NO WAY OUT

 翌日、薪はかなり早い時間から講演会場に赴いた。
 入口の所で、警備についている警官達から敬礼を受ける。薪は彼らに目礼を返した。
 会場の周囲は厳重に警備されている。なんせ今日は日本中から第九の捜査員が集まるのだ。それはすなわち、国内のありとあらゆる犯罪を記録した脳が一堂に会すると言うことになる。どれだけ警戒しても足りるということはない。この日のために薪は警察庁に要請して、徹底的に人員を配備した。
 ──もう、第九から殉死者は出さない。
 あの日から、胸の中にある誓いを守るために。

 本当のことを言うと、薪はたった一度、その誓いを破ろうとしたことがある。他でもない、自分自身を殉死させようとしたのだ。部下の手にかかって。
 幸いにして部下が健全な精神を持っていたために、薪は間違いを犯さずに済むことができた。自分を救ってくれた彼にはどれだけ感謝してもしきれない。生憎、本人に直接そう伝えたことはないのだが。

 会場の担当や警備主任が、薪の下に次々と足を運んでくる。それらに応対しつつ、責任者として諸々のことを確認し、また顔を見せたお偉方に挨拶に伺いと慌ただしくしている間に、開場時間が近づいてきた。座席も着々と埋まっている。
 全国から第九捜査員が集まると言っても、全員が来られるわけではない。それぞれ管区での仕事があるのだ。開催地である第三管区以外では、主だった人間が代表して来ることになっている。大体は室長と若干名だ。もちろん担当地区で事件が発生した等の特別な場合においてはその限りではない。
「おおい、薪。ちょっとこっちに来てくれ」
 壇上に上がっていたアンダーソンが薪を呼ぶ。薪は舞台袖に回り、上手の階段から壇上に上がった。舞台中央に向かって歩きながら、客席にさっと目を通す。
 第九の捜査員達は管区ごとに集まっているようだ。今、出席が確認できているのは、第一管区、第二管区、第五管区、それから──
 薪が何人かの懐かしい顔ぶれを見つけた時、客席の一番高いところにあるホール入口のドアが開いた。薪の瞳が一九〇センチの人影を捉える。
 しかし彼はすぐに視線を戻して前方を向いた。
「どうした、ドワイト」
「ああ、ちょっとここを見てくれ。この操作方法なんだけど……」
 アンダーソンが手元の操作パネルを指さす。薪はそれを覗き込むふりをして、さりげなく客席に背中を向けた。

 定刻になり、薪は壇上に立って開会の挨拶をした。とかく形式ぶるのが好きな日本らしい慣習である。薪個人としてはこの行為に特に意味を見いだせないが、立場上なおざりにするわけにもいかない。所長として礼を失しない程度の必要最低限の文言を述べ、彼は早々に舞台袖に下がった。
 ホール横の入口から中に入ると、彼は用意されている席に着かず、そのまま壁際に立った。最前列の席に座るより、ここにいる方が会場全体がよく見える。舞台の照明が薄暗い客席をぼんやりと照らしていた。
 今井と山本は到着が早かったこともあって、それぞれ前の方に陣取っていた。管区をまとめている室長の性格が出ているのだろう。連れている捜査員達は皆背筋を伸ばして、真剣に聴講している。中にはメモを取っている者もいた。
 一方、曽我や小池たちの管区は、全体的に緊張感が欠けていた。決して不真面目なわけではないのだが、どこかしまりがない。室長の二人は隣同士の席に座り、時折話をしているようだった。
 岡部ら第三管区の人間は、この中で唯一全員が出席している。彼らは有事の際にすぐ対応できるよう、後方入口の近くに座っていた。
 薪は間もなく宇野、斎藤の管区も見つけ、それから──最後に第八管区を見た。
 彼らは正面後方の位置にいた。室長の青木と、その隣に部下が一人。今回第八管区の出席者は二人だけのようだ。
 こうして遠くから眺めると、一人だけ列から頭が飛び出ているのがよく分かる。座っていて尚そうなのだから、立ち上がると差がもっと開くことだろう。薪は人ごみの中で彼を探す時、いつも苦労しなかったことを思い出し、くすりと笑った。
 そのうち、隣の席に座っている男──恐らく部下だろう──が青木の肩に手をかけるのが見えた。青木はイヤホンを外し、そちらに耳を寄せる。男はシンポジウムの冊子を開いて青木に話しかけている。青木がページを指差しながら何事か答えると、隣の男は青木に軽く頭を下げた。青木は微笑んで頷き返す。その表情がいつもの彼より大人びて見えて、薪は一瞬目を奪われた。
 あれが彼が普段、部下に見せる顔なのだろう。薪が知ることのない、上司としてのあの男の顔。
 青木が再びイヤホンを耳にかけ、正面を向いた。舞台上のスクリーンから発せられる青白い光が、彼の顔に陰影を作っている。
 客席を見上げながら、薪は無意識に口元に手をやり、親指で自分の唇をそっとなぞっていた。

