司の兄は、恐ろしく矛盾した人間だ。
整った容姿と不要な物事には徹底して興味を示さないクールさを持っている一方、
のめりこんだら一直線、ヲタク道を邁進し、妖しい趣味に没頭する日々を過ごしている。
「今日は友達と遊ぶんでしょ? 」
「うん。ついでだから司乗せてくわ。目的地が近いみたいだし」
そんな兄は実に簡単に母をだまし、司を車に乗せて隆也の家へと向かう。
ヲタクのくせに一般人の彼女がいるのはぶっちゃけこの外面のよさのせいだ、と司は思っている。
「で、その先生の家ってのはどこなんだ? 」
「あー、あそこ。春に新しいショッピングセンターできたでしょ。あれの近く」
「んじゃ何か買ってくか。手ぶらで行くのもなんだろ」
兄の常識人らしい申し出に、司は肝を冷やす。
そのショッピングセンターには司の通う高校の生徒も良く来る。知人に見つかるのは嫌だ。
ことにこの、外面ばかり良い兄と一緒にいるのを見つかるのは嫌だ。
兄のことは好きだが、それとこれとは別問題なのだ。
「い、いや、いい。要らない」
「要らないって。お前はそれでいーかもしれないけど、俺はそうもいかねーだろ」
「いや、ほら、逆に先生も気ぃつかっちゃうだろうし? 先生もほら、緊張してるだろうから……」
なんだか理由になっていないが、意外と簡単に兄は折れた。
「まぁ、緊張はしてるかもしれないけど……そうだな、じゃあ趣味でも聞いておくか」
変な方向に折れた。
「趣味? 」
「共通の話題があればあった方が良いだろ。俺のほうが歳も近いわけだし」
社交性のあるんだかないんだかわからない兄だ。
どうせ自分はヲタクだというのに趣味を聞いてどうする。と、思わないでもないが、素直に答えておく。
「えーと……三国志とか、戦国時代とか、あの辺の歴史が好き。あとは……家に置いてある漫画はソレ系のと
あとはJOJOとドラゴンボールと……」
「お。JOJO好きか。なら会話もできるな」
司は、いや無理、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
たしかに家に全巻置いてはあるが、兄と話せるレベルではない。
兄のJOJOトークの熱さ・深さはヲタクのそれとしか思えない。
ことに司や隆也のように三部最高!な一般人にはなじみの薄い一部・四部の話をされてもついていけない。
いけないし無理なのだが、今日はとにかく兄の機嫌を損ねたくない。
「ん、まぁ……そう、だといいね」
曖昧な返事をした司の様子には一向に構わず、兄はどこまでもマイペースに話を続ける。
「ときに司」
ときに、って普通は使わないよなー、と司が兄の痛さを細かいところで認識している間に、話は進む。
「お前先生って呼んでるのか? 」
「そうだけど……それがどーかした?」
「いや。まだ名前も聞いてないし」
「あ、そっか。三宅隆也。24歳、だったはず」
「……7つ、か」
その数字を、司は何度も数えた。
その大きさに打ちひしがれたことも何度もあるが、表立ってそれを口にした事はない。
しても何も変らないし、変わりようがないのだから。
「俺とは5つ違いだな。うん。まぁ普通に話せるだろ」
その自信はどこから湧いてくるのだろう。
表面上、簡単なあいさつくらいなら普通にできるだろうが、そのあとは甚だ怪しい。
しかし願わくば、普通に話して、何事もなく終って欲しい。きりきりと司の胃が痛み出した。
痛み出したことなど知らない兄は、どこまでもわが道を行く。
「そういやお前サラシ巻いてんだよな。夏場暑くねーか? 」
「暑いけど……どしたのいきなり」
「いや、知り合いのレイヤーが男装するのに胸潰すのがめんどくさいとか何とか言っててな
話によると男装用のシャツがあるらしいぞ」
「マジで!? 」
レイヤーという単語に一瞬肩を落とした司が、おもいっきり話にくらいつく。
「うん。性同一性障害の人向けだから多少値は張るらしいが、だいぶ目立たなくなるらしい」
信憑性のある話だ。思わず自分の胸をなでて、司はため息をつく。
「いいな〜。ぶっちゃけサラシ巻くのも面倒だし綺麗に潰れないんだよね……」
「司でもか? 」
心底意外そうに問いかける兄に、思わずしかめっ面を作る。
「……何、その言い方」
「いや、別に胸でかくもないから」
核心をつかれた。
司自身は別段胸を大きくしたいと思っているわけではないが、こう言われるとやはり多少は気になる。
ついでに、以前隆也のパソコンを勝手に開いて見つけた妖しいファイルの中身に巨乳が多かったのも気になる。
気になるというか気に食わないというか、一種頭に来る。
「うるさい! これでもまだ成長してるんだから! 」
「いや悪い。そうか。まだ成長してるんだな」
あまり反省していなさそうな謝罪にそれでも一応は不機嫌を直す。
「当たり前でしょ。俺まだ17だよ? 」
「……そうだな」
微妙な間に、司はいぶかしげな視線を投げる。
それに気付いているのかいないのか、兄は急に黙り込んで運転に集中しはじめた。
