シトウェルは悩んだ。
『おいしいもの』なんて、いいのだろうか。
アーレントとは一緒にご飯を食べに行ったこともあったけれど、それはもちろんワリカン、というか落とせた。
でも今回のは、それは自分がそう言ったからなのだけれど、彼はご馳走するつもりでいる。
昨夜、家に書いた手紙のことを思い出した。仕送りを二割増やすから、それでもどうにもならないなら言えと。
弟たちはきっと大変だろう。お腹一杯食べられていたらいいけれど、心配だ。
「アーレント」
「何だ。食いたいものでもあるか」
シトウェルは一瞬頬を引きつらせた。
満面の笑みだ。正直怖い。
「や、そうじゃなくて」
「何でもいい。好きなものを言え」
「……お前、今日なんか変」
「へ、変? いや俺は何も」
気持ち悪いアーレントは放っておいて、シトウェルは悩み始めた。
これは、やっぱり贅沢ではないだろうか。
お金を払わなくてもいいのはありがたいかもしれないけれど、弟たちが糊口を凌いでいるときに。
なんというか、うしろめたい。
アーレントの袖を引いて、シトウェルは立ち止まった。
「あのさ」
「久しぶりの休暇だからな、俺はその、お前がだな」
「そう、それで、悪いんだけど…… やっぱり……」
こちらから話をふった手前、さすがに言いにくい。もじもじと足元を見ながらの、歯切れの悪い言葉になった。
「こういうのって良くないと思うんだ」
アーレントの返事を待つが、一切の反応がない。
完全停止だ。
「……怒った?」
「い、いや。お前がそういうなら、無理強いはしない。絶対にな……」
「うん、やっぱりね、安いところでいいよ」
「安…… ……もしかして食事の話か?」
「他に何が?」
シトウェルは眉を顰めた。
アーレントは咳払いをした。
「まあ別に、お前がそういうなら構わんが」
そう言ってはいるものの、あからさまに残念そうだ。
なんだか申し訳ない気持ちになる。
ここ数日、アーレントは確かにそわそわしていた。
昨日などとくにひどかった。
目を細めてシトウェルを見て、髪飾りがどうとか服もどうとか言っていたのだ。
まさかとは思ったが、女物の何かを着せたり買ったりするつもりじゃないかと問い詰めたら、あっさり首を縦に振る。
ばれたら終わりなんだから城下町でそんなことが出来るか以下罵りを並べた(だって、あんまりにも不注意だ)が、どうにも納得した風ではなかった。
『だがシトウェル。お前も女の端くれなんだから』
端くれ。
『……ちょっとぐらいそういう格好をしたいとは思わないのか。なんというか、今のお前は不自然だ」
不自然。
『見ていて痛々しい』
痛々しい。
……思い出すと、腹が立ってくるのはなぜだろう。
外見なんてどうでもいいとシトウェルは思う。
目的があって仕事をしていて、その中に男のふりが入っていただけなのに、アーレントはなぜそれを不自然というのだろうか。
どんな服を着ていても、中身は変わらないのだから――
『女のお前の方が、俺は……』
「――アーレント!」
シトウェルは前を無言で歩いていたアーレントの服を引っ張った。
「あのさ、男は嫌い?」
忘れるといったのに、二週間経っても忘れられないことをシトウェルは女々しいことだと感じていた。
最中の一言を思い出すだけで悲しくなる。
会話なんて無かったに等しいが、数少ない一言一言が堪えたから。
出会ってからずっと男だったのだ。これから二年近く、ずっと男だ。
どうしようもない。
「変なこと言うなシトウェル! 今何人か振り返ったぞ……」
きょろきょろ首を振って、アーレントはあたりを窺う。
その様子がすべてを物語っている気がした。
「……そりゃ、誤解されただろうね」
「だろうねって、お前なあ…… 何が言いたい?」
「もし俺が普通の格好で歩いてても、あいつら振り返ったかな」
言って、シトウェルは後悔した。
急速に気分が沈んでいく。
アーレントの意味を図りかねたというような顔をしている。
それはそうだろう。
男の格好をしていたら好きじゃないかと聞く前に、女の格好をしたシトウェルを好きだとは誰も言っていない。
また、思い出してしまった。
あれは無理矢理な、『そういう性質』の行為だったと分かっているのだが。
口づけをするのも嫌だったのだろうか、と思うと。
「……ごめん、なんでもないよ。忘れろ」
「お前、何か言いたいことがあるならきちんと……」
「ないって。だから忘れろ。食うのと寝るのと忘れるの、得意だろ?」
昼日中に、こんな湿っぽい空気を出してどうするというのか。
せっかく仲直りして、やっと元通りだと思ったのに、全くならない。戻らない。
シトウェル自身、鬱々と溜め込んでばかりいる自分に嫌気がさしていた。らしくない。
無理矢理笑顔を作って高いところにある肩を小突いた。
「あのな、昼飯はいつもの店で割り勘にしよう。代わりにお菓子買ってほしいな。日持ちするやつ」
これならいいだろう。いつもの休暇のように一緒にいる口実が出来て、弟たちもきっと喜ぶ。
ちょうど右手に、焼き菓子の店を見つけた。指をさして先を歩く。
「男一人じゃこういう店入りにくいんだよな」
