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広瀬について(接吻編)

8_530氏

 最近、広瀬の機嫌が悪い。焼きそばパンが買えないからだ。
 最近、広瀬に避けられている。俺を見るなりきびすを返す。
 最近、広瀬と飯を食っていない。4限が終わると、あいつはそそくさと教室から出て行く。今日もその後ろ姿を確認し、ふと思う。広瀬は美味そうに飯を食う。だから広瀬と食う飯は美味い。
 俺は決めた。今日の昼は広瀬と食おう。

 非常階段の扉を開けると、夏の強い日射しに一気に瞳孔が収縮した。
 果たして、上衣の裾をあおぎ風を送っている広瀬を見つけた。まくり上げたシャツの奥に身体に巻かれた白い布が見える。さらしだ。

 以前に言ったとおり、広瀬は女だ。だが男として生活している。理由は知らない。
 以前に言い忘れたが、広瀬は男子の制服が似合う。
 あれから季節が移り、広瀬は夏服も映える。
 とはいえ、さらしを巻いた上にTシャツを重ね、更に学校指定の開襟シャツを羽織るという重装備だ。毎年夏は閉口していると、いつか広瀬がぼやいていた。非常階段は滅多に人が訪れないうえ風通しが良く、涼むのにもってこいだとも。

「なんだよアキオ、驚かすんじゃねーよ」
 広瀬があわててシャツの裾を正す。
「アキオてめー、なに断りなく勝手に座ってんだよ。近づくなっつーの」
「だから! 近づくんじゃねーつってんだろ! 駄目だってば! オレ今日も焼きそばパン買いに走ってんだから! やだよ、オレ、……汗くさいんだから」

 風が季節はずれの若葉の匂いを運ぶ。制汗剤の香料だろう。それを突き抜ける腋臭持ちにも思えない。
 俺は広瀬が理解できない。
 汗より先に恥じるべきことがあるはずだ。
 例えば乳。さらしの上からとはいえ限りなく真っ平らな広瀬の乳は、さらしで押さえつける必要があるのかどうかすら疑わしい。貧乳は恥ずかしくないのだろうか。
 例えばがさつな言葉遣い、例えば突拍子もない身振り手振り、例えば大股を広げて座ること。これらは恥ずかしくはないのだろうか。
 昨日もクラスの男たちによるエロ本回し読みに参加していたが、男と猥談するのは恥ずかしくはないのだろうか。余談だが、その雑誌に載っていたAVの広告が俺の目を引いた。『谷間にドピュン! 爆乳100人斬り』ツタヤに入荷するといいのだが。

「あーもう2週間も食ってねーよ。今日とか、すげーあと少しだったのにさ。最後のひとつに、手ぇかけたのにさ。けどさ、横からかっさらわれてさ。ひでーと思わね? ひでーよなあ? めちゃくちゃ頑張って走ったのにさー」
 非常階段には日陰がわずかだ。だから夏は誰も近寄らない。
 俺が日陰をあきらめて少し離れた場所に腰を落ち着けると、安心したのか広瀬は口を尖らせながらカツサンドを食いはじめた。
「あーあ、焼きそばパン食いてーなあ」
 カツサンドも焼きそばパンも似たようなものだろうに。
 少し前、俺は入手困難とされる焼きそばパンを、一度に3つ手に入れたことがあった。購買の人だかりを力ずくで引き倒す腕力と、それにより生じる白眼視を受け流す図太さがあれば、そう難しいことではない。
 買ってきてやろうか。
「今なんつった?! マジで?! マジでアキオ買ってきてくれんの?! すげー嬉しい、すっげー嬉しい! やべー、オレちょー嬉しい!!」
 広瀬が目を輝かす。まるで戦隊ヒーローを目の前にした小学生だ。
 久々に、広瀬は俺に笑顔を向けた。

