道路が混んでいてバスが来るまでの待ち時間が10分、学園下のバス停に25分、そこから坂道を歩いて10分。
寮まで帰り着くと9時に近くなっていた。
自分が情けなくて、決めていたはずなのに、なぜ思うように動けなかったのか、……悔しい。
……それに、右手の指を動かすと、二の腕の筋の部分が痛む。
どうしよう。
自室のドアに左手を突いてもたれかかって、考える。
今すぐ階下に降りて彼の部屋に行かないと――、頭ではそう思っているのに、脚が震えている。
行かないと。だけど、でも。
追い返されるのが
怖い
嫌われてもいいのに、嫌われたくない。
二つの反対の思いが渦巻いて。
また、ずしんと腰が重くなる。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。
こんな自分、嫌いだ。
彼の傍になんか、いられない。居たら、いけない。許せない。
左手の非常階段で影が動いた。
――――
間違えようのない、さっき見た姿と同じに近づいてくる。
細いストライプのTシャツにグリーングレーのシャツジャケット、色褪せたジーンズ。
表情は、……よく、分からない。目を上げられない。
肝心な時に言うべきことを言わないと時を失う。
こんなに不甲斐なかったなんて、駄目だ。駄目だ。駄目だ。
顔を上げたとき、横から抱きすくめられた。
「――――!」
息が止まりそう。
彼の腕、彼の体温、彼の匂い。会いたかった、会いたかった、会いたかった。
嫌な悪い嫌いな気持ちがみるみる塗り替えられてしまう。
温かな優しい心地いい思いが全身を駆け回って、ぼくを甘やかす。
「……新珠」
彼の声、何日も聞いてないような錯覚が起こって、それだけで体中の力が抜けそう。
迷惑なら放っておいて。でないと甘えてしまう。
でないと勘違いしてしまう。舞い上がってしまう。
離れないといけないのに、いけないのに、いけないのに。
体が動かない、動けない。動きたくない。
「ごめんな。俺も言い過ぎた」
耳元から一語ずつ伝わってくる言葉がゆるやかに全身へ染み通っていく。
……頭が目が熱い。ああ、もう、言わせてしまった。先に、言われてしまった。
彼は何も悪くないのに、ぼくが早く言わないから言いたくもないことを言う羽目になってしまっている。
「……ううん、ぼくが――」
溜まっていた思いを吸い込んだ息と一緒に吐き出す。
いつ破裂してもおかしくない位に胸の奥に詰め込みすぎて、もう収まりそうにないから。
ごめんなさい。
だけど、あなたが――
――話し声がする。エレベーターから誰か出てくる!
慌てて鍵を開けて、先に彼を押し込んでから追って入ろうとすると、呑気に見とがめられた。
「おぉっ新珠の私服姿撮ったり〜」
「新珠君、おかえり。病院に行ってた?一人だった?大丈夫?」
身長差20センチの衣黄と市原が現れる。
ぼくを見つけると衣黄はすぐに目の奥に心配げに伺うような、いつも向ける表情になって走り寄ってきた。
ドアを背にして、ぼくもいつもの顔に引き締めて答える。
「うん、元気だよ。……市原は自宅通いだろう、どうしてここにいるんだ?」
「こいつの部屋のパソコンとプリンター、オレのより高ぇんだ」
「衣黄、迷惑な時は嫌だとはっきり断らないと、この男はどんどん調子に乗るよ?」
……衣黄なりに市原を見張っているつもりなんだろうけど……お人好しにも程がある。
「今日限りと約束したから。……新珠君も聞いているからね、破らないでよ」
「おう、ってー訳で丁度会ったんだ、新珠のお部屋訪問で騒ごうぜ」
「…は、っ!?なななん何言ってる、そんなことは出来ないよ」
「いちはらっ!学校の外まで彼を詮索するのはやめてくれと言ってるだろっ!」
「どーせ明日もお祭りなんだから前夜祭によー、付き合いわり。雨宿も住んでんだろ?奴のとこ行くか〜」
ちょっと待って!
「雨宿は門限の22時ぎりぎりにしか帰ってこないよ。それから勉強だし――
…………って、聞いたんだ。邪魔なんかもっての外だよ!」
「ふーーーーーん。そーかあ。まー、今回は仕方ねーなあ」
とんでもないことを言い出すから、明らかに焦りが出てしまう。
いかにも見逃してやっていると言わんばかりに薄ら笑いなのが憎らしい。
衣黄が袖を引っ張りながら二つ隣の部屋の鍵を回している。
「ほら、市原君、今日の撮影のチェックをするんだろっ、あと1時間で終わらせないと玄関が閉まるよ!
