NO WAY OUT

 故人の脳から生前の映像を読み取り、事件の背景を読み取るMRI捜査。運用開始から日が浅く、いまもなお世界中で研究が進められ、その歩みは日進月歩と言われている。しかし、開発当初から現在に至るまで圧倒的トップにいるのがアメリカであることは、依然として変わらない。
 研究チームの開発実績、MRI捜査を必要とする猟奇的事件の発生率、それに比例する捜査員の熟練度及び検挙率、捜査にかけられる予算や人員数、MRIに対する世論の理解、認知度など、あらゆる面において、日本は後塵を拝している。
 無論日本の警察とて、おめおめとその立場に甘んじているわけではない。大学の脳科学研究チームとの共同開発や米国との交流を積極的に支援し、捜査技術の更なる向上を図っている。
 その一環として、科学警察研究所は国際シンポジウムを開くことになった。これは科学警察研究所の所員は元より、本庁の捜査員や関連分野の研究員、大学関係者なども含め、国内外からあらゆる専門家を招いた大々的なものだった。

 その日、薪が所長室で仕事をしていると、室内インターフォンが鳴った。
「なんだ」
「所長、アンダーソン氏がお見えです」
「分かった。通してくれ」
 秘書に案内されて客が入室する。薪は椅子から立ち上がり、彼を迎え入れた。
「やあ、剛。久しぶり」
「よく来てくれた、ドワイト。本当に久しぶりだ」
 薪は差し出された右手を取り、客人と握手を交わした。
「迎えに行けなくてすまなかった」
「いいさ、君が忙しいのは知っている」
「ありがとう。さあ、かけてくれ」
 ソファを勧めると、彼はきょろきょろと辺りを見回しながら腰かけた。
「ここが君のオフィス? 相変わらず面白味のない、殺風景な部屋だな。君がこっちにいた時とちっとも変わらない。それともこういうのが日本人の慣習ってやつなのか?」
「どちらともにイエスだ。そもそもこの部屋は僕の私室というより、むしろ公的な性質を持っている。仕事に関係しない物は極力持ち込まないのが望ましいんだ」
「なるほど、君という人間はそうやって形成されてきたんだね」
 客人はオーバーアクション気味に肩をすくめた。
 薪と親しげに会話している人物はドワイト・アンダーソンという。米国でも辣腕で知られた捜査官だ。MRI捜査のエキスパートであり、その功績から二度受賞経験もある。薪はMDIP出向時に彼と知り合った。
 今回のシンポジウムでは、彼に講演をしてもらうことになっている。その豊かな経験と本場で培われた高度な捜査技術を教授してもらえれば、日本の捜査員達に大いに役立つことだろう。
 多少の世間話を交えながら互いの近況報告をした後、早速講演会の打ち合わせに移る。通訳の人間も部屋に呼び入れ、講演の内容を確認する。今回通訳は、イヤホンを用いる同時通訳の形式で行われる。通訳者がMRIの専門用語について質問するのを、薪が仲介役になって説明する。
「いっそ君が隣に立って通訳してくれた方が早いんじゃないか?」
 とアンダーソンが言うのを、薪は苦笑で答えた。
 打ち合わせを一通り済ませた後、薪は時計を見た。時間は少し早いが、昼食にしようとアンダーソンに持ちかける。
「いいね。ちょうど腹が減ってきたところだ」
「体調はどうだ? 時差ボケはないか?」
「ああ。もしあったとしても、食欲には影響しないから大丈夫だよ。今朝もホテルのモーニングバイキングでしっかり食べたしね」
「そうか、ならいい。ちなみに店のリクエストは何かあるか?」
「うーん、そうだな……あっ、そうだ。肉がいい! 一度、本場の神戸ビーフを食べてみたかったんだよ」
「分かった。手配しよう」
 薪は秘書を呼び、車と店の手配を言いつけた。
「了解しました。少々お待ちください」
 有能な秘書は、すぐに店の予約を取り付け、車を正面玄関に回したと連絡してきた。二人はソファから腰を上げ、所長室を出る。
 その時、薪の胸元で携帯が鳴った。
「失礼」
 薪が断って携帯を取り出す。アンダーソンは足を止めて彼を待った。
 先ほどの着信音はメールだったようだ。薪は画面を一読すると、不機嫌そうに眉を顰めた。それを見てアンダーソンが尋ねる。
「どうした。何かあったのか?」
