遠く垣根越し、アーレントはシトウェルを見つけた。
ベンチに腰掛けてなにやら手紙を読んでいる。
物憂げな表情だ。
眉に皺が寄っている。
腿の付け根を見た。
膝に広げた手紙を見つめる手から、緩やかな前屈姿勢を保つ腰、平らな腹と胸と、首筋まで見た。
高ぶるような感覚が蘇ってきたのか湧いて来たのか、出所は分からない。
シトウェルがもはや男になど見えないことへの自己嫌悪に陥いっているところを、彼女に見つけられた。
シトウェルは一瞬微笑みかけ、すぐに表情を強張らせた。
「……おはよう」
挨拶は曖昧で、唇のを持ち上げてやっとひねり出したような感じだ。
昨日の今日なのだから、当然だろう。
静かに部屋を出て行った足音も覚えているし、特有の爽快感もだるさも、身体に残っている。
おそらくはシトウェルにも、もしかしたら馬に乗れないほど。
「……ああ。そっちに」
行ってもいいか、と聞きかけて、さっきの想像を思い出した。
「いいよ」
軽く腰を浮かせてシトウェルが右隣に空間を空けた。
やましい気分が残っていたのに、座るしかなくなってしまう。
のろのろと常緑の垣根を回り込んで、腰をおろそうとしたときだ。
シトウェルがごく僅か、けれど確かにびくりと肩を震わせた。
一瞬のこと、もちろんあからさまな声など上がらなかったのだが、十分過ぎた。
一昨日までのシトウェル――アーレントに接する生意気な少年が頭をよぎる。
彼はたいてい、アーレントのすぐ隣か、すぐ後ろに居た。
出来る限り距離を開けた。
シトウェルは何でもなさそうに手紙を握りなおし、袖をひっぱり、目を伏せた。
「就職のことだが。お前の希望を一応聞いておきたい」
「……それなんだけど」
ごく小さい声でシトウェルは続けた。
「俺さ、やっぱり辞めない。ここで働く」
「……何を」
「辞められないんだ。お金がいるんだよ。家族を食わしてやらないと。弟と妹が全部で七人居て」
「は?」
「今朝手紙が来たんだ。母さんが倒れたって。本当に。信じてくれ」
疑っているわけではない。
見上げてくるシトウェルの表情は必死だったし、嘘を吐くような人間では――思い切り吐いていたが、こういう場面でごまかすような人間ではないと知っている。
「……お前、どうしてそのことを昨日言わなかったんだ」
小さな唇がきゅっと閉じた。
答えはなかった。
「知ってたら俺はお前にあんな……ああ、違う、とにかく!」
シトウェルが事情を打ち明けて、相談してくれていたら。
いやそもそも、相談の機会すら与えずあんな状態にしたのは自分だ。
でももし、やっぱりきちんと話を聞いてさえ――
「だ、だってアーレントだったら絶対、こんな話したらさ、助けようとするだろ? あいつらには俺の稼いだ金で食わせてやりたいし、それに……」
そうだ。
そうなのだ。結果は変わらない。
シトウェルに貸せるだけの金を貸した後、やはり軍でないところで働けと言うだろう。
ほら見ろどっちにしろ抱いてたじゃないかと頭を抱えるアーレントの横で、シトウェルは手紙の端を折り曲げている。
「それにな、一生お前に頭が上がらないのは嫌だなって思ったんだ。お前なにかと偉そうだし、先でからかわれたら……」
喉の奥から搾り出すような声。
さすがのアーレントもようやく気がついた。
シトウェルは信じていたのだ。
あとでからかわれたり、普通に話したり、そういう日常のまま居れる事を。
つまりアーレントなら、ばれても『そんな事態』にはならないだろうと。
そして思い切り裏切られた。
「アーレント、お前は……」
常々、声変わりが遅いと思っていた高い声が呟いた。
思わず奥歯を噛む。
罵詈暴言を覚悟したアーレントの耳に、かすれた言葉が届いた。
「俺がいなくなっても――」
少し待ったが、続きはなかった。
シトウェルは何か自分を責めるように揃えた膝を見ている。
「ごめん。なんでもない、わす……」
「別に困ることはないから、心配するな」
シトウェルが気に病むことは分かった。
実のところ彼女は良く働く。
新入りの中でも、腕はいまいちだが労を惜しまないことで好かれていた。
だが、こう言ってはなんだが、部下の代わりならいる。
男がいくらでも。
「……そう」
短い返事が返ってきた。
そうか、いなくなるのかと、考えてふと、アーレントは気づいた。
最初に出て行けと言ったとき、いつでも会いに行けるつもりでそう言った。
だが今は――今は。
