった。キスをしたら舌を絡め返してくれた。太ももに手をかけると、素直に足を開いてくれた。肌に手のひらを這わせると、彼の体はすでに熱くなっていて──そうと分かったら、もう止まらなくなっていた。
今日まで自分たちはただの上司と部下だったはずだ。それが突然こんな感情が沸き起こってくるなんて、自分でも信じられない。だが今は、とにかく目の前の人が愛おしくて仕方なかった。
柔らかい唇にそっと口づけ、中に侵入する。そして奥の方に縮こまって隠れていた舌を引きずりだし、強く吸い上げる。
「んん……」
薪が苦しそうにするが、青木は勢いを緩めようとしなかった。右手でしっかりと後頭部を抑え込み、更に深く彼を味わう。唾液すら甘く感じて、青木は喜んでそれを飲み干した。
「ん……はあ……」
やがて薪がぐったりとなると、青木は彼をベッドの上に押し倒した。
彼の両側に手をついて上に乗ると、薪はすがるような目でこちらを見上げてくる。青木は優しく彼に話しかけた。
「大丈夫です。今度は痛くしませんから……俺、ちゃんと気をつけますから……」
そう言いながら髪を撫でると、薪は安心したように目を閉じた。
青木は先ほど用意したものに手を伸ばす。今度こそ大切に、彼を傷つけないようにしようと、心の中で誓いながら。
その体はいともたやすく開かれた。一切の抵抗はなかった。薪は青木の腕の中で、青木が作るリズムに従って、切ない声を上げ続けた。
青木はすぐに彼に溺れた。彼の中は狭くて窮屈で、しかしたまらなく熱かった。途中からはそれが男の体であることも忘れてしまっていた。青木の目には薪がただ美しいものとして映っていた。
彼の口から「触ってほしい」と強請られると、それだけで理性が吹き飛んでしまいそうだった。それでも力任せに押し開くことだけはしなかった。手加減せずに自分の欲望をそのままぶつけると、彼が壊れてしまいそうで怖かった。
理性と欲望の間でコントロールしながら吐き出す情欲は一気に消化されることはなく、その夜中をかけて二人に甘い夢をもたらした。