「あ、いや」
 薪は返信を打たず、携帯をポケットにしまった。
「たいしたことじゃない。部下が業務連絡をよこしてきただけだ」
 薪はそう言うが、表情は冴えない。自分に気を使わせまいとしているのではないかと、アンダーソンは心配した。
「このままランチに出て大丈夫かい? もし何か重要な連絡が入ったのなら、僕のことは気にしなくてもいいんだぞ? 同業者なんだ、急に融通が利かなくなることぐらい承知している」
「いや、本当に大丈夫なんだ。何も問題はない。ただその、メールを寄越してきた相手が想定と違ったから、少し苛立っただけで……」
 そこまで言うと薪は口ごもり、手を丸めて口元を隠すようにした。
 部外者に対して喋りすぎたと思ったのだろうか。彼は日本の警察機構の中でも高い地位にいる。どんな些細な情報でも漏らすわけにはいかないのだ。それなのに自分は彼を追及するような真似をしてしまった。
 アンダーソンは反省し、冗談で場を紛らすことにした。
「そうか、私はてっきり君がガールフレンドからのメールでも待っているのかと思ったよ。だってほら、恋人からの連絡は何に置いても優先されるべき物だからね」
 そう言ってウインクをすると、薪はふいと視線を逸らした。
「……そんなんじゃない。それより、早く昼食に行こう」
「ああ、そうだな。肉汁滴る神戸ビーフが僕らを待っている。これを食べに今回日本に来たようなもんだ」
 アンダーソンは豪快に笑って薪の背中を押した。
 エレベーターに入ると、薪が扉の脇に立ってボタンを押した。扉が閉まり、静かにエレベーターが下がって行く。奥に入ったアンダーソンは薪の背中を見ながら、心の中で「おやまあ」と呟いた。
 先ほどの短いやり取りで、彼は薪の態度にわずかな違和感を見つけていた。
 アンダーソンは薪がいまだに独身であることを知っている。健康な成人男性で、社会的地位がある上に、本人の性格にもなんら問題はない──多少短気なのが玉に瑕だが。なんといってもあの容姿だ。相手に困るわけがない。しかしアメリカにいた時から、薪は不思議と女の影──あるいは男の──を一切感じさせなかった。
 それゆえに、周囲からはからかわれることも多かった。
「目の下に隈があるけど、昨日はお楽しみ?」
「あれ、そのシャツ昨日も着てたよね? 昨夜君が泊まった家に男物の着替えは置いてなかったの?」
 と、こんな具合に。だがそのたびに、薪は不快げな態度を露わにしていた。冷たい視線で相手を黙らせ、しつこく食い下がる者には鼻で笑ってあしらう。そうやって彼は、自分の私生活を覗き込もうとする人間を片っ端から跳ね除けていた。
 だが先刻薪が見せた表情は、その中のどれとも一致しなかった。「そんなんじゃない」と答えた時の、あの眉ひとつ動かさない落ち着きぶり。完璧と言っていいほどのポーカーフェイス。
 相手がただの一般人ならば、それで通用しただろう。しかしアンダーソンは一般人ではなく、長年第一線で働いてきた捜査官である。彼は薪のような人間が嘘を吐くとき、どういう態度に出るのかをよく知っていた。
 エレベーターが一階に着き、チンと軽い音が鳴って、扉が開いた。先に薪が外に出る。そのあとに続きながら、アンダーソンは口の中でそっと呟く。
「そう言えば、彼は……」

──ポーカーフェイスの割には、意外と顔に出る奴だったなあ。

「何か言ったか、ドワイト」
 薪が振り返ってこちらを見る。アンダーソンは歩を進め、彼の横に並んだ。
 すぐ隣から見上げてくる彼の表情はとても幼く見えた。いや、実際彼は若々しい。アメリカでは何度も未成年と間違われていた。
 ひとたびその人畜無害の仮面を外せば、大の男も泣かせてしまうような恐ろしい顔を持っていることなど、誰も思いつかないだろう。全く東洋人というものは恐ろしい。
 だがそんな彼も、今はとりすました顔の下で、恋人からの連絡を待ってそわそわしている。そう考えれば、なんとも微笑ましいではないか。
 アンダーソンは本国仕込みのポーカーフェイスで、薪に笑いかける。

「腹の虫が鳴ったのさ」

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