新珠君、大丈夫だから、明日も頑張ろうね。おやすみ」
「おうよ、雨宿と仲良くなー、じゃーなー」
――っ!え、まさか!?
開くドア越しに振る手しか見えなかった。また衣黄が文句を言うのが切れ切れに聞こえて閉じられる。
「聞こえた……?」
「市原は声が大きしな、この近い距離だと」
完全に静かになるのを待ってから戻ると、玄関脇に立って苦笑いをしながら髪をかきあげて彼は答えた。
学生寮ではあるけれど、構造はきちんとしている。ドアを閉めれば中も外の音も漏れにくく作ってある。
「気が付いているのかな……?」
「聞いても変わらずあの調子なのが見えてるからな。良くも悪くも『見たまま』の事しか言わない奴だ」
「…………」
「差し入れ」
白い折箱をぼくの目の前に掲げる。お店のロゴ入りシールで封かんされていて、何が入っているかはもう、…分かってる。
「朝からの体調も治ってないだろ?……俺が言う資格は無いが、無理するなよ」
受け取ると結構重い。
「雨宿、あの……」
「新珠の努力は誰もが知っているから、いつも相手の事を気に掛けているのは皆認めているよ」
「ま、待って!」
出ていこうとする彼の服の裾を慌てて引っ張る。
「どうしてそんなに優しくするんだよ……、ひどいことをしたのは、ぼくのほうなのに……
謝らなきゃいけないのは、ぼくなんだ。君は、悪くない……」
「――ああ、お前が悪い。……同じだけ、俺も悪い。どちらもだ。」
静かに断言する。でも朝の冷たい様子ではなく、その通りお互いに言い聞かせるみたいに話すから、
胸が詰まる。鼻の奥が、つんと痛くなる。駄目、涙が出るとまた誤解される。
「じ、じゃあ、謝らせてよっ、自分だけ言いたいこと言って、ずるいじゃないかぁ」
思わず袖にすがりついてしまいそうになって、あわてて離す。
でも、負けられない。
もう一度ジャケットの端を掴んで一息吸ってから、彼の目を見つめて言葉を出す。
「はじめに悪いのは、ぼくなんだよ?
…、……
………………、
―――――――― …、」
「君の気持ちにお構いなしに自分勝手で押し付けてばっかりで……
どうして思い通りにしてくれないんだろうって、雨宿なら分かってくれるって、思い上がってたんだ。
負担になるなんて、考えてなかった。本当に自分のことしか頭になかった。
ごめん。ごめん、なさい。、……ごめんなさい」
声がだんだん震えてくる。彼は、じっとあの不思議な色の瞳でぼくを見てる。
本当は抱きついてもっと思いきり叫びたいけれど、最後の最後で勇気が出ない。
「――――俺も同じだから」
たまらなくなって下を向く。唇もまぶたも膝も震えはじめて、もう限界かもしれない。
「ごめんなさい。ただ……」
彼の服をつまんだ指先が力を入れすぎて白くなっているのだけが見えてる。
「……泣いてるのか」
「!、 泣いてないっ!――ひゃっ!」
頬に手を当てられて上を向かせられる。
「俺がライバルの役目を果たせば、泣かないのか」
「…………」
「俺が横に立てば、泣かなくて済むのか」
「そんな強制されて無理にするようなこと、してほしくない!」
重荷になんてなりたくない。だから泣くなんて嫌なんだ、相手の気持ちを無理矢理ねじまげるなんて卑怯で浅ましい。
「今まで散々言ってきた癖に?」
「ぼくの希望と、君の意志は、違う」
「そう、強制かどうか決めるのは俺だから、新珠は今まで通り言い続けていいんだよ」
「また君を怒らせるなんて、嫌だ」
「又、泣いたらいいだろ?」
こつんとぼくの額に頭を当ててちょっと意地悪そうに笑う。
「そんなこと繰り返してどうするんだよ、ば、馬鹿じゃないか。学習しないの?」
彼はくっくっと笑ってる。さっきからずっと顔が近くて恥ずかしい。嬉しいけどっ…
「涙が女の子の秘密兵器って本当だな。怖いよ、落ちない男は居やしない」
「……っ、え!?」
「何でもする、何でも出来る気にさせる魔法だよ」
改めて真面目な顔をされて胸が高鳴る、あごに指を添えられて、思わず目を閉じる…
不意に電子音――雨宿の携帯の呼び出し音が鳴って心臓が飛び出しそうな位に跳ね上がる。
互いに弾かれたみたいに体を離した。彼の顔が真っ赤になっている。きっとぼくも。
「……嶺先生…?」
小さく伺うと目で頷きながらあっちを向く。頭を掻きつつ応えてる。
「はい。………………………………
………………………………人違いです。間違いですよ」
妙に不機嫌な顔で、うるさそうに電話を切った。
「先生じゃ、ないの?」
「只の間違い。いいんだ。……で、…」
さっきのやり取りを思い出して顔が熱くなる。だって、あの、もしかして、だって、あんなこと――
「あの、な……、そう、ほら、ケーキは冷蔵庫に入れておけよ」
「う、うん、わかってるっ。ありがとうっ」
どきどきするのが収まらない。目を合わせるのが何だか恥ずかしくて急いで冷蔵庫に収めた。
「じゃあ、……帰るよ」
照れくさそうに彼も目線をずらして言う。
あの言葉の続きが気になるけれど、ぼくから聞ける訳もないし、
――そうだ!
