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タイトル不明3

あかはな ◆yNY0tHXWT2氏

 晃の一言にその日の寝つきは悪く、夜中に天井を見ながら悶々と赤木夕貴のことを考えるはめになった。
 それまで最も身近にいた、男だか女だ分らない人間は全く本人の趣味で男の振りをしている。
 女好きだし、彼女も作る。セックスは女でもジェンダーは男と言うのだろうか。
 とは言っても、あれで彼氏を家に連れてきたりしたことも無い訳でも無いことも無い訳でも無かった。心は男と、そうばっさり言い切れるものでもないんだろう。
「お……あたしはなあ! あた、あた、お、俺らしく、生きてんの。彼女作っても女捨てる気はねえし、彼氏作っても女の子見て何が悪いんだよ馬鹿ヤロー!」
 失恋した晃が飲んだくれた挙句、親切な通りがかりのサラリーマンに送ってもらった際、玄関先でそんな台詞をゲロと一緒に吐いていた。
 その時のサラリーマンはどこまでも親切で、晃が汚したものの後始末を手伝ってくれた後に、笑顔で「お兄さんによろしくね」と残していった。
 しかし、晃のその遠吠えが赤木夕貴に通用するんだろうか。赤木夕貴が自分らしさを追及した挙句に男の振りをしているとは、どうしても思えない。
 ならどうして赤木夕貴は少年を装っているのだろう。晃があまりにも自然に男と女の真ん中に立っているために、他人の男装も個人の個性としか見ていなかった自分がいた。
 散々考えてみるものの、ロクな理由が思い浮かばない。考えて考えて考えて、やはりロクな理由は思い浮かばなかった。
「うわああああ!」
 晃の大声が突然響いた。反射で飛び起きた後、リビングから轟音。
 気づけば窓の外は白い光に満たされていた。眠らないままに悶々と思考に耽っていたらしい。
 ずるずると後を引く思考を置いておいて、体を動かす。
 リビングでは冷蔵庫が倒れていた。それまで見たことも無い冷蔵庫だ。その上に赤ら顔の晃が寝ていた。
「ただいま帰ったぞお」
 にへらと笑いながら顔を上げた。ただいまと言われても、俺はいつ晃が外に出たのか分らない。
 出かけてたのかと言うとケケケと気味の悪い声が返ってくる。酒の臭いがむわっと顔にまとわりつく。
 どこから拾ってきたものか晃に押し倒されている冷蔵庫は、砂にまみれて色落ちしていて、所々錆びついていた。
 冷蔵庫に頬をすりよせている晃は起き上がる気配が無い。酔いどれの相手は嫌いだ。
 気にしないことにした。
「学校行ってくる」
 歯磨き洗顔着替え朝食洗濯掃除その他に追われて、俺の時間は矢の如く過ぎたが晃はずっと寝ていた。
「曜一い、コレ飼っていいかあ?」
 飼えるもんなら飼ってみろ。
「学校行ってくる」
「行ってら」
 家を出ると制服を着た少年少女が一様に同じ方向へと進んでいた。
 軽く息を吐く。赤木夕貴の姿はまだ見えない。
 上を見れば黒い電線の向こうに、まだ日に慣れない空があった。
 ここ数日は快晴が続き、それは今日も同じらしい。電線の上に鳥はいないが黒い線に沿って地面に鳥の糞が続いていた。
 ほどなく赤木夕貴がやって来る。
「おはよう。曜一、昨日送ったメール見てないでしょ」
「メール?」
「そうだよ」
 携帯電話を取り出す。小さな画面は暗かった。ボタンをいじってみるものの一向に明るくならない。
「電池切れ?」
 ああ、と短く返す。携帯電話をしまってからメールの内容を尋ねた。
 えっとね、と唇に指を当てて赤木夕貴が始めたのは他愛も無い雑談だった。にこにこと話す赤木夕貴に応じながら、俺はゆっくりと歩いていった。


 HRにて、教師が教団に立った途端に猛烈な眠気に襲われた。
 朝まで赤木夕貴のことを悶々と考えていた、と表すと変人か変態のようだが、とにかく一睡もしていない俺の脳は疲れていた。
 どうにか教師の出欠を取る声に返事をした後、すぐに温かい闇に沈み込まれた。溺れるように俺は睡眠を貪っていく。
 途中色々な人間に「起きろ」と言われた気がする。
 途中何度か鐘が鳴った気がする。しかしそれらは全て俺の外の出来事で、俺の飢えきった睡眠欲には到底届かなかった。
 ふと、赤い闇の中で白い何かが踊った。冷蔵庫だ。
 晃が拾ってきた冷蔵庫が右に左にと跳ねている。ぴょんぴょんと跳ねる冷蔵庫の中では赤木夕貴が目を回していた。
 晃は冷蔵庫の餌に赤木夕貴を選んだのか!