 翌日。天気快晴、運動日和。
 2限終わりのチャイムと共に教室の窓から飛び降り全力疾走、成果は5つの焼きそばパン。上首尾。
 案の定、広瀬はソンケーの眼差しを俺に向ける。
「すげーよアキオ、お前すげーよ! アキオ最高! ちょー最高!」
 それから昼休みまでの2時間は、今までの広瀬の人生において最も長い2時間だったであろうことは想像に難くない。
 机の中に入れたパンを包装越しにまさぐってみたり、取り出して膝の上に乗せてみたり、ノートに落ちた涎をあわててぬぐってみたり、挙動不審な広瀬の様子は俺の席から丸見えだった。


 昼休みに入るやいなや、腕をつかまれ非常階段まで引きずってこられた。焼きそばパンを並べて広瀬が説明する。
「これとこれ、これとこれで重さおんなじくらい。2個ずつな。そいで最後のこいつを半分コして――、」
 広瀬の顔が歪んだ。焼きそばパンを二等分に割るつもりだったのだろうが、随分といびつになっている。しばし葛藤の末、大きい方を俺に差し出した。未練がましい表情が面白い。
 俺と2人で分けるために、広瀬は早弁もせず腹の虫に耐えていたようだ。律儀というか健気というか。だが俺は、焼きそばパンに興味がない。
「マジで?! オレ全部食っていいの?! ホントに食っちまうよ? アキオ後から欲しいって言っても駄目だからな?」
「うわどうしよう、5つなんて食いきれねーよ、うわやべ、すっげーやべー、ちょー嬉しい」
 今日は汗が気にならないらしく、俺の隣で大口を開けて――恥ずかしくはないのだろうか――焼きそばパンにかぶりつく。
 唇から白い歯がこぼれる。待ちきれないかのように舌を伸ばす。目を細めて咀嚼する。嚥下する喉が動く。指先に付いた油を順に舐め取る。
「うめー、やっべちょーうめー、オレ、アキオ大好き。すんげー大好き! もー何でも言って。オレ、アキオのためなら何でもすっから!」

 貧乳には欲情しない。女は乳だ。自分の信念を曲げるつもりはない。だが。
 じゃあ、舌を出して。
 俺の言葉に、広瀬はナニソレと笑いながらあっかんべーをしてみせた。その間抜け面が腹立たしい。仮にも男なら、男の気持ちも理解しろ。
 俺は広瀬の舌をぺろりと舐めた。
 焼きそばパンの味がした。

「っ、っ、っ、てめー何しやがるドアホウチンカス糞ったれ!! ちげーよタコ! 困ったことあったら相談乗るっつー意味だボケっ!!」
 飛び跳ねるように立ち上がり、壁にへばりつきながらも罵詈雑言を並べ立てる広瀬の腕には、しっかりと焼きそばパンが抱え込まれている。見上げた根性だ。俺は再び同じ言葉を投げる。
 舌を出して。
「だってだってだって! オレ、男だし!!」
 俺はもったいを付けながら焼きそばパンと広瀬とを交互に見やる。そのまま真っ赤な顔に焦点を合わせ、出来るだけ優しい声音で言ってやった。
 舌を出して。
 たかが昼飯ごときで不用意な言葉を吐いたこいつが悪い。――大好き、何でもする――頼むから軽率な物言いはやめてほしい。まんまと踊らされそうになる俺のためにも。
 広瀬が涙目になっている。悪ふざけが過ぎた。嘘だぴょーんとでもおどけて、さっさと冗談にまぎらせてしまおう。
 そう思った矢先、広瀬はぎゅっと目をつむり、おずおずと舌を差し出した。

 時々、どうしようもないほど広瀬は俺を苛立たせる。
 逃げたいのなら逃げればいい。殴りたいのなら殴ればいい。逃がしてやる。殴られてやる。誰も広瀬を止めやしない。
 貧乳には欲情しない。女は乳だ。まれに、何かの弾みでこのまな板を抱きしめたくなるような気がしなくもないかもしれないかもしれないと思ったりすることがあるかもしれないことが無きにしもあらずと言えなくはなくもないが、そんなことはどうでもいい。
 つまり、冗談も通じないようなバカは困る。
 つまり、広瀬に泣かれると困る。
 俺が立ち上がる気配に、広瀬はあわてて舌を飲み込んだ。
 眉根を寄せ、かたくなに閉ざしたままの目元では、まつげが小刻みに揺れている。
 非常階段は日射しが強い。夏は誰も近寄らない。
 注意深く広瀬の身体に触れないよう顔を寄せ、固く結ばれた口元でささやいた。
 舌を出して。


