3つのSの秘密

 彼はフロアの入り口ではなく、室長室の扉から姿を現した。小池達はぽかんと口を開けたまま、固まってしまっている。さながらメドゥーサに見つめられて石化した獲物のごとく。
 岡部は彼らを気の毒そうに眺め、そして薪に話しかけた。
「薪さん、いつからお戻りになってたんですか?」
「戻るも何も、最初からここにいたが?」
「さっきドアをノックしてお声掛けしたんですよ。お返事がなかったので、てっきりいらっしゃらないものとばかり」
「ああ、ソファで仮眠を取っていたんだ。なんせ事後処理で明け方まで仕事をしていたもんだから眠くて」
「そうだったんですか。お疲れ様です」
「まあ、もっとも……」
 薪がにこりと微笑む。まるで花のように美しい笑顔で。しかしそれを見た岡部の背中は、なぜだか冷や汗が止まらない。

「途中からは眠るどころではなかったがな。ここの騒ぎがあまりに煩くて」

 その時、部屋の空気が凍り付く音がした。幻聴ではない。確かに聞こえた。
 四人は額から滂沱たる汗を流している。可哀相だが、さすがにこれは岡部でもフォローしきれそうにない。
 視界の端では、山本が小さく十字を切っていた。意外にもキリスト教徒だったらしい。人間恐怖を通り過ぎると、どうでもいいことが目につくのだなと、岡部は他人事のように思った。
 薪がゆっくりと室内を見回す。そして今井達の所で視線を止め、そちらに向かって足を踏み出しかけた時。
「あの、薪さん」
 青木が手を上げて立ち上がった。
「三田警察署に証拠品の返却に行ってきました。ついでに書類を預かってきたので、署名と判をお願いします。急ぎだそうです」
 薪を足止めするために、青木が声をかけたのは明白だった。しかしそうと分かっていても、薪に仕事の用件を無視できるはずがなかった。部下いびりに水を差された薪は、青木を睨みつけるが、彼は気にせず書類を差し出している。
「……部屋に来い」
「はい!」
 青木が元気に返事をして、薪の後に付いて行く。そしてぱたんと扉が閉まった。
 その瞬間、部屋中に安堵のため息が響いた。
「死ぬかと思った……」
 小池がぼそりと呟き、宇野と曽我が何度も頷く。今井に至っては、無言で両腕をさすっている。どうやら鳥肌が止まないらしい。
 嵐が過ぎ去った──全員がそう思ったとき、出し抜けに室長室のドアが開いて、薪が顔を出した。再び全員の時が止まる。
「おい、岡部」
 岡部が「はい」と返事をすると、薪は今井達の方を指差した。四人がぎくっと身を強張らせる。しかし、薪は素知らぬ風で言う。
「あそこの書類、ちょっと持ってこい」
「え……ホワイトボードのやつを、ですか?」
「ああ。持ち主には、僕の方から返しておこう」
「はあ」
 室長室からここの会話を聞きつけて、犯人の目途がついたらしい。今更この人の万能さに文句をつけるつもりはないが、さすがというかなんというか。
 岡部は言われた通りに、書類を持って行く。たかだか数歩の距離を面倒くさがる性格ではない。今井達の前で、わざわざ岡部に持ってこさせる辺り、彼の性格の悪さは折り紙付きだ。
「ま、俺としては別に異存はありませんがね」
「何か言ったか?」
「いいえ、何も?」
 聞こえていたはずの言葉を聞こえなかった振りをする上司に、岡部は同じように空とぼけ、静かに扉を閉めた。

 愛用している万年筆が、紙の上でのびやかに滑る。薪は数枚の書類に署名し、室長印を押した。
「これでいいか」
 顔を上げると、部下がその無駄に大きな体を屈めてこちらを凝視していたので、薪は少しのけ反った。
「なんだ」
「あの落書きを誰が書いたのか、薪さんにはお分かりになったんですね」
「その話か」
 薪はつまらなさそうにため息をついた。
 青木は机の端に追いやられていた件の書類を手に取り、しげしげと眺める。そして不思議そうに言った。
「本当にうちの誰かがこれを書いたんですか?」
「お前は違うと思うのか?」
「ええ、まあ。うちに仲間内で悪意を持ってる人がいるなんて信じられません。皆さんそんな人じゃないと思うんです」
「人はお前が思っているほど単純じゃないぞ」
「それは分かってますけど……なんかしっくりこないんですよね」
 青木は納得がいかないと、首を傾げている。
 一見従順に見せかけて、この男は案外強情だ。薪に懐いていると周りにはからかわれているが、それは薪の行動の規範に青木自身が納得しているからだ。もし薪が我欲に走って、倫理を曲げた行動をすれば、彼はすぐに自分を見限るだろう。そんな青木の我の強さを、薪は割りと気に入っている。
 書類を見つめる青木の目は、ほんの少し悲しげな色をしていた。これがただの好奇心から出た質問だったのなら、彼を跳ねつける言葉は幾通りも思いつくのだが。
 自分の甘さに苦笑し、薪は座っている椅子をくるりと回した。そして背中を向けたまま、青木に話しかける。
「別に悪気はなかったんじゃないか?」
「え?」
「本人にそんなつもりはなかったんだろう。ちょっと悪乗りが過ぎただけで。最初から僕たちに披露するつもりはなかったみたいだしな」
「ああ、やっぱり」
 青木が嬉しそうな声を出す。薪がちらりと後ろを見ると、彼はほっとしたように笑っていた。
「これをホワイトボードに貼ったのは、薪さんだったんですね」
「なぜそう思う?」
「小池さんが言ってました。お昼から帰ってきた時、ここにいなかったのは俺と薪さんだけだったって。でも本当は薪さん、ずっとここにいたんですよね。なら誰もいなくなった後、こっそり室長室から出てきて、皆の目につくところに書類を貼りつけるぐらい、造作もなかったはずです。第一、人に披露するつもりがなかったっていうのは、書いた人と貼りつけた人が別人だってことを知らないと言えませんから」
 薪は否定も肯定もせず、黙って椅子を正面に戻した。
「薪さんも誰が書いたかまでは分からなかったから、こんなことしたんでしょう? 犯人の反応を確かめるために、不在の振りをして、全員の会話を聞いていた」
「はずれ」
「えっ?」
「ほら、これ三田署に送っとけ」
 薪は判が渇いていることを確認すると、提出書類をまとめて青木に手渡した。そして机の上で頬杖をつく。
「いちいち反応を確かめるまでもない。誰が書いたのかは最初から分かっていた。当然だろう? だって、筆跡を知ってたんだから」
「えっ、じゃあなんでそんな真似を……っていうか誰の筆跡なんですか?」
「ポイントは……」
 薪のすらりとした指先が落書きを指さし、そこに書かれた名前を上から一つ一つなぞっていく。そして山本の所まで行くと、彼はにやりと意味深に笑った。
「ここに羅列されている名前の順番だ」
「名前の、順番?」
「さあ、もういいだろう。とっくに昼休みは終わっているんだぞ。仕事に戻れ」
 薪はしっしっと犬を追い払うように手を振る。そしてデスクからファイルを取り出し、自分の仕事を始めてしまった。こうなるともう取り付く島もない。
 仕方なく青木は一礼して室長室を出た。扉を閉める瞬間、丸めた紙くずがゴミ箱に投げ捨てられるのがちらりと見えた。

コメント

 (無記名可)
 
 レス時引用不可