 突然冷蔵庫がバランスを崩した。ドアのある面を下に倒れていって、轟音。
 しばらくの静止の後に冷蔵庫が揺れた。
 助けてと赤木夕貴のへなへなとした声が――
「曜一!」
 呼ばれてはっと顔を上げると、友人数人が俺を囲んでいた。
「……今何時?」
「4時間目だバカ、体育だよ!」
 見ると、教室には俺たちしかいない。一気に目が覚めた。体操着を鷲掴みにして友人達と教室を駆け出ようとして、赤木夕貴の姿が見当たらないのに気づいた。
「赤木? 腹痛いって、保健室行ってる」

 しばらく続いた日照りのために昼時の校庭は乾いていて、しかも今日は風が強かった。
 一つでも風が吹く度に砂埃が立つ校庭で、男子はサッカーを、女子はテニスをやらされた。
 授業終了の鐘が鳴ると、教師も生徒も我先にと校舎へ駆け込む。
 校舎の中では風と砂への文句を口々に言い合いながら、生徒が昼食の準備をする。
「曜一、どこに行くんだ?」
 教室に背を向けようとする俺に、友人の1人が声をかけた。
「保健室」
 赤木夕貴は体が弱いと言う理由から、体育の授業に現れたことはほとんど無い。
 本当は風邪を引いたことも無いんだけどね、と力無い声を笑いに混ぜながら言った赤木夕貴を思い出す。
 普段ならば体育の授業中、赤木夕貴は教室で自習している。俺の知っているところでは保健室に行ったことすらも無いはずだった。
 あまり見覚えの無い廊下を歩き、人気が無くなったところで保健室と書かれたプレートを見つけた。
 白い引き戸をノックして保健室の中へと入ると、作業机に向かう養護教諭が微笑んで俺の方を向く。
 学校の中にあって、学び舎と呼ぶには違和のある静かな場所だ。壁際には何台かのベッドが置かれ、その1つだけカーテンが閉まり中を窺うことができない。
 白衣を着た養護教諭は笑顔でどうしましたと尋ねてきた。赤木夕貴の様子を見に来たと告げると、したり顔でベッドへと案内し、カーテンを開く。
「赤木さん、具合はどう?」
「まだ少しお腹痛いです」
 布団から首だけ出して横になっていた赤木夕貴は、養護教諭の後ろの俺を見ると僅かに唇の端を持ち上げた。
 赤木夕貴に2、3質問をすると、養護教諭はヒールを鳴らしてベッドから離れていく。ベッドの中の赤木夕貴を見下ろすと平生よりも顔が青白い。
 大丈夫かと冗談を混ぜて尋ねると、弱々しいながらも冗談で返してきた。
「椅子使いなさい。立ったままだと疲れるでしょ」
 差し出された安っぽい4脚の椅子をありがたく俺は使わせてもらった。
 ふっと薄化粧の顔で養護教諭は上品に笑って、それから机の上に散らばっていた紙やら何やらを整理する。
「先生、ちょっとここ空けるけど、任せてもいいかしら」
「あ、はい」
「お願いね」
 にっこりと笑みを作った後、養護教諭はシャッと音を立ててベッド周りのカーテンを閉じた。
 俺が驚いている間にヒールの音が遠ざかり、引き戸がスライドする音がする。
「お願いね!」
 静かに引き戸が閉まった。


 いきなり2人きりにされたカーテン製の密室は、カーテンが窓からの光を和らげているせいで静かな光に満たされている。密室だけあって昼休みの喧騒が遠い。
 ほう、と赤木夕貴が大きく呼吸したのでカーテンへと向けていた目を移す。
「あの先生ね、僕が女だって知ってるんだ」
 へえ、と軽く返事をしようとして、口から出た声は思いのほか低かった。
 また1つ大きく赤木夕貴は呼吸して、布団の下でもそもそと、腹とおぼわしき部分に手を当て撫でていた。