 息が混じるほど広瀬を間近にするのは初めてで、髪の生え際の頼りない和毛(にこげ)や、赤く染まったやわらかそうな耳たぶや、金色の産毛や、髭の生えない滑らかな肌や、首元にじんわりとにじむ汗を見つけた。
 唇は女性らしいふくよかさはないが艶やかで、綺麗な波の形をしている。
 こくんと、広瀬の喉が鳴った。生唾を飲む自分の音に広瀬はますます真っ赤になって、ますます目蓋を締め付けた。一瞬、頬の筋肉が動いたのは奥歯を噛みしめたのだろう。
 日射しが背中に熱い。
 息を止めて、広瀬は舌を覗かせた。

 広瀬は待っている。俺が舐めるのを。舌を出して待っている。恥ずかしくはないのだろうか。
 それとも舐められたいのだろうか。俺に。
 広瀬が舌に力を入れていないせいで、唇からはみ出た舌先がヒクヒクとうごめいている。
 卑猥な動きだな、と思う。
 いやらしい。広瀬のくせに。恥ずかしくはないのだろうか。
 舌を伸ばし、広瀬の舌先と合わせる。生暖かいぬめりが伝わる。途端に怯えて引っ込んでしまう。
 広瀬の味が残る。
 呼吸を止めていた広瀬はようやく空気を肺に送り込む。荒い息づかいがひどく淫りがましい。
 いやらしい。広瀬なのに。

 舌を出して。
 小さく広瀬がかぶりを振った。
 揺れる広瀬の髪を見て俺の指が思い出す。この頭を撫でたことがある。細い髪。柔らかい髪。手を伸ばしかけて、だが俺は両手をポケットにしまい込んだ。
 俺は広瀬を拘束しない。広瀬の動きを遮らない。広瀬が逃げたいのなら逃がしてやる。
 舌を出して。
 再び広瀬の喉が鳴った。随分と唾液が多いんだな。興奮しているのか。いやらしい。
 目の前の肩が震えている。
 逃げたければ逃げればいい。どうするのかを選ぶのは広瀬だ。
 広瀬の顎が何かを言いたげに上下したが、やがて大きく息をつき、ゆっくりと時間をかけて広瀬は舌を差し出した。
 だから、悪いのは俺じゃない。広瀬だ。

 半開きの口からみっともなく舌がこぼれている。浅く早い呼吸が空気を湿らせる。
 そのまま、と言い置いて広瀬の舌を舐めた。広瀬は舌をしまわなかった。
 外に出されたままの赤い肉にもう一度舌を伸ばした。触れるか触れないかの軽さで縁をなぞると、広瀬の身体がビクッと震えた。
「ん、」
 広瀬が声にならない声を漏らす。今まで腕に抱えられていたパンがばらばらと足下に散らばった。それでも広瀬は引っ込めなかった。
 広瀬の舌が小刻みに動いている。
 恐いのか? 恥ずかしいのか? 感じているのか? 誘っているのか? いやらしい動きだ。いやらしい奴だ。恥ずかしくはないのか。恥ずかしい奴だ。
 広瀬の舌に自分の舌を押し当てた。案の定、力の入らない広瀬の舌は俺に触れて小さくもだえる。俺はただ合わせたままでいるだけなのに、広瀬のほうから勝手に動いて卑猥な振動を俺に伝える。涎まみれでぐちょぐちょに濡らした舌で俺をくすぐる。広瀬はいやらしい女だ。
 俺は何もしていないのに。
 広瀬が生ぬるい息をかけて俺を誘う。
 俺は何もしていないのに。
 広瀬が口の端から涎を垂らして俺に見せつける。
 俺は何もしていないのに。
 広瀬が自ら舌を動かして俺を焚きつける。
 俺は何もしていない。広瀬が悪い。違う広瀬は悪くない。淫らに舌を使った。ひきつっていただけだ。逃げなかった何度も舌を出した舐められたがっていた。怯えていただけだ。
 俺は何もしていない。違う俺がそうさせた。脅した。仕向けた。怖がらせた。俺が広瀬を辱めて、俺が広瀬を泣かせた。

