Flu*
Glitter in The Air
翌日の昼休みに、岡部は病院に行った。
入室する前にノックをしたが返事はなかった。「入ります」と一声かけて、扉を開ける。
病室に足を踏み入れた途端、芳しい香りが岡部の鼻孔をくすぐる。見ると、ベッドの枕元に、昨日にはなかった花が活けられていた。換気用に開けられた窓から流れ込む風が、花の香りを部屋の入口まで運んできたのだった。
薪はベッドの上に座って、薄い新書本を読んでいた。岡部を見て、本から顔を上げる。
「岡部」
「元気そうじゃないですか。調子はどうですか?」
「まあまあかな」
薪は小首を傾げる。昨日と比べると、随分顔色が良くなっている。岡部はほっと安堵した。
付添い用の椅子があったので、そこに腰かける。
「退院は何時頃になりそうですか?」
「さあ、どうだろう。今日はまだ先生と話していないから、分からない」
「そうですか。もう帰れるのならこのままご自宅までお送りしようと思ってたんですが、それなら一度引き返します。連絡くださったらすぐにお迎えに上がりますんで」
すると、薪は表情を曇らせた。
「岡部、無理しなくていいんだぞ。お前だって暇じゃないはずだ。僕なら一人で帰れるから……」
「無理してませんよ。というか、薪さんを放っておくほうが俺には無理です。捜査の方は気にしないでください。大分片もつきましたし、あとは残務処理だけです」
いい機会だと、岡部はついでに昨日しそびれた捜査状況の報告をした。それ自体は急を要するわけではなかったが、この患者には仕事の話をするのが何よりの薬になるだろうと考えてのことだった。
しかし薪の方はいまいち気乗りしないようだった。ちゃんと話を聞いて的確に指示を出してくれるが、いつものような打てば響くような反応ではない。それに捜査中は熱を帯びて輝く瞳が、今日はどこかぼんやりとして見えた。
やはり具合がよくないのだ。そもそも第九の血生臭い話など、病人相手にする話題ではなかった。岡部は心の中で反省した。
「じゃあ俺は一旦帰りますね」
「もう帰るのか」
「はい。薪さんの顔を見たら安心しましたんで。退院時刻の目途がついたら連絡してください」
「分かった」
椅子から立ち上がりしな、窓を振り返って「閉めましょうか?」と聞く。少し室温が低いような気がしたのだ。病身に冷たい風はよろしくない。しかし薪は「いや、いい」と答えた。
窓からは病棟に囲まれた中庭が見えた。木々の緑が昼の日差しを受けて、生き生きと照り映えている。なだらかにカーブした散歩道を、入院患者とその家族らしき人たちがのんびり歩いていた。
牧歌的な光景を眺めながら、ふと岡部の口から言葉がついて出る。
「ねえ、薪さん。どうせならこの際休みを取ってはいかがですか?」
「休み?」
「ええ、一週間ぐらいならなんとかなるでしょう? 今は忙しい時期でもありませんし、じっくり静養して万全の体調に戻してから、復帰された方がいいと思うんですがね」
「……そうだな。それもいいかもしれない」
薪が同意するのを聞いて、岡部は驚く。どうせ聞き入れないだろうと思っていたのだ。三度の飯より仕事が大好きなこの人が一週間も休む? 本気だろうか?
思わずまじまじと薪の顔を見ると、彼に睨まれてしまった。
「なんだ、その顔は。何が言いたい」
「いえ、何も。それじゃ薪さん、また後で」
せっかく薪が休みを取る気になってくれたのだ。下手に藪をつついて機嫌を損ねる前に退散しなくては。岡部はそそくさと逃げるように入り口に向かう。
すると扉に手をかけた所で、薪に呼び止められた。
「……なあ、岡部」
「はい?」
岡部が振り返ると、薪は窓の外を眺めていた。どこか遠くを見るような眼差し。色素の薄い髪の上で、光がこぼれるように遊んでいる。
「もし僕が科警研からいなくなったら、お前達にどれぐらいしわ寄せが行くんだろうな。……迷惑を、かけてしまうことになるんだろうか」
「は?」
岡部は一瞬きょとんとなったが、すぐに休暇の件かと思い立ち、急いでフォローした。
「や、そりゃあ緊急の判断を仰ぐ場合があれば、休暇中でも連絡を入れるかもしれませんがね? まあ一週間ぐらい大丈夫ですよ、なんとかなりますって。大体あんた、もう管理職になったんだから、一つ一つの事件に首を突っ込んでないで、偉そうに椅子にふんぞり返ってたらいいんです。まあそれができる薪さんじゃないことは分かってますけどね」
自分の所属する機関のトップに対して不遜な口を利く岡部に、薪は笑ったようだった。ようだと推定形で言うのは、窓から差し込む光が逆光になって、彼の表情がよく見えなかったからだ。
岡部は薪に笑い返し、そして──
「薪さん?」
なんだろう、その時岡部は奇妙な胸騒ぎを覚えた。薪の静かな微笑みに違和感のようなものを感じたのだ。
「薪さん……?」
岡部は彼の名前を繰り返しながら、部屋の中に戻った。開きかけていた扉が音もなく閉まり、この場を再び密室へと戻す。
岡部はベッドのすぐ傍に立って、薪を見下ろした。なぜか、今日初めて彼の姿を目にしたような気分だった。
今、目の前にいる彼の、その存在感のなさと言ったらどうだ。白いパジャマに身を包み、ちょこんとベッドに座した、その儚げな姿。
何かがおかしい。これは岡部の知る彼ではない。こんないたいけな子供のような表情を浮かべる人など、岡部は知らない。