「腹痛って生理痛か?」
 俺の発言に大きな目をぱちくりと丸くする。
「な、何で曜一が生理痛だって知ってるの?」
 俺も驚く。
「……セクハラのつもりだったんだけど、ごめん」
「やだ、曜一変態」
 くすくすと笑う赤木夕貴はかわいい。誰が、掛け布団の下でスカートではなくズボンをはいていると思うのだろうか。
「辛いか?」
 あんまり、と言おうとした口が歪んで、潰れた声が漏れる。しみの1つも無い眉間には皺がよった。
 静かに目を瞑って、赤木夕貴は深呼吸して体を落ちつける。痛み止めは無いのかと聞くと、今まで生理痛らしい生理痛を感じたことが無くて薬を服用した経験も無いと言う。
 痛いの痛いの飛んでいけでは無いが、きつく目を閉じている顔の頬に手を当てて、撫ぜてみる。手の平から伝わってくる強張った感覚に手を引っ込めようかと思った。
 ごめん、と謝りそうになった時に赤木夕貴の目が開く。言葉に詰まった。
「あったかい……」
 幸せそうな笑みが直に伝わる。俺の手にそっと触れた両手は小さく冷たくて、男の手の形を確かめるような動きが心地よかった。
「曜一の手、大きくてあったかい」
「そっか」
 その自分のした返事が今までに聞いたことの無い優しい声だったので、恥ずかしさに頬が熱くなったが、いとおしげに俺の手に頬ずりする赤木夕貴にどうでもよくなった。
 赤木夕貴の髪に手を入れて頭を撫でてやると猫のように目を細めて、今にもにゃあと鳴きそうに満足げな顔をする。
 淡い光にも濡れたように艶めく黒髪の柔らかさに、眠気にさえ似た安堵が生まれた。
「きもち、いい」
「生理痛はどうなった?」
 えへへ、とくすぐったそうに笑う。
「痛いけど、それより曜一の手が気持ちいい」
 ほう、と満ち足りた息を吐いて、あ、と何気なく声を上げた。俺も何気なく返事をする。
「うん?」
「曜一、あのね、曜一の手で僕のお腹、撫でて」
 一瞬、血液の流れが止まった気がした。
 期待に光る瞳が俺をしっかりと捕らえていて逃げることができない。突拍子も無い要求から目を逸らせないまま、俺は凍りついた。
「はい?」
「すごく、曜一の手ってあったかくて気持ち良いんだ。ただ触られてるだけなのにマッサージ受けてるみたいで、すごくあったかくて」
 いかに俺の手が気持ちいいのかを赤木夕貴が説明している間、俺は赤木夕貴がまた両手で俺の手を包み込んでいることにしか目をやれなかった。
 どういう訳だかさっきまで冷たく心地よかったはずの赤木夕貴の手が、今度は火傷するほど熱く感じるのだ。
 今更ながら少女の肌に心を揺さぶられた。ほんの少しでもつうと細い指の腹が俺の手の甲を這うと、それが震度7の地震になって脳やら臓腑やらが揺さぶられるのだ。
 ぐらぐらと俺の目の前は揺れているのに、知らないのか分からないのか、赤木夕貴は寝転がったまま滔々と話している。
「だから、あのね、曜一に触ってほしい」
「ん、いいよ」
 口が勝手に動いた。
「ありがと」
 俺の返答に、桜色の笑みを咲かせた赤木夕貴からはもうこれ以上の至福は無いというばかりの空気が漂ってきて、これ以上無く俺は追い詰められたのだった。


 片手は赤木夕貴に絡めとられているために、空気にしか触れていないもう片方を布団の中に突っ込んで赤木夕貴の腹部に触れなければいけない。
 小学校の理科の実験だ、赤木夕貴という乾電池に俺の手をつなぎ、豆電球に光をつける。
 おかしなことは、まだ片方の極にしか手はつながれていないのに、豆電球たる俺の頭は熱を帯びているのだ。