 広瀬を抱きしめたい。できるかそんなこと。

 先に顔を逸らしたのは俺の方だった。
 俺が後ずさると、広瀬はその場にくずおれて静かに嗚咽した。
「……アキオ、オレのこと、好き、なの?」
 足下に転がる焼きそばパンを雫が叩く。深くうつむいている広瀬の表情は見えない。
 広瀬からも俺が見えていないことを確認し、首を縦に動かした。


 午後の授業に広瀬は出席しなかった。
 恥知らずにも、俺はあの後広瀬を非常階段に残し、ひとりで教室に戻ってきた。
 友達を傷つけたからといって海まで走ったり、女の子を泣かせたからといって水平線に向かって叫ぶような行動様式は持ち合わせていない。
 俺はいつもの通りに授業を受け、教科書に隠れておにぎりを食い、放課後はいつもの通りに部活で汗を流した。いつもの通りに一日が過ぎ、いつもの通りに世界は平和だった。反吐が出るほど喜ばしい。
 帰り支度を済ませ昇降口に寄り、下駄箱に広瀬の上履きがあるのを確認した。部活前に見た時には運動靴が入っていたから、その後履き替えて無事帰宅したのだろう。ひとまず胸をなで下ろした。

 夏の夕暮れは空を紫とオレンジ色に染め上げ、何本もの飛行機雲がグラデーションを縦横無尽にぶった切っている。
「アキオってバカだろ?」
 不意打ちに仰天する。校門の陰に隠れて広瀬がいた。
 目が赤いのは、夕焼けのせいではない。
 俺は広瀬に謝らなくてはならない。なのに言葉が出てこなかった。
 広瀬は表情もなく俺を眺めていた。その顔に怒りであれ侮蔑であれ、何らかの感情が浮かんでいれば謝罪できたのかもしれない。
 俺はその場で頭を下げた。広瀬の視線がいたたまれなかった。広瀬を見られなくて、謝罪に似せて顔を隠した。

「今度から焼きそばパン1個でいいからな」
 俺は広瀬が理解できない。
 何を言いたい? 自分が何言っているのか分かっているのか、こいつ。
 泣いていた。嫌がっていた。また泣かされたいとでも?
「誤解すんじゃねーぞ! オレ、すっげーすっげーアキオのこと怒ってんだからな! 逆立ちしながら土下座したって許さねーくらい怒ってんだからな!」
「だいたいさ、最初っから5つはねーよ。バカじゃね? 5つとかハリキリすぎ。食いきれねーっつーの。とりあえず、お、オツキアイすんならまず一緒の登下校からだろフツー。それなら1個分くらいだし! そしたらオレだって全然食えるし! 平気だし!」
「でも、オレ許さねーからな。ちゃんと謝らねーとぜってー許さねーからな。謝るよな? アキオ、悪いって思ってんだろ? だって……、オレのこと、好き、なんだよね?」
 そう言って、広瀬が指さす向こうには、夕日に照らされて広瀬と俺の長い影が伸びていた。

 ――アキオ、オレのこと好きなの?
 あの時、そう問われて俺はうなずいた。広瀬はうつむいて俺の頭を見ていない。
 だが、痛いほど日射しが照りつけていて、正午過ぎの太陽は足下に色濃い影を作っていた。

 相手に許されていることを知って謝罪をはじめるなんて、恥ずかしいことだ。
 それでも俺は、とにかくようやく広瀬に詫びた。やっとのことで出てきた言葉は、何を言っているのか自分でも分からないほど支離滅裂で、声を整える余裕もなかったけれど、これ以上情けない男にはなりたくないから謝れるだけ謝った。
 腹に15発入れて広瀬は俺を許し、ふたりで駅までの道を歩いた。
 少しだけこみ上げた胃液が苦かった。


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