窓に叩き付けられる雨音は次第に大きく強く、窓枠が時折軋み風圧でガラスが揺れている。
「帰るに帰れないな」
「様子を見よう。幸いぼく等にはすることがあるだろう、雨宿?」
担任の地学教師から準備室の掃除を押しつ…頼まれて俺と新珠は地球儀や天気図、望遠鏡やらが詰め込まれた部屋にいた。
物臭な江戸先生は出席番号1番2番で頼むなぁ〜、と言い残し鍵を置いて自分は早々に帰ってしまった。
課外の半ばから降り始めた雨は準備室に辿り着いた頃から急激に勢いを増し、5月には珍しい悪天候に発展している。
幸か不幸かどちらも適当に誤魔化して済ます事を善しとしない性分で、黙々と作業を続けている。
…………
雨音に遠雷の響きが混じる。
まだ距離は離れているが外を見るとこのままでは収まりそうに無い。
新珠は入り口近くで机の上に乱雑に重ねられていたファイルを揃え棚に戻している。
稲妻が奔った。
間を置いて、落雷。
近づいて来ている。こうなると屋内のほうが安全だ。
それに、寮以外で二人きりになるのは初めての事で現在の天候と裏腹に浮かれる気持ちも確かにあった。
かと言って好かれたいとは思わない。決めるのは新珠だからだ。
変わらぬ日常を繰り返しながら、互いの領域は侵さない。
再び光。衝撃。
ぴく、とファイルを並べ掛けていた新珠の手が反応し、止まる。
瞬きもせず、表情を動かさない様子に……
――閃光・空を裂く轟音
「いやっ!」
ほろりと表情を崩した彼女の泣き出しそうな顔が見えたかと思うと束ねた後ろ髪が舞った。
飛び込んできた衝撃に2,3歩後退って背を壁に支えられる。
轟きの残響のなか、新珠は全身を震わせて俺にしがみついている。
まるで見なければ全てから逃げられるかのように頑なに目を閉じて。
握り締めた指は長い睫毛と共に絶えず揺れて必死に恐怖と戦っている。
肩を支えると短い安堵の息が漏れた。
雷光と一瞬遅れた頭から足の先まで突き抜ける衝撃音が世界を覆う。
「…、や…怖い…!いやぁ……っ」
漏れる怯えと嗚咽の息遣いが肩に当たる。
見なくてもいいように頭を抱え込んで外の景色から遠避ける。
左手で両腕ごと背中を強く引き寄せて抱き締める。
制服の上からでもこうして接すると、いかに男離れした体格であるか明白に感じ取れる。
細い肩と腰、希有な存在感、強さと脆さ、輝きと陰りが只一つの新珠燐を形作っている。
伝わってくる戦きが俺の中で温もりに変わり、また彼女に戻っていけばいい。
一千秒にも思えた時間は実際には十分の一程度だろう。
そっと頭を撫でると顔を擦り寄せて応えた。
白くなるほど襟を掴んでいた指を徐々に開くと、そろそろと確かめるように俺の背に手を回した。
僅かに乱れた呼吸を整えるように身を預けている様子から落ち着いてきたのが分かる。
急速に最高潮に達した嵐は遠ざかる雷鳴に伴われて瞬く間に止んでゆく。
砂を流すように降り落ちる水音と不規則に聞こえる雨だれが、あっけなく訪れた静寂に色を差す。
「ありがと……」
はにかみながら体を離した新珠は、やや潤んだ瞳で視線を合わせずに呟いた。
制服姿でこんな顔をされると、いたたまれない。
「もう平気か?」
こくんと頷いて尚も照れくさそうに俯いていたが、一言。
「誰にも、言わないでほしい」
――前にも聞いた台詞だな。
「嫌いなものがあるのは恥じる事じゃない」
「じゃあ、口止め料だ」
背伸びをされてふっと視界が遮られる。触れるだけのキス。
「お釣りはいらない」
「……」
男の姿での行為は二重の意味でリスクが高いだろ。
「一人の時は呼べよ。先払いで受け取ったからな」
「呼ばないと来てくれないなんて、本当に高いと思ってる?」
「用も無いのに行くのは変だろ」
「……馬鹿」
彼女は床に散乱したファイルを拾い上げ作業を再開した。
「新珠」
「ん?」
「読みたくて探している本があるんだが、お前の部屋に並んでいたのを今思い出した。貸してくれないか?」
「ん――、どうしようかな」
口元に指を当てて検討している。
「そうか、ならいい」
「あっさり諦めるんだな」
「他の手を考える」
「読みたいんだろう。目の前にあるのにどうして遠慮する?」
「扉を閉められたよ」
「なら開けろ、と叩けばいいだろ、一度で駄目なら二度、君は執着心がなさ過ぎる」
「効率を上げているだけだ。そもそも、閉める理由は何だよ」
新珠と話していると展開に付いていけない、相手が何を求めているか判らなくなる事がままある。
執着心?
あるよ。おそらく。充分に。
「…………、あのさ、君のバイト先のお店の隣、ケーキ屋さんだよね」
言われてみればそうかも知れない。甘い物には興味が無いから気にした事が無かった。
「ああ、そうだ」
と思う。
「美味しくて結構有名なんだ。特にカスタード系が評判らしい。プリンとシュークリームは外せないかな。
一人で入るには恥ずかしくて」
俺には一人で苦手なスイーツの店に行けと。野郎二人だともっと怪しいがな。
「でもロールケーキも好きなんだ」
ふふ、と鼻を鳴らして微笑む。見上げる瞳は明らかに悪戯好きな光が宿っていた。
最後に机を拭き上げると戸締まりをして廊下に出た。
「鍵は返しておくから。奥丁字が待っているだろ?」
「そうだね、ではお先に」
髪を翻して歩き去る後姿は平素誰もが目にする新珠燐だった。
窓の外は夕暮れ前の光を取り戻し、濃く色を増した木々の葉を照らし、残った水滴がガラス窓を伝い流れてゆく。
下校する生徒達。変わらぬ光景。
「――待ってるから、な」
誰も居ない事を確かめて振り向いた、あれから毎回何処か誤魔化されているような釈然としない、だが不思議と満たされる笑顔。
向けられるのは俺だけだと自惚れたい誘惑は叶うはずも無いからこそ密かに胸の奥に住み着いて離れない。
日常に埋もれながら時折思い出したように胸を差す。
軽く手を振って応えると今度こそ先の角に消えた。
見届けて足早に職員室に向かいながら俺は知らず知らず駆け出していた。