3つのSの秘密

 彼は非常な苦悩の中にいた。今更悔やんでも悔やみきれない。なぜ自分はあの書類を失くしてしまったのだろう。
 それ自体はなんら重要なものではない。会議で配布された資料の一枚にすぎない。捜査が終了すれば、シュレッダー行きになるだけである。もちろん部外者には見せられないが、ここ科学警察研究所に民間人が立ち入ることはまずないから、その意味での心配はない。問題は用紙に書かれていることではなく、その欄外なのだ。
 会議の終盤辺り、少々集中力が途切れてしまい、手持無沙汰にペンを走らせた。深い意味はない。他の人間に見せるつもりなど毛頭なかった。
 もしあの走り書きが誰かに見られたら、とんでもない事態を招くことになる。特にあの室長に見つかったら──今後の自分の進退に関わるかもしれない。
 そして彼は焦る気持ちを必死に抑えつけながら、もう一度デスクの引き出しを一段目から調べ始めた。

* * *

 その日、青木は午前中いっぱい研究所の外に出ていた。事件が解決し、保管していた証拠品の返却に、管轄区の警察署まで使い走りをさせられていたのだ。帰りにいつもの定食屋に寄り、職場に戻ったのはちょうど昼休みの中頃だった。
「あ、帰ってきた」
 本部に入ると、何やら部屋の一角に人だかりができていた。今井、小池、宇野、曽我の四人である。その中で真っ先に小池が青木に気づいた。すると、残りの三人も一斉にこちらを振り向いたので、青木はぎょっとした。
「どうしたんですか、皆さん」
「これだよ、これ」
 今井がホワイトボードを指さす。はて、何か掲示があったのだろうか。青木が近づいてみると、そこには一枚の捜査資料が貼りつけられていた。
 内容を読むと、それは自分達が従事していた事件の資料だった。事件自体は昨日で閉幕している。その時の会議で配られたものだろう。青木にも見覚えがあった。
 これがどうしたんですかと言いかけて、青木はその下の余白に気づく。そこにはやや右上がり気味の字で、こう書かれていた。

薪  SSS
岡部 鎖につながれた野獣
小池 有事には目が開きます。
曽我 キャリアに見えない? よく言われます。
今井 完全無欠のオールバック
宇野 無個性が個性です。本体は眼鏡 
青木 忠犬イッ公
山本 今頭の中にある数字から20引いてください。それが実年齢です。