 これからが本番とでも言うのだろうか。勘弁してくれと願いながら、ともすれば溜息しそうになる口をぐっと結んだ。
 情けなくもぎこちない動きしかしない手を握って、開いて、もう一度繰り返して、布団の中へ手をそろそろと入れる。
 始めは乾いた布に挟まれてするすると進むのだが、すぐに水気を含んだ人の体温に包まれて早速手を引っ込めたくなる。
 布団の中で指先が制服に触れた。
 汗ばんでしまっている手をシーツに軽く押し付けて、位置が上すぎたり下すぎたりしないことを固く祈りつつ赤木夕貴の体の上に手を置いて、どこに手を置いたのか分らないまま何もできなくなった。
「……えっと、曜一」
「ごめん」
 赤木夕貴の顔を見ることができない。変なところ触っていないかと、それだけを尋ねるのにももたついた。
「ううん、お腹触ってるけど、あの、もう少し下」
「下? ああ、うん。下、下……」
 少し手をずらす。
「もう少し、下」
 さらに少し、ずらす。
「この辺?」
「うん、そこ」
 そこ、と言われた手の平の下に何があるのかなんて考えが飛び込んでくるのをせき止めながら、手を動かしてみる。
 豆電球がついてしまった。制服越しでも、男と全く違う華奢な作りがしっかりと伝わってきたのだ。
 下腹の上で丸を描くように手を動かすと、手の平の下で制服がしわをよせ、手の上で掛け布団が揺れ、そんなものにまで申し訳の無さを感じてしまう。
 ん、と赤木夕貴が上げた声に馬鹿馬鹿しいほど高く心臓が跳ねた。
 はあ、と満足気な吐息の熱さが、頬に敷かれた手を撫でる。
「気持ち、いい」
 撫でている場所が頭から腹に変わっただけで、赤木夕貴の反応だって同じなのに、それが妙に扇情的に感じられて、あまつさえ体を火照らせている俺は変態なのだろうか。俺が悪いのだろうか。
 機械的に丸を描く作業を続ける手がつりそうなくらい緊張して、インスタント食品を温めるくらいの時間しか経っていないはずなのに、腕が崩れ落ちそうに辛い気がする。
 ん、と目を細めている赤木夕貴の声にまた心臓が飛び上がって、元の位置に戻る前に、布団の中の手に冷たい指先が触れる。
 いつの間にか小さな手が片方布団の中へと潜りこんでいて、俺の手に重なった。
 爆発したと思ったほど心臓が跳ねて、気づけば布団の中に入れていた手が自分の顔の横にあった。
「曜一? ……あ」
 勢いよく布団から手を抜いた俺に目を丸くした赤木夕貴は、やっと赤信号のようになっている俺の顔に気がついて、自身もかあっと顔と熱くする。
 頬に敷かれたままの手でそれを思い切り感じ取ってしまった。
 お互い口をつぐんでしまい、保健室という場所がいかに静かであるかが身に浸みる。
 とりあえず謝らなければと思うのは、日本人たる証拠だろうか。だが何に謝っていいのか分らない。
 とにかく謝罪の言葉をと焦るが、口は空回りすらできないで何の言葉も発せないまま終わってしまい、情けないと自虐するほか無かった。
「よ、曜一。あの、ごめん。嫌だった?」
 ぐずぐずしているうちに先手を取られる。駄目駄目だ俺。
「んな訳、無いよ」
 照れたような、嬉しそうな、それでいて少しばかり困ったような曖昧な表情を浮かべて、敷いていた手に自分の手を重ね、やけに緩慢な動作で起き上がる。
「曜一、あの、あのね」
 物言いたげな視線に姿勢を正してから、できるだけ不自然にならないよう心を落ち着けて続きを促す。
