3つのSの秘密
それから三日間は何事もなく平和だった。書類の行方について、不自然なぐらい誰も口にしないという一点を除けば、概ねいつも通りだった。
翌週になると、早くも次の大きな事件が舞い込んだ。そして前週のちっぽけないざこざは、取るに足らないこととして、誰の頭からも忘れられていった。
夕方になって、それまで根を詰めて画面を見ていた職員達も、いい加減背筋を伸ばし始める。そのうち誰かが「たまには外のコーヒーが飲みたい」と言いだして、青木が近所のコーヒーショップまで走らされるはめになった。
八人分の注文を受け取り、店を出ようとしたところで、一人の女性客とぶつかりそうになった。寸前でなんとか回避したが、相手の女性は手荷物が多く、その中の一つを取り落としてしまった。中身が床にばらまかれてしまい、青木は慌ててそれを拾う。
「どうもすみません」
「いえ、こちらこそ余所見をしておりまして。申し訳ありませんでした」
「コーヒーは大丈夫でしたか?」
「はい、豆を購入しただけですので。お気遣い痛み入ります」
荷物を回収した後、立ち上がって相手を見ると、どこかで見覚えのある顔だった。向こうも同じことを思ったらしく、あれっという顔になる。
「もしかして、第九の方でしょうか?」
「はい。そちらは確か、田城さんの所の……」
「はい、秘書を務めております」
「買い出しですか」
「ええ」
彼女は秘書らしく、しとやかに頷いた。しかし、両手に提げている買い物袋はなかなかに重そうだ。ここのコーヒーショップのもの以外に、大きな袋を二つも持っている。上に姉を持つ青木は自然に申し出た。
「研究所までお手伝いしましょう」
「いえ、お構いなく。ご迷惑をおかけしたのに、そんなことまでして頂いては」
「気にしないでください。どうせ向かう先は一緒ですから」
青木が右手を差し出すと、向こうもやはり困っていたらしく、「お願いします」と言って、袋を一つだけこちらに寄越した。
その時、青木は少し離れた床の上に、紙切れが落ちていることに気が付いた。買い出しメモのようだ。拾い上げて、「これもあなたのものですか?」と聞く。
「はい、ありがとうございます」
彼女にメモを返そうとした時、青木の目にふとメモの内容が映る。
そこには三つのエスの文字が並んでいた。
「あれ? これって……」
「どうかされましたか?」
青木の訝しげな声に、相手が首を傾げる。
偶然の一致だろうか、たった数日前に騒ぎを引き起こした単語に、ここでまたお目にかかるとは。
「すいません、つい見ちゃったんですが、ここにあるSSSコーヒーってなんのことですか?」
青木が尋ねると、彼女は何でもないことのようにさらりと答えた。
「それならエスプレッソコーヒーのことです」
「エスプレッソ?」
「ええ。所長がよく名前を間違われて、エクスプレスコーヒーだとか、エスプリコーヒーだとか、色々仰るんですよ。それで段々面倒になったみたいで、『例の小さいアレ』で注文されるようになってしまって」
「それでSSSコーヒーですか」
「ええ、普通最小の物はSか、SSサイズで表記されますでしょ? それより更に小さい極小サイズという意味らしいです。所長曰く」
「ははあ……」
青木は頷きながら、頭の中で上司の全身像を思い浮かべる。確かに警察機構の中では小柄な方かもしれないが、世間一般の基準で考えれば、そこまで際立って小さくはないはずだ。一六〇センチ台では極小とは言わないだろう。やはり、例の落書きとは関係ないのだろうか。
帰る道すがら、青木は世間話の振りをして、彼女に話しかけた。
「ちなみに最近、田城さんの周りで何か変わったことはありましたか?」
「変わったこと、ですか」
「はい」
青木の想像が正しければ、彼は何日か前に挙動不審になっていたはずだ。そう、例えばうっかり失くした書類を探していたりとか。
彼女は少し考え込んだ後、こう答えた。
「そう言えば最近、お孫さんが特撮ドラマに夢中だそうで、ヒーローごっこに付き合わされているようですよ。それで腰痛に悩まされているとか」
「……そうですか。田城さんも大変ですね」
期待していたのとは違う答えが返ってきて、青木は落胆した。それでもこちらから話を振った手前、適当に会話に付き合う。
すると彼女は、くすくすと思い出し笑いをした。
「大変と言えば……ああいうヒーローものって、たいてい名乗りを上げながらポーズを取るじゃないですか。ほら、疾風迅雷のなんたらかんたらって」
「ええ」