「雨宿?君の都合のいい時で構わないから、本、貸してくれないか?
三段目の棚に並んでた、えっと、Tって付いてた……」
「T…?」
「筆者の虎尾泰山さんの頭文字なんだよね?途中までしか読んでないけれど、
…面白い発想で、続きが……気になるんだ、け、ど……」
みるみる彼の表情が曇って嫌そうに唇を噛みしめる。
「ごめん!大事な本なんだね!もう、貸して、なんて言わないから忘れて!!」
そんなに辛くて泣きそうな顔をしないで、本っ当に、ぼくはなんて考え無しなんだろうっ。
「そうじゃないんだ、新珠。今朝、汚してしまって……、読めなくなった部分があるんだ。
刊行数も少なくて代わりを用意出来ない。すまない……」
それだけの理由にしては、あまりにも切ない様子で心配になる。
「あの本自体も、まだ続きがある。何時になるか分からないが…………
――必ず、絶対に、新珠には一番に見せるから。約束する」
真剣な眼差しで、よほど気にしているみたいだ。安心させないと。
「わかったよ。楽しみにしてるね」
頷いて笑うと、彼はもう一度目を見開いて瞬きもしないで、じっとぼくを見ている。
また的外れなことを言ったのかな…
「雨、宿?」
「有り難う」
笑いかけられて、息が止まっちゃうかと思った。
――こんなに優しく笑えるんだ、そんな風に嬉しそうな顔をされたら、あなた以外見えなくなる。
彼はお構いなしに、ぼくの頭に手をやって軽く梳きながら続けた。
「新珠、俺はお前の事が――」
二度目の着信音が鳴って露骨に嫌な顔をしながら彼は電話を受けた。
「はい?…………しつこいですよ。……間違いです。
……………………さあ、知りません」
いつも冷静な彼が珍しい程不快な感情をあらわにして話している。
「ごめんな、気にしないでおいてくれ」
苦笑しながら携帯をしまう。ぼくもつられて笑う。
「今度、」
みたび鳴って、そのままの体勢で固まって肩を震わせてる。
そして仕方なさそうに取り出して、音が鳴り続けるそれをしばらく睨み付けていた。
「出ないの……?」
首をかしげて伺うと、観念したみたいにキーを押して勢いよく怒鳴った。
「五月蠅いんだよっ!馬に蹴られ……、え…………ぁ、先生……
――――はい。すみません。…はい、よろしくお願いします。
……っ、いや、…?、……!、…………嘘だ…ろっ――」
手にしたまま画面を呆然と見つめている。
はあぁ、とため息を吐いたところで体がぐらりと揺れて、壁に頭がぶつかって結構派手な音がした。
「あああっ!大丈夫!?どうしたの?……こぶが出来てるよっ、冷やしたほうが」
「――いや、今更大したことない。新珠に撫でられる方が効く」
「そう、…か?」
壁にもたれて腰を落とした彼の頭は、ちょうどぼくの首のところで、いつもとは反対の位置。
治るならいくらでも撫でてあげる。
「もう邪魔は入らない筈だが、すまない。今日は勘弁してくれ……」
彼はひどく疲れた様子で、ぼそりとつぶやいた。
えーと、ね…、気に、なるけど……うん。
期待しても、……いいの、かな?………………………………しちゃうよ?