 たっぷり一分間の沈黙を取った後、青木は言った。
「なんですか、これ?」
 周囲が落胆の吐息をつく。
「やっぱこいつじゃなかったか」
「最重要容疑者が消えちまったな」
「しかし、これでいよいよ誰が犯人か分からなくなったぞ」
 次々出てくる不穏な言葉のオンパレードに、青木は慌てふためく。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。容疑者ってなんのことです。俺がこれを書いたって、疑われてたんですか?」
「疑うっつーか、俺らが昼飯から戻ってきたらこれが貼ってあったんだよ」
 なあ、と小池が曽我を見る。
「その場にいなかったのがお前と薪さんだけでさ、さすがに薪さんがこんなことするわけないから、じゃあ青木かなって」
「そんな、俺じゃないですよ!」
 とんでもない濡れ衣である。道理でさっき戻ってきたとき、自分を見る皆の目がおかしかったはずだ。しかしこれでは欠席裁判ではないか。
「俺だって今戻ってきたばかりなんですから。一体いつこんなことする暇があったって言うんです」
「それはだな、いったんここに帰ってきた後、お前はもう一度外に出たんだ。あたかも自分にはそれをする時間がなかったってアリバイ作りするために」
 自説を披露する小池の口調は、いかにも芝居がかって大げさだったが、容疑をかけられた青木は必死で、そのことに気が付かない。
「そんな無茶苦茶な……あ、そうだ。木根屋のレシートがあります! 正午過ぎに店に入ったから、これならちゃんと証明になるでしょう? 入店から注文が届くまでに五分かかるとして、急いでかっこんだとしても……」
 青木が財布を取り出そうとしたところで、宇野が笑いをかみ殺しながら、彼の肩を叩いた。
「分かった分かった。つうか、冗談だって。別に本気でお前を疑ってたわけじゃないんだけど、ほら、お前だけちょっといいように書かれてたからさ」
「いいようにって……これがですか?」
「ああ」
 宇野がにっこりと笑い、曽我も「ぴったりだよな」と同意する。前者はともかく、後者は悪意のなさそうなのが、余計にたちが悪い。
 元ネタはなんとなく分かる。美談として語り継がれている、あの有名な犬の名前をもじっているのだろう。だからといって、素直に喜ぶ気にはなれない。むしろ馬鹿にされているとしか思えなかった。青木は憮然となった。
「それで言ったら、今井さんのだって悪くないじゃないですか。完全無欠って、要は欠点がなくて優秀ってことでしょう?」
「ばかお前、ここを見ろ、ここを」
 今井がとんとんと用紙の端っこを叩く。そこには何やら書き連ねては、線でごちゃごちゃと消した痕があった。
「おー、るば……?」
「続けて読んでみろ」
「おーる……オールバック王子……オールバック刑事……夜明けのオールバック……」
 読み進めていくにつれて、声が小さくなっていく。今井がじろりと青木を見る。
「どうだ、これでもまだ褒められていると思うか?」
「……いえ、すいませんでした」
 青木が大人しく頭を下げると、今井はふんと鼻を鳴らした。どうやらこの落書きが気に食わないのは、青木だけではなかったようだ。小池や宇野達も憤っている。
「ったく、ふざけてるよなあ。有事にはってなんだよ。まるで俺がいっつも目瞑ってるかのように。ちょっと人より細いだけだっつの」
「俺なんかこれが本体だってさ。わざとらしく横線で消してあんのが、またムカつくよ。もういっそコンタクトにしちまおうか」
 一方で、真面目に落ち込んでいる者もいた。
「これ書いた人、俺がキャリアっぽくないって人からよく言われるの、なんで知ってんだろう……」
 青木は慌てて彼を慰める。
「曽我さん、こんなの気にすることないです。きっと部外者の悪質な悪戯ですよ。ほら、会議って捜一の人たちもいたじゃないですか。その中の誰かが書いたんですよ」
 第九は捜査の途中で、指揮権を他所から移譲されることがある。当然、取り上げられる側には遺恨が残る。同じ警察官同士でありながら、第九に対して悪感情を抱く者は少なくないのだ。
「どうせ俺らのこと、ろくに知らないで書いたに決まってます。真に受けちゃいけません」
 青木は楽観的に言うが、今井が残念そうに首を振る。
「青木、お前にはまだ捜査官としての意識が足りていないようだ」
「え?」
「もう一度よく見てみろ。今度は隅々まで注意して見るんだ」
 実績二位の彼に言われて、青木は資料を見直す。すると右上の方の余白に、鉛筆で薄く塗り潰した箇所があった。上に重ねられた紙に書かれていた文字を、筆圧の痕跡から読み取るやり方である。そこから短い一文が解読できた。
「今週末、MRIメンテ……」
 文字を読み上げた瞬間、青木はハッとなった。それは確か、昨日会議が終わった後に、室長の薪から通達された事柄だった。すなわち、この用紙の持ち主はその場に居合わせていた者──第九内の職員に限定されてしまうのだ。
 青木は顔色を変えて今井を見る。彼は片方の口角だけを上げて、シニカルに笑った。
「どうだ、分かったか。俺達がどうしてお前を疑うような真似をしたのか」
「はい……」
 さすがは今井さん、と青木は思った。MRIの画像だけでなく、実際の証拠品にも向けられるその鋭い観察眼は、まさに第九研究室の一員たるにふさわしい。唯一岡部と肩を並べ、薪からも信頼を寄せられているだけのことはある。
 敬服の目で今井を見る青木の隣で、小池もまた思っていた。こういうことにマジになる辺り、この人も結構変わってるよな、と。

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