 ベッドの上で手が重なっているせいか、案外に顔が近いと思ったところで、赤木夕貴と思いっきり唇がくっついていた。


 まず、灰色のごちゃごちゃに埋められていた頭が、真っ白になった。
 それから本当に目の前にある赤木夕貴の顔が、今は目を閉じているのに気がついた。綺麗に整った睫がすっと黒い線を描いて瞼を縁取っているのがよく見えた。
 二重瞼だったんだなあと、意味も無く感心する。
 そして赤木夕貴が首を少し傾げて触れ合う角度が変わって、ついでに俺の頭が状況を理解して再度頭が赤信号になった頃には、唇の柔らかさと甘さにすっかり捕まっていたのだった。
 少し開いた唇から覗いた舌に唇をなぞられ、鼻にかかった、男が出してもどうしようもない声が漏れ、ほんの僅かだけ生まれた隙間にしゃぶりつかれた。
 ジュース1本買うのに散々優柔不断に悩んでいた少女が、大胆に男に攻め入ってくる。片手は相変わらず白いベッドの上で俺の手の上に重なり、片手は俺の方に添えられていた。
 掛け布団はすっかり投げ出され、ベッドの上に座りながらも体全部で俺に迫っていた。
 今誰かがカーテンを開けてこの光景を見たらどうしたって男同士のキスシーンだろうが、どうだっていい。赤木夕貴は女だ。
 小さな体を精一杯伸ばして唇をよせているのが辛いんじゃないかと気づいたのは、ぺろと唇を舐められた時、重なった手の重みが痛いほど増したからだった。
 そもそも赤木夕貴にばかり奉仕させておいて、口内を熱く、静かに蹂躙する舌に俺は全くマグロだった。
 宙ぶらりんになっていた手を小さな肩に置いてもう少し楽に座れるようにとベッドへ押してやる。繋がったまま離れないよう自分の体も傾けると、さらに深く繋がった。
 なんとも表せない濡れた声が赤木夕貴の鼻から漏れ、とろんと重たげに開いた瞳は蕩けそうに潤んでいた。
 陽炎が立ちそうなくらいの温度で視線が絡み合った後に赤木夕貴はまた目を閉じる。
 ちろちろと舌先で舌先をくすぐられ、こちらが舌の裏を舐め上げるとまた濡れた声を漏らし、淫らな水音を立てながら絡め合わせてきた。
 頭の芯が熱に浮かされぼんやりとしてくる。お互いの舌も歯列も歯茎も上顎も舐めあって、唾液の味を知り合う。
 口の端からとろとろと溢れていくのが惜しい。こんなにまで甘い刺激を持っているなんて知らなかった。
 溜まりに溜まった唾液を、赤木夕貴が嚥下する。
 お互いが混ざり合った液体をこくりと喉を鳴らして飲み込んだ後、揺れる唇の間から熱い吐息だけ残して離れていった。
 薄く目の前の瞼が開いて、また視線が絡み合う。
 熱っぽく輝く瞳に再度顔をよせそうになったが、それより先に赤木夕貴が赤い舌をちろりと出して、俺の顎を伝った唾液の残滓にぺろりと舌を這わす。背筋がぞくりと震えた。
 そっと離れた、まだしまわれていない舌を今度は俺から舐める。味覚ではそうでなくとも脳が甘いと感じた。
 俺が顔を離すと赤木夕貴は茹でリンゴになっていた。
 柔らかな線を引く顎から、なだらかな髪の生え際まで。人間こんなところまで赤くなるのかと感心したくらい、首筋までも赤くなっていたのであった。
 俺のに重ねられていた小さな手がぱっと離れ、随分長くしていた口付けのせいですっかり悩ましく熟れた唇を隠す。
 さすがに白いままの手の甲と顔の色で紅白だなうっわおめでたいなあ、などと考えた俺はもう何度目だか、爪先から頭にかけて熱が一気に昇る。
 肩を抱いたままの手は鉄のように動かないし、中途半端に傾いている体も、ほんの1度も動かない。