「……お前は自分と家族のことだけ心配してりゃいい。そうだ」
なんとも表現しがたい喪失感のようなものが胸を衝いたのを感じながら、アーレントはシトウェルを見た。
色素の薄い肌が、いつもよりぼんやりとしている。
気丈な印象はそのままだが、幾段か冷たくなったようにも感じた。
「ほら」
こういうのは辞めるときに渡した方がいいのかもしれないが。
「何、これ」
「餞別だ。少ないが、足しにしろ」
アーレントが差し出した小袋を、中身が分かったのだろう、シトウェルは広げなかった。
金属のぶつかる音が、アーレントより二周りは小さい手のひらの中で控えめに鳴った。
横目で様子を伺う。
シトウェルの瞳が揺れている。
喜ばないことは分かっていたが、怒られないことも予想していなかった。
「……質問していいかな」
「何だ」
「どうして、お金?」
質問の意味を考える暇も与えないほど、まっすぐな視線が刺さる。
「金が要るんだろ」
「その話をしたのはさっきだ」
「……昨日も金の話をしていた。覚えてないのか」
「じゃあどうして、手渡し?」
予定していた答えが返ってきたかのように、シトウェルは続けた。
答えられない。
その質問には、答えられない。
「お前の性格だったら、上から下りる金に適当に色つけんだろ。自分からだって言わずに。
それか、俺の田舎に直接送るか。どうしてこんな、わざとらしく俺に手渡しするんだ」
「何を深読みしてるか知らんが――」
「深読み?」
きっと釣り上がる眉。
シトウェルの全身が尖ったようにさえ感じる。
「浅すぎて反吐が出る。この金は餞別なんかじゃないね。言ってやろうか。
お前の良心に支払ったもんだ。俺にしたことへの侘びだよ」
「……それは」
「図星だろ」
「……それだけじゃない」
「ああ、じゃああれかな」
鼻を鳴らすシトウェルが、虚勢を張っているように見えるのはなぜだろうか。
問い詰められているのはアーレントなのに、追い詰められているのは彼女の方だ。
「気持ち良かったか? だろうな。全然余裕ない感じだったもん」
全くいつもどうりの、年齢も階級も完全無視の餓鬼の言葉遣い。
けれど表情はいつも通りでない。
今にも泣きそうなほど。
直視できない。
「……これは俺にくれたんじゃない」
胸に袋をつき返された。
殴られた気がした。
「俺にじゃない――初客を取った娼婦に払った金だ」
「…………」
肩の筋肉が動かなかったことにほっとした。
シトウェルを怖がらせるのはもうこりごりだ。
「勝手なことを、言うな。誰がそんなつもりで――」
「じゃあ何だってんだ。あ、あんなのってない。ほら見ろ、こことか痣できてる!」
「見せんでいい!」
袖を捲って白い腕を晒したのを慌てて掴む。
唾を飛ばしながらも、アーレントは考えた。
シトウェルの言葉に、驚くよりも腹が立った理由。
手を上げそうになった自分に純粋に驚いてしまったわけ。
「お前なんかだいっ嫌いだ!」
疑問はすぐにかき消された。
シトウェルの長い睫毛が音を立てて瞬き、押しつぶされた涙がはじけた。
「痛かったんだ! 俺はすごく、理不尽な、びっくりして、痛かった!」
支離滅裂な言葉の連なりが、痛々しい。
「……悪かった」
「お前は全然、痛くないし怖くないし! ――俺が居なくても困らないだろうけど!」
語勢はここで一旦断たれた。
もう完全に感情を抑えきれなくなってしまったようだ。
際限なくこぼれる雫が伝う先をアーレントは目で追う。
自分の指の上に落ちて初めて、シトウェルの腕を掴んだままのことを意識した。
「……困らないだろうけど。お、俺は」
「シトウェル」
「俺は、困るんだ。すごく、困るんだ。だって、き、昨日からずっと、悲しくて。ずっとだ!」
「……とりあえず、その、泣くな」
「だったら、そんなに、出て行けばっかり言うな!」
二粒目が中指に落ちた。
指の間に浸み込み、白い方の腕に移った。
それからしたことはごく簡単なことで、要するに、待った。
シトウェルが泣くこと、悪態を吐くこと――それを聞くのはもはや何の苦痛もなかった――や、その他色々、治まるまで。
「なあシトウェル」
泣いたことが恥ずかしいのか、シトウェルは気まずそうな怒り顔を持て余しているように目を合わさない。
時々、のどと肩がこくこく震えた。
目の淵が見事に赤くなっている。
もう数十分もすれば腫れてしまうだろう。
「すっかり忘れていたことがあるんだ」
「……なんだよ」
「怒るなよ」