「約束して」
う、と返事に詰まって考えこんだ後、少し身を起こして目線を同じ高さにして、
――ぼくの唇をそっと舐めた。
「ぁ、…っ!」
わずかな刺激なのに甘い電流が全身に走る。
優しく撫でるように口元から下唇に滑らせて反対側まで舐めてから、
上唇を細かくつつくように舌先で触れられる。
何度も繰り返されて体の奥がぞくぞくと震える。
口の周りが彼の唾液で濡れてきているのを、温い感触で感じる。
もっと、触れて欲しいのに……
唇の内側を少しだけ舐める、ちゅっ、と音がして恥ずかしくなる。
…口なのに、……下を、舐められてるみたいで…っ!
なかなか舌を入れてくれない、でも柔らかな痺れはだんだん強くなって
動きに合わせて疼いてくる。息が熱い。
「焦らさないで、よ…」
彼はかすかに笑って、返事をする代わりに、口を開けておねだりするぼくの中に
やっと入ってきた。
さっきまでと反対に激しく絡められ吸われてねぶられる。
息が出来ない…、けど、もっと……もっとほしい。
好きなままに中を犯す彼の舌を追いかけて、はぁはぁと息をしながら必死に絡めて吸ってねぶる。
唾液を幾度も流し込まれて夢中で飲み込む。彼の、味。沢山、ほしい。
お互いに貪るように求め合って、本当に中を掻き回されてるみたいで目眩がしてくる。
キスだけなのに、どうして、こんなに…熱くて、…溶ける……
「……はぅ…、あ…ぁ、ふぅ……」
ようやく唇を離して呼吸を取り戻しながら彼の瞳を認めると、
いつのまにか壁に背中を押し付けられているのは、ぼくのほうだった。
「きちんと、話す…、から。……いずれ…全部、」
「…ん。……」
彼の指がぼくの口元をぬぐう。ぼくは彼の唇をゆるゆると指先でなぞって答えにした。
…同じ、だよ。ぼくも、ちゃんといつか……
「今度こそ帰るよ、――もう眠くてふらふらする。明日は迷惑掛けるが、よろしくな」
「迷惑かどうか決めるのは、ぼく、だよ?」
「はは、お前なぁ……、…お休み」
「おやすみ」
まだ火照りの残る息を残しながら見送る。
行ってしまったら、すっかり力が抜けてぺたんと座りこんだ。
今日は色々ありすぎて、朝から何日も経ってしまったみたいな気がする。
あなたの横にいられるように頑張るから、それがぼくの願い。
傍にいさせて、欲しい。ずっと――
窓から差す眩しい光が今日一日の晴天を告げている。
熟睡した充実感と3日ぶりに独り占めをするベッドは変に広く感じられて居心地がむず痒い。
24時間前からの状況と心境の移り変わり様を思い出して笑いを零す。
干渉されるのは嫌だが手の届く場所には居て欲しい。
彼女の涙が身勝手な要求と苛立ちを押し流した。
あんな悲しみに満ちた顔を初めて見た。させたのは俺だ。
もう一度笑って欲しい。
――それは俺の考えの押し付けで彼女自身の願いは誰にも分からない。
彼女の心は彼女だけのものだから。
二人きりの時に見せる感情はあまりにも切なく甘い。
俺が僅かでも支えになるのなら、本当にライバルと認めてくれているのなら、新珠の中の「雨宿松月」を目指してみるのはどうだ。
戻らないからと諦めるには、当の昔に不可能だった。結果は同じでも足掻きたい、後悔してもいい。
虎尾教授、嶺先生、千島医師、ケーキショップのお姉さん……
そして新珠。部屋に押し掛けられるのも家捜しされるのも勝手に片づけられるのも食事を出されるのも、正直うっとうしい。
だからな、少しずつだ、少しずつ。
普段は耳の後ろでまとめているだけの長髪を三つ編みにして、味気ない紺と白線上下の体操服姿すら
初夏の爽やかな空と風の中、やはり彼女は際立って輝いて、綺麗だった。
ふと、通り過ぎる下級生の女の子二人。丸首の半袖シャツは男子と変わらないが……
「さあ、次が出番だからね、行くよ」
紺色ジャージを履いた彼女に背後から声を掛けられて、ぎくりと背中が冷える。
揺れる三つ編みの後を追って歩くと、あちこちから声を掛けられ視線が集中する。
無論、新珠燐に。
「参加することに意義があるんです!結果がどうなっても僕らは応援しています!」
「気合い入れてやれよなぁ、特に雨宿、まぁ何とかなるだろ」
「お二人ともきっとだいじょうぶですよおー、ふぁいとー」