 人間は42度以上体温が上がるとタンパク質が固まってゆで卵状態になると言うが、おそらくそれだ。
 かくんと俯いてしまった赤木夕貴は、顔が見えなくともちらりと覗く耳が赤いままで、推し量らずとも表情が分ってしまう。
 両手で顔を覆ったり、指で前髪をかき回したりしているのを見ながら時間が過ぎて、時間に比例してカーテン製の密室の温度も上がる。暑い。
「あっ、あの、あのね曜一」
 掠れた声で呼ばれて、俺の返事は裏返っていた。
 ぱっと上がった顔は心なしかさっきまでよりも赤みが増していて、そこに無理矢理な明るい笑顔が貼り付けられていた。
「う、奪っちゃったー」
 緊張の糸がぶちりと切れて、心身ともに脱落した俺はベッドの上にどさりと倒れこむ。
 色々と限界だった。
 しばらくしてから教室に戻った俺は、真っ赤な顔で、ぐったりとしていて、午後の授業はずっと机に伏せていて、教師や友人に「大丈夫か、保健室行くか?」と優しい言葉を掛けられるのだった。



 鐘が鳴って、校内ののざわめきが大きくなる。伏せている俺の暗い視界にも放課後のオレンジ色が仄かに差す。
「曜一、帰ろ?」
 待ち遠しかったような、来て欲しくなかったような声に胸が高く鳴る。伏せたままのろのろと見上げると、じっと覗き込む赤木夕貴と目が合った。
 西日に照らされる顔にぽっと赤みが差した。多分俺もそうだ。
 一言だけ返してから机に両手を突いて立ち上がる。鞄に教科書やらノートやらを詰めて、そういえば今日まともに受けた授業は体育だけだったんだと思い出す。
「早く行こ」
 早足で教室の扉へと急いで赤木夕貴は振り返る。ずりずり足を引きずりながら追いつくと、また早く早くと急かして、ぱたぱた髪を揺らしながら先へ行ってしまう。
 生理痛はどこへ行ってしまったのやら。それとも痛いが故に急かすのだろうか。
 俺は俺で足が重い。だが、普段より歩みの速い赤木夕貴と今の俺の歩く速度は奇妙なほどにぴったりで、肩を並べて歩くのに何の支障も無いのだ。
 廊下を歩くときも階段を下りるときも、下足を履き替える時まで赤木夕貴は喋り通しだった。
 ろくな返事をしない俺を意に介した様子も無く、ひたすら前を見て日常の些事を語っていく。
 こんな饒舌な赤木夕貴はかなり珍しい。こんなに口を使った子とは、食べものを噛んでいる時くらいじゃないんだろうか。所々噛んでいるし、つっかえている。
 い
 やだがけれどもしかしながらくちびるをよせてきたときのうごきにちゅうちょはなかったこ
 いぬのようにこねこのようにぺろぺろとなめたどうさはい
 やにあつくやわらかくなめらかにくちのなかをしげきしたような
 。
「曜一?」
「ごめん」
「え?」
「いや、ごめん」
 飛んだ思考の湧く脳を殴りたい。頭をかきむしり、蹲ってふつふつ湧き上がる恥ずかしさを紛らわすために大声を上げたい。
 授業中もずっと、赤木夕貴とキスした情景ばかりが目の前で繰り広げられ、事実が頭をぶん殴る。
 快感に震えた唇の揺れが直に伝わり、目の前で上気していた頬は瑞々しさに溢れていた。
 ともすればその事実が妄想へとエスカレートして、いつの間にか全裸となった赤木夕貴が俺の上や下で淫らな踊っているのだ。
 俺はそんな目で赤木夕貴を見たいんじゃない。
 柔らかな黒髪に手を差し込んで頭を撫で、ふわりと笑う赤木夕貴に心和む時間が好きなんだ。
 あの時もう少し冷静なままでいたら。いや、そもそも布団の上から撫でるべきだったのでは?