「二人だと余計にむさくるしいと思うが」
「じゃ、お前外で待ってろ。会計のときだけ呼んでやる」
アーレントは店の看板を眺めた。猫をあしらったクリーム色の可愛らしいものである。
「この下で待つのはなぁ……」
「だったら早く来い」
目的のお菓子はなかなか買えなかった。あれもいいこれもいい、でもそんなにたくさんは悪いと、かれこれ一時間以上焼き菓子屋を梯子した。
シトウェルの目の前の卓には胡桃の入った大きなクッキーが入った紙袋が鎮座している。
この贈り物を見たときの家族の顔を想像して、シトウェルは頬をほころばせた。
「ありがとう。きっと喜ぶ。俺も嬉しい。ありがとう」
「……そうか」
クッキーだけではない。
もう一つのお菓子の、バターのいい香りが部屋中に広がる。
「食べていい?」
「食ってから聞くなよ」
「おいしい!」
宿屋で食え、とアーレントがマドレーヌを手渡してくれたのはもう空も茜に染まった頃だった。
おいしそうだと言ったのを聞いていたらしい。
物ほしそうな態度だったかと恥ずかしくなったが、単純に嬉しかった。
甘いものは好きだが、そう頻繁に食べられるものではない。
でもどうして宿屋、と聞いた彼女に、兵隊さんがマドレーヌ食ってるところを見られたら情けないと言われた。
そんなものかと納得した。
たしかに部屋の中のほうが落ち着いて食べられる。
最初に目に飛び込んできた寝台に引かなかったわけではないのだが、気にしているように振舞うのもアーレントに悪い。
彼は謝って、マドレーヌを買ってくれた。
それで十分だ。つまりおいしいのだ。
「隊長も一個、どうですか?」
アーレントは何をするでもなくこちらを見ている。
そういえば自分ばかり食べていたと思い、シトウェルは一応聞いてみた。
「いや、いい。全部食え」
「じゃあ半分食う」
「気を使うな」
「あー、違う、半分は帰ってからの分」
きっちり三つ、お腹に入れたシトウェルは心底幸せだった。
結局アーレントは終始(五分だ)シトウェルを見ていただけで、暇そうだった。
もう帰ってもおかしくは無いがもったいない気もする。
足をぶらぶらさせて、窓の外を見ると、橙の空に紫の雲がたなびいていた。
鳩が飛んでいる。
平和だ。
「シトウェル」
久しく(五分だ)口を開いていなかったアーレントが名前を呼んだ。
間食中はともかく、マドレーヌをプレゼントしてからの彼は口数少ない。
「うん? マドレーヌはもうやらないよ」
帰ってすぐ一個、風呂の前に一個、風呂の後に一個。余分は無い。
「味見ぐらいは許せ」
「んー……」
ないが、一口ぐらいなら分けてやってもいいだろう。
今日はとても楽しかった。
「分かった、待っ……」
シトウェルは紙袋に手を突っ込んだ。
卓越しに、アーレントが身を乗り出した。
取り出そうとしたマドレーヌ達は、床に落ちてしまった。
「んっ……ちょ、っと、味見ってそれ違……ふ……っ……」
この――このやろう。
視界がなくなって、唇に柔らかいものが触れた瞬間の混乱といったらない。
それがキスだと分かって、あの時はしてもらえなかったものだと分かって、最初に思ったことが嬉しいだなんて。
絶対に言えない。
「……ん……っは……」
唇の裏をくすぐるように、舌が侵入してきた。何をしてるんだこの馬鹿と思う間もなく前歯の間から口腔に入り込む。
「マ……てな…っ……」
甘い、と囁かれた気がしたから、マドレーヌは残っていないと言ったのだが、これで伝わったら奇跡だ。
簡単にこちらの舌を篭絡された。
自分のものではない味がする。とても近く、アーレントの匂いがする。
口の中、舌が逃げようとしても執拗に追いかけてくる。
生き物みたいに動くそれをアーレントの分身みたいだとシトウェルは思った。
おかしい。だんだんと――捕まえられるために逃げているような気分だ。
身体が熱い。
息も上がってきた。
いつの間にか、椅子は倒れてシトウェルは壁にもたれるように立たされている。
そうだ。立たされている。
ふわりと舐められた上あごから身体の中心へ、溶けるような感覚が走る。
頭を抱えられていなければ、腰から崩れ落ちそうだった。
「シトウェル……」
ようやくアーレントが離れた。
無意識にアーレントの背中を掴んでいた手を慌てて離し、大きな身体を押しのける。
だらしなくおとがいの脇を流れた唾液を拭った。
恥ずかしかった。
「い、いきなり。騙すなんて」
「俺らは騙していくらだと思っていたが。それに味見は嘘じゃない」
「今は非番だ!」
ずるずると落ちかけた身体を何とか持ち直し、シトウェルは出来る限り敵意を込めてアーレントを睨みつけた。
「……わかっていたことだが、我慢できん」
再び重なった唇は最初よりも濡れて、少し冷めていた。
「んふ…っ…あ、だ、駄目だって…!」
無骨な手が裾に侵入してきてやっと、これまで回らなかったことに考えが及んだ。
アーレントはいつから――いつからこういうことを企んでいたのだろう。
宿屋に案内するときに?
違う。
どこかで離れたくないと思うのを追いやって、頭を振った。
アーレントが離れた。
それだけは前のときと違ったが、それがなんだというのか。