「それで、お孫さんにかっこいい口上を考えるようせがまれて、ご苦労なさってるらしいですよ」
なんだろう、今何かが引っかかった。青木は横目でちらりと彼女を見る。
「名乗りの口上ですか」
「ええ。お孫さんが遊びにいらっしゃるたびに考えさせられるので、今では誰かの顔を見たら、すぐその人のキャッチフレーズを考えてしまう癖がついてしまったよって、仰ってました」
「なるほど……」
青木が半分考え事をしながら相槌を打っていると、彼女は気恥ずかしそうにした。
「すみません、私ったら。お仕事には関係のないお話でしたね」
「いえ、そんなことありません。すごく参考になりました。興味深いお話をありがとうございます」
青木が笑って言うと、彼女も愛想よく笑い返してくれた。
科警研に到着し、門を通り過ぎた所で、預かっていた荷物を返した。別れ際、青木は彼女にもう一つだけ質問をした。
青木は急ぎ足で第九研究室の入っている棟に向かった。彼女と話しながら歩いたせいで、すっかり戻りが遅くなってしまった。帰ったら、さぞかし文句を付けられることだろう。だがそれでもおつりが返ってくるぐらい、実に有意義な時間を過ごせた。
さっき田城所長のプライベートな情報についてお礼を言った時、向こうは社交辞令に受け取ったようだったが、とんでもない、青木は心から彼女に感謝していた。何しろ彼女がもたらしてくれた情報のおかげで、全ての謎が解けたのだから。
なるほど、確かに薪ならあの筆跡が誰のものか知っているだろう。悪気がないというのも、その人の人柄を考えれば納得がいく。メンテの予定も知っていて当然だ。室長の薪にそれを通知した本人なのだから。
薪が意味深に言った順番の意味も、今なら理解できる。
第九の職員が仲間内で名前を順に挙げるとしたら、普通は「岡部」の次に「今井」が来る。それ程二人の成績は飛びぬけている。何か起こった時に、その場に薪と岡部がいない場合は、今井の判断に頼ることもあるくらいだ。ところがあの落書きには、「岡部」の次に「小池」と「曽我」が来ていた。あれは恐らく、第九に配置された順番なのだ。
普段一緒に働いていれば、誰が先に着任したかなど、特に気にならない。山本を除く六人の着任時期は、さほど変わりばえしないのだ。なのに、わざわざ配置順で職員の名前を羅列した。その意味するところは一つ。あの落書きを書いたのが、配置換えした本人だからだ。
そして最後に残った謎も解けた。恐らく薪も分からなかった、彼が本当に知りたかったであろう疑問の答えを。
『田城さんは、エスプレッソがお好きなんですか?』
『そうですねえ……特に際立ってお気に入りというわけではないようですが、時々無性に飲みたくなる時があるそうです。あの独特の苦さが癖になるとかで、他の種類のコーヒーでは代えが効かないんだと仰ってました』
青木はくすりと笑いながら、心の中で彼に話しかけた。
──薪さん、あなたは所長から、代えの効かない特別な存在だって思われてるようですよ。ちょっと癖は強すぎるけどって。
この話を薪に伝えたらどうなるだろう。素直に喜んでくれるとは思えない。まだその話を引きずっていたのかと、逆に怒られてしまうかもしれない。
エレベーターが四階に到達するまでの短い間に、青木はあれこれと悩んでいたが、結局は伝えようという結論に達した。 こっそりあんな真似をして、皆に推理合戦をさせるぐらいには、三つのエスの意味が気になっていたようだから。
ただし、話すのは今の事件が解決してからだ。ちょうどいいタイミングを見計らって、話の切り出し方にも配慮しなければならない。何気ない会話の途中で、ふと思い出したように言わなければ、彼の機嫌を損ねてしまうだろう。
まあそんな風にこちらがいくら気を使って教えてあげたとしても、この前今井達を追い詰めていた時以上の笑顔が返ってくることはないだろうが。
「遅いぞ、青木」
「どっかで寄り道食ってただろう」
本部に入ると、案の定先輩たちに叱られてしまった。しかし青木は彼らの小言を聞き流し、買い物袋の中から、一つだけ別入れにしてもらった小袋を取り出した。
彼はそれを大事そうに捧げ持ちながら、室長室のドアを軽くノックした。
END
薪さん=波平「ばっかもーん!」、岡部=フネ「まあまあ、お父さん」
今井・宇野・小池・曽我=サザエ・マスオ・カツオ・ワカメ「ひええ〜」
青木=タラちゃん「カツオ兄ちゃん(達)を怒らないであげてくだサイ」
結構はまってませんか? 波平さん、タラちゃんに弱いし。
……ということは山本がタマなの?