 そんな思考を巡らせる反面で、あれだけの据え膳を食わないなんてお前は馬鹿か? 押し倒しておけばよかった。そう語りかける声が非常に大きく、何度も何度も俺の頭で反響するのだ。
「曜一」
 呼ばれる。そして振り返る。いつの間にか隣で先を急いでいた赤木夕貴が後ろにいた。後ろで、無意味な大きさを持つ門の前に立っている。俺の家の門だ。
 どうも自宅に帰ることを忘れてしまっていたらしかった。
「ああ、うん」
 改めて隣に立つと赤木夕貴はやはり小さい。狭い肩は髪が通り過ぎるのを許すだけで精一杯に見えた。
 そのまま沈黙が続く。気まずい、気まずい。立ち尽くす俺たちを気にする者だって少なくないのだ。


「曜一」
 ひかえめに、震える声で、いつか男装がばれた時のように体を縮こまらせて、それでも必死に俺の目を見上げている。
 俺は、努めて優しく掛けてやるべき言葉が見つからない。
「あの、ごめんね」
 それだけ言って一瞬目を潤ませた後に俯いてしまう。どうして謝るのだろう。謝ることが好きなのだろうか。
「ごめんね」
 黒髪が今は邪魔だ。顔がほんの少しも見えない。
 どんな表情をしているか垣間見ることもさせないで、わきを通り過ぎていつものように別れようとする。
 馬鹿野郎と心の中で吐き捨てる。馬鹿野郎、当然ながら俺のことだ。赤木夕貴は野郎ではないのだから。
 すぐ側を過ぎようとした手首を掴む。いきなり前に進めなくなった赤木夕貴が驚いて振り返る。ゆらゆら揺れたままの目は、もう一杯だった。
「送る」
「ふえ? ……え?」
「家まで送るよ」
 お互い反対の方向を向いているままでは1つの方向に進めない。細っこい手首を握る手を変えて、さあ行こうと足を進めるが、握った手の先が動かない。ついてこないのだ。
「帰らねえの?」
「いっ、行く! 帰る帰る!」
 そう言って奇怪な動きをする。両手両足を一度に出そうとして、やり方が分らないといった感じだった。
「あれ、ちょっと待って。人ってどうやって歩くんだっけ」
 奇怪な動きが続く。落ち着けよと言ってみるが、あんまり意味が無い。あれ? と言いながら必死に前に進もうとするがジャンプに終わる。
 自分から歩けるようになるのを待ってやりたいものの周囲の視線が辛い。仕方なくずるずる引っ張ってやる。
 やっと歩き方を思い出した頃に曜一、と呼ばれた。
「あの、手。……離さないとホモだって思われるよ」
「じゃあスカート」
 赤木夕貴の眉がハの字に曲がる。
「はくよ」
「曜一が!?」
 手を離してからはいつも通りだった。いや、本当はそうじゃない。歩く道はいつもと違っているし、隣の赤木夕貴はいつもよりもずっとにこにことしていて喜色満面なのが視界に入らなくても分かる。
 今の赤木夕貴は今までのどんな赤木夕貴よりも可愛いんだろうと思った。
 しばらくの間、あまり通ることの無い、しかし見覚えの無いわけでもない道を通って、ここだよと1つのマンションを指差した。
 ああここか、そんな感想が浮かぶ。一世帯1つがまるまる入るのには十分すぎる、どこにでもありそうな名前のマンションで、何人かの生徒はここから学校へと通っていた気がする。
 しかし、ふと、赤木夕貴は姉と二人暮らしだと言っていた。その背景に触れたことは無いが、姉妹が二人暮らしするには少々敷居が高いのではないだろうか。
 エレベーターに乗り、軽く上から押し付けられる感覚を味わいながら、両親は何をしているのかと聞いてみた。
「お父さんとお母さんは、いないんだ」
 エレベーターのドアが静かに開く。なかなか出ない俺に困ったような笑みを浮かべて、出るように促す。
「あのね。僕が小さい時に2人とも死んじゃって、だから僕と姉さんは2人暮らし」
 先を行く赤木夕貴は急いでいるわけでも無いのに、何故だか追いつけない。
「悪い」
 また困ったように、常よりも年輪を重ねたような笑みが向けられる。
「小学校に上がる前でよく覚えてないから」
 それに、と。
「曜一だから、何されてもいいかな」


 あまりにさり気なく言った。おそらく赤木夕貴自身零した言葉の火力に気づいていない。
 1回瞬きした後で、少しだけ覚えているという両親のことを、少しだけ、簡潔に語った。それに俺はさっきの発言を不発のままにして、耳を傾ける。
 不埒な考えは、沈めた。
 ここだよ、と壁に並ぶドアの1つの前で立ち止まる。普通のドアだ。