期待しろとは足手まといの俺が嘘でも言える筈がないが、この、走る前からのフォローの嵐は……
「新珠、……昨日?何かあったのか?」
「……き、気のせいだよっ、組応援が盛り上がってるって、いいことだろっ。
ほら、急がないと」
誤魔化すように足早に入場口へ走って行く。良くも悪くも注目されるのは一緒に居る以上、仕方が無い。
「いやあああ、新珠先輩が男と密着してるぅぅぅ、」
「落ち着いてよ、二人三脚だってば」
「来年、来年には必ず先輩とーーーー!」
「卒業しちゃうってば」
自分の右足と俺の左足を結んで準備完了、と頷いて彼女は拳を握り締めた。
「くれぐれもお手柔らかにな、突っ走られると、死ぬから。性急過ぎるんだよ、お前」
「うん、分かってるよ。仕方ないなあ」
ここでそんな小悪魔みたいに笑うなよ、皆見てるだろ。
「俺以外なら一番を狙えるのにな、ごめんな」
「二人でゴールするのが目的だからね。それが一番大切なこと。
…もし負けても、頑張ったよね?ぼくたち」
煌めく瞳が抱き締めたい程愛おしい。肩を抱く腕に力を込める。
『位置について――』
目の前に白いゴールテープが見える。
それ以外に立ちはだかっているものはない。
新珠となら、出来るかもしれ……
「――!」
「きゃ!」
つまずいた…………
「わっ、悪いっっ」
「ば、ばか!」
どう見ても押し倒している体勢で、焦って立て直そうとして更にバランスを崩す。
「あーはっはっは!決定的瞬間撮ったああああ!オマエらやっぱ期待裏切らねえっっ」
「市原っ!今度は僕達が走るんだよ、何してるんだよっ」
「やだあああああああ、あの男殺すーーーー!!!」
「素晴らしすぎますわ、目眩がしますわ、二人の世界ですわ」
散々だった。
形勢の怪しくなった3組だが、応援はかえって挽回しようと勢いに乗っていた。
なかでも3学年は、入学の翌年から共学になり普段男だらけで過ごす鬱憤を、
この時とばかりに晴らそうとせんばかりに異様な熱を帯びてきていた。
「逆境こそ本望、逆転こそ最後の花道だあー」
「やはり3年がまともに選手選択をしなかったのが招いた結果ではぁー」
「それはそれ、これはこれ!女子達もあんなに頑張っているんだ!
あれを見て何とも思わないのか!男なら漢を見せろ!」
「ブルマいいっすよねー……留年しよっかなー」
「君たちっ!見る所違うだろっっ!!」
思わず頷く一同に俺もつられて納得すると、新珠がもの凄い勢いで睨んだ。
怖すぎる。
最後の組対抗リレーで、アンカーの新珠が4位からの大逆転という絵に描いた様な展開をやってのけ、
当然のごとく総合優勝を勝ち取った。
出走後に閉会式、片付け打ち上げ諸々、彼女はずっと沢山の人間に囲まれて賞賛を浴びていた。
部屋に持ち込んでいた私物を引き取る口実で訪ねてきたのは23時を回っていた。
「明日で良かったのに、疲れてないか?」
「それより、君に手伝って欲しいことがあるんだ。君じゃないと、駄目なこと」
「今日の償いだ、何でもするよ」
「本当?――昨日のケーキ、7個も入っていたよねえ。昨日の夜と今朝2個ずつ食べたけれど、
まだ残ってるんだ」
「食べてしまえばいいじゃないか、あと3個だろ?」
「全部すっごく美味しかったけれど、太っちゃうよ。ぼく――女の子なんだよ?」
嫌な予感がする。
「君が持ってきたんだから、責任取ってよね」
「甘い物は駄目だと言ってるだろ。給料前で痛かったんだぞ」
「何でもするって言ったくせに。嘘つき。」
頬を膨らませて拗ねてみせる仕草で脅迫してくる。限りなく勝率は低い。
「なるべく甘さ控えめの奴で協力するから、……後は頼む」
「だめ。全部食べてくれないと、口移しだから、ね」
「はぁ……っ!?」
「やっぱり好き嫌いは良くないと思うんだ。食べることも楽しまないと、勿体ないよ」
「それはそうだが、なに、箱持って構えてるんだ?それ、生クリームに幾層も重なって如何にも甘そう、
おい、そんなに寄るな、口移し前提かよっ、ま、待て…っ……、」
甘い。果てしなく気が遠くなりそうに甘い。味がどうのというレベルじゃない。
どんなに甘ったるいお菓子でも、キスより甘いものは無い事を思い知った……
新珠の傍に居る事が、俺は無論、周囲を徐々に巻き込んで変えていく。
定められているのかそうでないのか、知る術もなく――