NO WAY OUT
あれは、去年の暮れに青木が上京した時のことだった。夕飯の買い物をしているときに、彼が今夜は冷えるので鍋にしようと言い出したのだ。俺が作りますからと。
青木は慣れた手つきで下拵えをし、コンロをセットし、手際よく準備を進めていた。学生時代によく仲間内で鍋をしていたらしい。薪も手伝おうとしたが、「薪さんは何もしないで座っててください」と言われて、台所を追い払われてしまった。これまでの人生で、テーブルについているだけで料理が出てくるという経験があまりなかったので、随分面はゆく感じたのを覚えている。
食事の間も、青木は楽しそうにしていた。鍋物が好きだというのもあるだろうが、何より自分の作ったものを薪に食べてもらうのが嬉しかったようだ。にこにこしながら、しきりに給仕したがった。そのせいでいつもより多めに食べさせられてしまい、少し体が重たくなったほどだった。
料理を任せた代わりに、食後は薪が一人で皿洗いした。途中、腕まくりしていた袖が手首までずり落ちてしまった。両手が泡まみれになっていたので、すぐには直すことができなかった。一度手を洗おうと、スポンジを置きかけたときだった。
不意に体の後ろから手が伸びてきた。いつの間にか青木が背後に回っていたのだ。
「俺がやりますよ」
突然耳元で囁かれて、薪はぎょっとなってしまった。
「はい、できました」
青木は両方の裾口を二回丁寧に折り返してくれた。だが彼の手が離れても、薪は体を強張らせたままだった。そんな薪の様子に、青木は不思議そうにしていたが、やがてにこりと笑って薪の唇に軽くキスをした。そして何事もなかったかのように、そばを離れていった。
それでも薪は立ち呆けたままだった。気がついたらシンクの蛇口から水が出しっぱなしになっていて、彼はしばらくしてからようやくそれを止めたのだった。
向こうからすれば、なんてことのないやり取りだったのだろう。そんなことがあったことすら、今は忘れているのかもしれない。しかしこの時のことは、薪の胸にしこりのように残った。そして彼はその日以降、青木との別れについて考えるようになった。
ぎゅっと目を瞑ったまま、薪は顔を上げられずにいた。彼が今どんな表情をしているのか見たくなかった。いや、見られなかった。
あまりに堅く瞼を閉じすぎて、そのうち裏側にチカチカと明滅する光が見えた。その光はやがて視界をぐるぐると回りだす。
これは一体なんなのだろう。薪がそう考えた途端、腰をがしっと掴まれる感覚がした。
目を開けると、青木が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
そう言われて、薪はようやく自分が立ちくらみを起こしたことに気づいた。彼に支えられてなんとか倒れずにすんだが、立っているのもやっとの状態だった。
「ここ、座ってください」
「……ん」
青木の腕に支えられながらベンチに腰かける。
ひどく息苦しかった。喉を反らして、大きく息を吐き出す。すると青木がネクタイを緩めて、首元を楽にしてくれた。
「救急車を呼びますか?」
薪はのろのろと首を振る。
「じゃあ式場の人を呼んで……」
「い、い……大丈夫、だから……」
この程度の貧血なら何度も経験している。少し休んだら良くなることは知っているし、原因も分かっている。心因性ストレスだ。
そうと認めた瞬間、薪は自分が情けなくなった。別れ話も満足にできないのかと、自分の弱さに反吐が出そうだった。
青木が隣に座って、薪の頭を自分の肩にもたれ掛けさせる。そのままじっとしているうちに、なんとか眩暈は収まったが、一向に気分は良くならなかった。青木がハンカチで額の額を拭う。
「顔色が戻らないな……薪さん、少しだけ歩けますか? ここでは休めないと思うので、移動できるならした方がいいと思います。どこか横になれるところに行きませんか?」
薪は声を出すこともできず、ただ頷いた。
青木の手に掴まりながら、来たときと同じ道を逆に辿る。幸いなことにあまり人目にはつかなかった。一人だけスタッフと行き違い、「大丈夫ですか」と声をかけられたが、青木が「ただの貧血ですから」と答えた。
ちょうど行列が切れたらしく、タクシー乗り場に人影はなくなっていた。おかげですぐに乗車することができた。
後部座席に乗り込むと、青木が最寄りのホテルに行ってくださいと運転手に告げた。
「薪さん、到着するまで少しでも横になっていてください」
「いや、大丈夫だ。そこまでしなくても……」
「そんな遠慮してる場合じゃないでしょう」
青木は自分の膝を枕にして、強引に薪を横たわらせる。すると運転手が話しかけてきた。
「お連れさん、ご気分が悪いんですか?」
「ええ、貧血を起こしてしまって」
「なんでしたら病院にお連れしましょうか? ちょっと遠いんですけど、救急受付しているところ知ってますよ」
「いえ、薬を飲んで少し休めば大丈夫なんです。いつものことなので」
「そうですか。ちなみにホテルのご希望は何かありますか?」
「いえ、特には。ただできたら部屋は広めの所がいいですね」
「了解しました」
彼らの会話を聞きながら、薪は目を閉じる。すると額に手が乗せられて、視界が暗くなった。薪が寝られるようにと、気を使ってくれたのだろう。
微細に揺れる後部座席のシートは、お世辞にも快適な寝心地とは言えなかった。しかし彼の手のひらの温もりを感じながら、薪は少しだけとろとろと微睡むことができた。
間もなくタクシーは大通り沿いのホテルに到着した。外観がやや古めかしい、煉瓦造りのホテルだった。タクシーがロータリーを回ってエントランスにつけられる。
青木がチェックインの手続きをしている間、薪はロビーのソファで休んでいた。やがて彼が戻ってきたので、薪は立ち上がろうとしたが、やはり足に力が入らなかった。仕方なく青木の手を借りながら、なんとかエレベーターまで移動する。
部屋に入ると、正面の窓から夕焼けの赤い光が差し込んでいた。薪が手をかざして顔を背けると、青木がさっとカーテンを引いて、室内を少し暗くした。
「さ、どうぞ、横になってください」
「ん……」
ジャケットを脱いでシャツ一枚になると、薪は倒れ込むようにベッドに横になった。すると上からそっと布団をかけられる。羽毛の柔らかい感触に包まれながら、彼は落ちるように意識を手放した。