「だからなんだ」
せっかくの顔が台無しになる前に、それはそれで可愛いとは思うが、とにかく早急に、冷やしてやらなければ。
早急に。
「退役金出るのな、二年目からなんだ」
シトウェルがやっとこちらを向いた。
「……何それ」
「そうなんだ。今辞めたらお前、文無しだな」
「それは……困る。無理、だ」
堪えているような、内側を見せまいとする表情。
アーレントは最初それを新鮮な気持ちでそれを見つめたが、瞬き一回するまでに気づいた。
生意気そうな無表情というのは、彼女の基本状態だった。
気づかないぐらい最初から。
「俺が貸してやりたいが、そんなに裕福でもない」
「貸さ――貸すな!」
アーレントの上着を掴んだ力とは裏腹に、シトウェルの短髪はふわふわと風に揺れている。
「貸さないでいい。俺に貸しを作るな。俺も、作らない。さっきお前が謝ったからあれは忘れる」
さっき、とは、あのどさくさ紛れの言葉をさしたのだろうか。
それではあまりに誠意がないと反論しかけて、だが、できなかった。
「駄目とか言うなよ。もう決めたから。……な?」
縋る瞳にやられる、とはよく聞く話だが、今は彼女の目はそれには当てはまらない。
しなだれかかるような女の特有の臭いが一切取り除かれた嘆願はさっぱりとまっすぐで、男として過ごしてきた彼女らしい。
わざと怒ったような眉の皺が、正確な言葉にされるよりも伝えてしまう。
雑多な事情をすっ飛ばして、そんな表情を浮かべる彼女が好ましいと強く思った。
「……ああ、分かった」
その魅力的な表情から暗い色がはじき出された。
「本当?」
「いや、そういう意味では――まあいい。それもある。分かったから、あと二年はここに居ろ」
大輪の花には遠く及ばない。
ちょっと悪く言えば『儲けた』、または『助かった』といった様子で、シトウェルは微笑んだ。
「……了解! あー、これでチャラに……」
「いいや。もう一つある」
「……あー…… ええと?」
思い当たらないらしい。
少しだけ間を置いて、ごく軽く、シトウェルを睨んだ。
「俺は娼婦なんか抱いた覚えはないが」
手に小袋を持っているままだったことに、シトウェルはやっと気づいたらしい。
あ、と短い声が漏れた。
あたふたとアーレントのほうに押しつけてきたが、無視した。
「あのな、よく聞け。俺にサドの気はない。暴れられたり泣かれたり、相手が心底嫌がってると思ったらできない」
「したくせに」
「そうだ。した。それを、感情なしに娼婦を抱いているのと一緒にされたら我慢ならない。 ……つまり、そういうことだ」
シトウェルが唇を尖らせた。
「そういうことってどういうことだ。意味がわからない」
俺もさっきまで分からなかった。
――とは、言わない方がいいだろう。
問題は『いつ』や『なぜ』ではない。
事実で充分だ。
「なあ、お前頭悪いよ。分かるように説明しろって」
「心配するな。いくらお前の頭が悪くても十八になりゃ分かる」
むしろ、こっちが心配でしかたない。
あと一年と半分、この女のそばでどう過ごせばいいものか。
とりあえずと、アーレントはさりげなくシトウェルの手を取った。
三か月分の給料を入れた袋を回収する。
懐に入れなおす様子をシトウェルがにやにやと見ていた。
「お金持ちですね隊長」
「……まあな」
「あー、お腹すいたなぁ」
あどけない十六歳の顔が、ちらりとアーレントを覗き込んだ。
心配ごとはもう一つある。
どうやって、三年後も傍にいるか。
軍資金が必要だ。
もちろん、飯で釣るなどという馬鹿な話でない。
どうしても我慢できなかったときにだけ、宿代が必要になることは疑いない。
「次の休みまで待て。うまいもんでも奢ってやるから」
「まあそれくらいは当然……痛!」
舌の先まですっかり元気になったシトウェルを小突いて、立ち上がる。
確かに腹が減った。
「昼飯、行くぞ」
アーレントはちょっと足を止めた。
いつもなら絶対二言三言三言、減らず口を叩くはずのシトウェルが静かだ。
「どうした?」
「……なんでもない」
こういうのをまぶしいと言うのだろうか。
振り向いたアーレントの目に飛び込んできたのは、思わず目を細めるほどの代物だった。
「なんでもないよ。うん、ちょっとね、嬉しかっただけ」
関係ないとぞ、アーレントは思った。
次の休みに、早速金が要りようになる気がすることは、シトウェルのくすぐったそうな笑顔とは断じて何の関係もないのだ。
おしまい。