「どうしたんです、薪さん」
「どうって……何が?」
「今、何を考えていらっしゃるんですか? どうしてそんな顔をしてるんですか?」
「そんな顔って……」
岡部に言われて、薪は驚いたように自分の頬に手を当てた。そして恐る恐る視線を上げてこちらを見る。まるで岡部の瞳に映る自分の姿を確認しようとするかのように。
岡部が黙って彼を見つめ返すと、薪は気まずそうに俯いた。そしてしばらく沈黙が続いた後、彼はようやく口を開いた。
「……薄々気付いてはいたんだ。何かがおかしいって」
「おかしい? 身体の不調がってことですか?」
「ああ。この頃どうしてか、一日が終わるとひどく疲れるんだ。すごくだるくて、集中力が持たなくて、気がつくとぼうっとなってしまう。その反動でか、夜はぐっすり眠るようになって……」
「眠れるならいいんじゃないですか?」
「いや、まるで失神するように寝入ってしまうんだ……ちょっと異常なぐらいに。元々眠りの浅い方だったのに、気が付いたら朝になってたってことが続いて、遅刻しそうになったことも何度もある」
確かにそれは薪らしくない。しかし疲れが溜まって、二日、三日の睡眠で解消できないことは、なんら不自然なことではない。まして過労で何度も倒れていた薪のことだ。今更そんなことぐらいで不安を覚えるものだろうか。岡部がそう言うと、薪は首を振った。
「それだけじゃない。最近、食べ物の味がよく分からないんだ。何を食べても砂を噛んでいるようで、けど食べないと持たないから、無理やり詰め込んでは結局後で吐いて……もうずっとそんなことを繰り返してる」
「薪さん」
岡部は身を屈め、下から覗き込むようにして薪の顔を見つめる。
「そんなことは普通です。誰にでもよくあることです。人間なんですから調子を崩すことだってあるでしょう。でも大丈夫、ちゃんと元に戻ります。医者の言うことを聞いて、薬を飲んで、よく寝て、食べて、そしたらすぐに元の健康な生活に戻れますよ」
岡部は真摯な気持ちで言葉を重ねる。少しでも薪を元気づけたくて、彼の不安をなくしてやりたくて。しかし薪は悲壮な顔つきを崩さなかった。
「違う、そうじゃないんだ。……一つ一つは大した症状じゃないのかもしれない。でも、予感がするんだ。僕の体の中で何かが変わっていく感じが。こうしている間も背筋がゾワゾワして、首筋がチリチリってなる。もう手遅れだ、もう前には戻れないんだって、何かが僕の中から語りかけてくるんだ」
「あなたらしくもない、そんな……」
岡部は言いかけていた言葉を途中で止めた。今の彼に何を言っても無駄だというのが分かったのだ。
なぜかは分からないが、薪は何かに怯えている。それは彼の言うとおり、体の内側から語りかけてくる彼の本能かもしれないし、あるいは岡部の考えるとおり、ただの気のせいなのかもしれない。それをどちらだと、今この場で決めることは不可能だった。
「分かりました。確かにあなたは病気なのかもしれない。少なくとも、俺の知る薪剛と言う人はそんな弱気な人ではなかった」
「……そうだな」
薪は笑う。自嘲するように、そして少し寂しげに。
そんな彼に、岡部は「お願いがあります」と切り出す。
「なんだ」
「この後医者が診察に来たら、俺も同席させてください。そしてあなたの病気がなんなのか一緒に聞かせてください」
「……岡部」
薪の目が開かれ、非難するように岡部を見つめる。
「馬鹿なことを言うな」
「いいじゃないですか。本当にあなたの仰る通り、深刻な病気が進行しているのだとしたら、俺にだって心積もりする必要があります」
「何を言っている。お前はもう室長になったんだろうが。僕一人の……」
「だからです。俺はあなたから第九を託された人間です。今、あなたと言う指針を失うことは俺にとって、いや、全国の捜査員達にとって大きな痛手なんです」
薪になんと言われても、岡部は一歩も引くつもりはなかった。白いシーツの上に力なく投げ出された小さな手。その上に、岡部はそっと自分の手を重ねる。
「あなたが抱えている荷物を、俺にも少しは持たせてください。いえ、俺にはそうする義務があります。なぜなら、第九がまだあなたを必要としているからです」
「……」
薪は目を伏せたまま答えない。パジャマの襟の開いた部分から、ほっそりとした首筋が見えた。こんなにか細い肩に、信じられないほどたくさんの重石が乗せられている。そしてその重石の中には岡部自身も入っているのだ。小さな石ころの一つでしかないかもしれないが、岡部は自分だけでも飛び降りて、彼の負担を軽くしてやりたかった。
「……すまない。部下のお前にこんな、情けない……」
「何を言ってるんです」
岡部はカラッと笑って、親指で自分の胸を指差した。
「ただの部下じゃありません。俺はあなたの緊急連絡先でしょう?」
コメント
しづさん
ちょっ、辛抱たまらんのですけど! なにこれ、気になる!!
続き、続き読みたい!!!
続き気にして頂いてあざっす!
薪さんラブな私が彼を不幸にするわけないじゃないですか。
ほんのちょこーっと酷い目に遭わせるだけですって☆
多分Sなしづさんなら楽しめる程度の酷さだから安心してください^^
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