Glitter in The Air

 その日の午後、科学警察研究所ではちょっとした騒動があった。研究所の最高責任者である薪所長が突然意識を失って倒れたのだ。
 偶然その場に居合わせた第九研究室の岡部室長が、倒れかけた彼をすんでの所で受け止めて、事なきを得た。その後も岡部は慌てず冷静に対処した。薪をソファに寝かせ、胸元のボタンを外して呼吸を楽にしてやると、人をやって医務室に医者を呼びに行かせた。薪の顔色は悪く、冷や汗までかいていることが気にかかったが、床に頭を打ち付けたわけでなし、しばらく寝かせておけばいずれ意識は回復するだろうと彼は判断した。
 そのうち常勤医が駆けつけてきた。彼の診たてによるとただの貧血だろうと言うことだったが、脈拍に乱れがあり、何度呼びかけても意識が戻らないことから、大事を取って病院に搬送することになった。
 付き添いには岡部が同行した。彼が室長の懐刀であり、公私ともに最も信頼されている者の一人であることは周知されていたので、当然の人選だった。
 この時点ではまだ、事態を深刻に捉える者はいなかった。薪は研究所設立以来、最も多忙な所長として知られている。これまでにも働きすぎで倒れることは何度もあった。従って周りの人間も動揺することなく、あくまで事務的に対応していた。岡部ですらそうだった。
 状況が一転したのは、薪が病院に搬送されてからのことだった。

 通り一遍の検査をすれば、後は点滴を打ってそれで終わるだろう。岡部はそう考えていた。ところがいつまで経っても薪は診察室から出てこなかった。次第に中の気配が慌ただしいものになっていく。医者の厳しい声と、看護師たちの忙しなく走り回る足跡。しばらくして、待合室の入り口から別の医師が表れた。彼は早足で岡部の前を通り、薪のいる診察室に入って行った。
 状況を見れば何かあるのだと嫌でも察せざるを得なかった。しかし自分にはどうすることもできない。敬愛する上司の無事を祈りながら、彼はひたすら診察室の窓の擦りガラスを見つめ続けた。
 やがて薪は移動用ベッドでどこかに運ばれていった。岡部が後を追おうと立ち上がったところ、後ろから看護師に呼び止められた。
「薪さんの付き添いの方ですね? 診察室の方にいらしてもらえますか?」
 薪の後を追いかけたい気持ちはやまやまだったが、岡部は看護師に頷き、診察室の中に入った。

 自分の体には小さすぎる診察椅子に、岡部は窮屈そうに腰かけた。目の前で医師がぺらぺらとカルテをめくっている。自分自身が受診するよりも遥かに緊張すると、彼は思った。
「さて、と」
 医師が椅子ごとくるりとこちらを向く。彼の胸元には「里中」と書かれたネームプレートがかけられていた。
「内科の里中と申します」
「岡部です」
「ああ、岡部さん。薪さんの緊急連絡先が岡部靖文さんという方になっていますが、これはあなたのことですか?」
「はい」
 岡部は頷いた。岡部がまだ第九の副室長代理だった時、薪が捜査中に体調不良を起こすことが多かったので、科警研の提出書類の緊急連絡先欄に岡部の名前を書くことにしたのだ。その項目は彼が所長になってからも書き換えられていなかった。
「そうですか。それなら話は早い。ちなみにあなたと薪さんとのご関係は?」
「自分は薪さんが所長を務められている研究所で、室長をやらせてもらっています」
「なるほど。お仕事でお付き合いがあるんですね。他に彼のご家族やご親戚に当たる方は?」
「いらっしゃいません」
「それではあなたをご親族の代理としてお話しさせてもらうことになりますが、よろしいですか?」
「はい」
 岡部は膝の上で拳を握りしめ、背筋を伸ばした。すると、里中医師は岡部を安心させるように微笑んだ。
「そんなに固くならなくても大丈夫ですよ。薪さんは何か重篤な病気になったわけではありません。ただ気になる点があったので、いくつか検査をすることになりました。今日はこのまま検査入院して頂くことになりますが、よろしいですか?」
「あ、はい」
 里中の物言いは呆気なく、岡部は拍子抜けする。思わず息を吐くと、思いのほか長い溜息になって、自分がどれだけ息をこらえていたのかが分かってしまった。
「それでですね……うーん」
「はい」
 里中は手元のカルテに視線を落とし、何か考え込むような素振りを見せた後、一瞬ちらりと岡部を見た。
「いえ、やはり今はいいでしょう。詳しいことはまた明日、検査の結果が出てからということで」
「はあ……」
 何だったのだろう、今の視線の意味は。
 岡部はじっと里中の顔色を窺った。何百もの容疑者やMRI画像を読み取ってきたその眼光は、しかし同じく何百もの患者に当たってきた医師には通用しなかった。
「はい、結構です。じゃあまた明日いらしてくださいね」
「ありがとうございました」
 岡部は一礼して診察室を出る。やはり最後まで里中の物言いは軽いままだった。

 それから岡部は薪の病室に様子を見に行った。部屋は個室で、十分な広さがあった。柔らかなクリーム色の壁紙が目に優しい。枕元で看護師が点滴の管を調節していた。
 薪は大人しく眠っていた。先ほどまで紙のように真っ白だった顔は、いくらか血の気が戻って、唇に赤みが差していた。
「薪さんの具合はどうでしょう」
「先ほど一度目を覚まされましたよ。またすぐに寝入られましたが」
「そうですか」
 岡部が小声で看護師と話していると、薪が目を覚ました。
「薪さん。どうですか具合は」
「……岡部か、すまなかったな」
「いえ」
「確か、お前に……報告を受けていたんだっけな。ええと……」
「薪さん、薪さん」
 岡部は呆れ顔を作る。
「お願いですから今だけはワーカーホリックを返上して、体調を戻すことだけ考えてください。仕事のことを忘れるのは、あなたには難しいことかもしれませんけどね、そうでないと治る物も治りませんよ」
「ん……」
 いつものようにごねられることを想定していたが、意外にも薪はあっさりと頷いた。
「そうだな。お前の言う通りだ。正直……今は、仕事のことは考えられそうにない……」
 彼の言葉を聞いて、岡部は目を丸くする。あの薪が仕事を放棄するだなんて。これはいよいよ本格的に体調を崩してしまったのだろう。
 薪の表情はひどく辛そうで、それはいついかなる時も決して弱気な所を見せないこの人にとって、非常に珍しいことだった。
 額にうっすらと汗が浮かんでいる。岡部が枕元にあったタオルで汗を拭うと、薪は決まり悪そうに目を伏せた。

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