 全てのスケジュールがつつがなく進行し、夕刻、シンポジウムは閉幕した。参加者たちはぞろぞろと会場を後にする。薪は入口の混雑具合が収まるのを見計らってから、ロビーに出た。するとかつての部下たちが、薪を見つけてこちらにやってきた。
「薪さん、どうも。ご無沙汰してます」
「どうも。俺はこないだ会ったばかりですけど」
 真っ先に曽我と小池が声をかけてくる。その後ろには宇野と今井もいる。彼らの周りに随行者の姿はない。それぞれ部下をどこかに待たせているのだろう。
 すると、背後のドアが開いて岡部が現れた。
「薪さん、全員会場を出ました。……と、なんだお前ら、こんなところで同窓会か?」
 岡部の言葉に、一同は笑って互いを見る。
「ども、岡部さん。お久しぶりです」
「本当に同窓会めいてきたな」
「うんうん。俺ら、別に示し合わせてきたわけじゃないのにな」
「これで山本と青木がいたら全員揃うところなんだが……」
 今井がそう言った途端、ロビーの柱からのそりと現れる人影があった。
「私ならここにいます……」
「うわっ!」
 曽我が驚いた声を上げる。よく見ると、その人影は山本だった。
「び、びびったあ……。もう少し普通に登場してくれよー」
「曽我さん、私は普通じゃない登場をしたつもりはありませんよ。皆さんが勝手に驚かれただけです」
「ったく、ほんと変わんねえな、その陰気な所。つうか、仮にも室長なのにその存在感のなさはどうなのよ」
「私の役職は仮ではありませんよ、小池さん」
 曽我や小池に文句を言われても、山本は顔色一つ変えずに言い返している。そんな彼らを見て、今井や宇野達が苦笑している。あの頃と全く変わらない、かつての第九の姿だった。
「後は青木だけか?」
「あいつがいないはずがないよな。どこ行ったんだ?」
 小池がきょろきょろと辺りを見回すと、宇野が言った。
「青木なら帰ったよ。昼の休憩のときにちょっとだけ話したんだ。今日はすぐ帰るんだって」
「え、そうなの?」
 曽我が意外そうに言って、薪を見る。
「薪さんがここにいるのに?」
 小池まで薪を指さしてくる。薪がじろりと睨むと、彼らは慌てて顔を逸らした。
「俺も理由は知らないけど、なんか忙しそうにしてたぜ。部下も一人しか連れて来なかったしな。皆によろしくって言ってた」
「そっかあ。あいつもちゃんと室長やってんだな……」
 曽我がしみじみと言い、その場の空気がしんみりとなる。すると、岡部がぱんぱんと手を叩いた。
「そうだ。あいつはもう室長だし、お前らも室長だ。全員部下を連れてきてるんだろう。いつまでここで駄弁ってるつもりだ?」
 岡部の言葉に、全員がハッとしたように時計を見る。
「あ、そうですね。じゃあ、俺もそろそろ……」
「薪さん、今日はお疲れ様でした」
「また今度、機会があれば、皆で飯食いに行きましょうね」
「薪さん、来月例の件でご厄介になる予定ですが、よろしくお願いします」
 口々に別れの言葉を良い、頭を下げて去っていく。薪は全員を見送った後、岡部に後のことを指示し、彼ともそこで別れた。
 これから関係者との交流会が予定されている。薪も当然出席しなければならない。それが終わってからも、まだ仕事は残っている。今日自宅に帰れるのは深夜になるだろう。
 駐車場に向かう途中、携帯にメールが入った。送信者の名前は薪が今日一日連絡を待っていた相手だった。
 薪は足を止め、メール画面を開く。

『本日はお疲れ様でした。
 挨拶もせずお暇してすみません。
 お体に気を付けてご自愛ください。   青木』

 たった三行の短い文面。薪は無言でそれを見つめ、携帯をポケットにしまった。そして彼は再び歩き出し、運転手がドアを開けている車の後部座席に乗り込んだ。

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