 生理痛によろしくと言ってやると、変態と、笑みを零しながら言われた。
「あの、曜一」
 じっと見つめられて引き止められる。透明な水が深く深くまで光を通すように、瞳は透明だった。
 あのね、とまた言った。赤木夕貴は俺を引き止めたがっている、きっと俺を家に上げて、もう少し一緒にいたいと思っているのだろう。
 どうして、と。
 どうして、男の振りなんかしているんだ。喉までその問いがこみ上げる。今なら何だって許される気がするのだ。
 3度目の、あの、が出た時だった。
「夕貴!」
 唐突にドアが開き、中から若い女性が飛び出して、そして赤木夕貴をさも愛おしいというふうに抱きしめた。
「夕貴おかえり! もう、お姉ちゃん待ちくたびれたんだから。もっと早くに帰ってきてくれなきゃいやだよ?」
 長く鮮やかな黒髪に、白い肌と華奢な体。赤木夕貴にその女性は似ていた。いや、おそらく豊かな乳房や素晴らしいラインの腰は赤木夕貴には無いものだろうが。
 闖入者の出現に赤木夕貴も俺も驚くほか無い。女にしたって低身長の赤木夕貴は、平均的であろうその闖入者の胸に顔を埋められてやっと我に返る。
「お、お姉さんただいま。あのね曜一、この人は僕のお姉さんで、暁美お姉さん」
 紹介されてやっと俺に気がついたというふうの女性は、赤木暁美は、温度の無い視線だけよこして妹の首にするりと手を回す。
「夕貴、誰?」
 化粧っけの無い唇を赤木夕貴の耳へよせて、囁くように尋ねた。
「同じクラスの曜一、えと、あの」
「榎原曜一です」
 慌てて赤木暁美へと頭を下げる。視界に床が見えた途端に、ばたん。
 ドアが閉まる音がした。
 頭を上げるとそこにあの姉妹の姿は無い、開いていたドアも閉まっている。
 ドア1枚隔てた場所で赤木夕貴と赤木暁美の声がなにやらけんけんとやっていたが、それもじきに止む。
 静かな場所で俺は1人残された。



 結局とぼとぼと帰った俺を、リビングで冷蔵庫が出迎えた。
 増えている。
 今朝は1つだった冷蔵庫が大小色も様々に3倍になっている。
 さらに言えば10年も前のものであろう電子レンジや赤茶けたアイロン、そしてさほど汚れの目立たないブラウン管のテレビがあった。
「晃?」
 どうせ悪いのは晃だ。これらは全部晃のペットなのだろう。
 返事が無い、どこかに行ってしまったのだろうか。無責任な野郎だ。女だか男だか分らない生きものなのだから野郎と言ってもきっと間違いじゃない。
「無責任な野郎」
 ポツリと吐いて虚しくなる。
 一応晃の部屋を確認してみようとも思い立つが止めて、自室へと足を運ぶ。
 ベッドの上に半裸の晃が寝ていた。
 下半身には黒のショーツ1枚。上半身にはあまり要をなさないと思われるブラジャーが引っかかっていて、つまり9割裸だった。
 ベッド周りには脱ぎ散らかされた衣服。それを絨毯のようにしながら近づいて、晃を肩に担ぐ。
 俺とそう変わらない背丈の割には軽いが、見た目無駄な肉の無い細身にしては重い。
 茶飯事であるその露出は今更どうということも無い。女の生肌、せめて姉の生肌であったのなら大なり小なり気まずさもあったかもしれないが、肩で寝息を立てているのは無責任な野郎だ。
 リビングまで運んだところで晃を無造作に放り投げる。ブラジャーが空を舞った。
 どんと音を立てて、むき出しの背中を強かに打ちつけた晃は潰れた声を肺から出して、それでも全身のバネですぐさま飛び起きる。
「曜一、てめっ、何しやがんだ!」
「晃こそ何やってんだ。どうすんだよこの冷蔵庫」
 晃の冷蔵庫たちを指差すと俺の指先から始まる見えない点線を辿り、そして家電の山に視線を置いて動かなくなった。首から上だけ動かしてじいっと観察している。
 軋んだ動きで俺に視線を戻し、クエスチョンマークを丁寧に貼り付けた顔を向ける。
「何この粗大ゴミ」
「お前のペットだよ」
 責任持てよとだけ言って部屋へと戻る。
 散乱した晃の衣服を投げ捨て(男物のスーツだった)、廊下へ放り投げて、ドアも閉めないままベッドへ倒れこむ。
 晃がつけていたらしい香水の香りが残っていたが気にする力も無い。眠りにつくこともしないまま、そのまま無為な時間を享受した。


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