それでも司が重い空気を感じなかったのは、BGMが(多分)アニソンだったからだろう。
間もなくして、車は隆也の住むマンションの駐車場に到着した。
車を止めた兄はふいに司に問いかける。
「その三宅先生の車、どれかわかるか? 」
「え〜と、あそこのシルバーの……」
「よし」
言うなり隆也の車に向かって歩き出した兄に驚き、司も後を追う。
「ちょ、ちょっと、何? 」
兄は隆也の車の中を無遠慮に見渡している。
「いや、車を見れば人柄も想像がつくかと思って」
「止めてよ、完璧不審者じゃん! 人が見てるって! 」
「別に犯罪犯してるわけじゃなし、いいだろ」
「良くない! ほら、先生も待ってるんだから早く行くよ! 」
痛い。やっぱり痛い。
しかしこの痛い行動が、一心に妹を心配する気持ちからきていることを考えると、一概に怒れもしない。
「む……仕方ない、諦めるか」
ようやく諦めた兄の手を引いて、司は階段へと向かう。
隆也の部屋の前で足を止め、兄を振り返る。
「ここ。その……できるだけ、普通にね」
「わかってるって」
本当にわかっているのかと問いただしたくなるような気軽さで、兄はインターホンを押す。
少しして聞きなれた足音が聞こえ、ドアが開く。
「あ」
と短く声をあげた隆也は、幾分緊張した笑顔で二人を出迎えた。
「どうも」
「どうも。あがってください」
「おじゃまします」
一言ずつ、実に簡単な挨拶を交わして、男二人は家の中に入る。
司はゆっくりと深呼吸をしてから、それに続いた。
「あ、そちらにお座りになってください」
兄より年上のはずの隆也が敬語を使っているせいか、どうも司は居心地が悪い。
いつもは隆也と並んで座るソファに、兄と並んで腰掛ける。
「すいません、手ぶらで。こいつが要らないって言うんで」
「あぁ、気にしないで下さい。あ、今お茶煎れますから」
まだ一言も発していなかった司が、隆也より先にすっと立ち上がる。
「あ、俺が煎れる」
隆也が妙な顔で司を見上げ、腰を上げる。
「いや。今日は司とお兄さんはお客さんだからな。俺が煎れる」
「でも……」
「いいから座ってろって」
不服そうな司を残して隆也はキッチンに消え、司は仕方なしに腰を下ろす。
「意外とちゃんとやってるんだな」
ふいに兄の口から出た言葉に、司は首をかしげる。
「何が? 」
「いや、女の子らしいこともさ」
「……そういう教育されてきましたから」
司の言葉を受けて、兄は幼少期を思い出す。二人の母親は割合古い考えを持っていた。
女はたとえ仕事を持つにしても家事ができなければいけないし、
長男は嫁をもらって家を継ぐのが当然だと考えている。
兄はそれでも別に不満を感じることはなかったが、どうも司はそれがいやで仕方なかったらしい。
兄は、司が男装をする理由は親への反発だと思っているし、実際それも理由の一つだ。
「それもそうか」
大人しい兄の様子に司は安心しかかったが、それでもどこか不安で兄の様子を横目で探る。
兄の視線は部屋の中をぐるりと見渡している。
「綺麗な部屋だな」
「綺麗好きだから。お兄ちゃんと違って」
先ほどの仕返しとばかりに言う司の台詞にはちっとも堪えた様子もなく、兄の眼はせわしなく動く。
「むしろさっぱりしすぎてる気がするんだが……」
「まぁ、ここはね。向こうの部屋は資料とかいっぱいあるから、ここよりはごちゃごちゃしてるけど」
「そうか……教師だしな」
その単語にひっかかるのは、誰でも同じことらしい。
自分たちの関係が、ことによれば低俗なゴシップ記事になりかねないことも、司はわかっている。
わかっていて続けているのだ。
「まぁ、ね」
その考えが伝わったのか、兄は口を閉ざした。
隆也は客用のカップを二つと、いつぞやの対のマグカップに紅茶を用意した。
どうせならいつもどおりにしてくれればいいのにと、不満そうな顔をした司だったが。
「 」
短く声をあげかけた司の様子に、兄は気付かない。隆也が使っているのは、普段司が使っている方のカップだ。
隆也と目が合うと、にこりと笑みが向けられる。すると何故だか急に恥ずかしくなって、司は俯いた。
お客様扱いに不満そうな司に気を使ってわざとこんなことをしたのか、
それとも単純に間違えて照れ隠しで笑ってみせたのか、それもわからないけれど、何故か恥ずかしい。
「えぇと……申し送れました。三宅隆也です
司、さんの担任で……七月から、お付き合いをさせていただいています」
「あ。司の兄の、高槻佑です。今大学一年です
先生のことは司から聞いてます。といっても、俺も細かいことは何も聞いていないんですけど」
先生、と言われて隆也は微妙な表情を浮かべる。
改めて、自分の教え子と大して歳の変らない相手にかしこまっている現状を認識した。
しかしこの年下の男は、あくまで司の保護者代理なのだ。
「それで今日は、どんなご用件で」
司は口を挟めず、じっと二人の会話を聞いている。何か息苦しい。
「失礼ですが……」
「はい」
改まった切り出し方に、隆也も緊張した面持ちになる。
「三宅先生は、JOJO好きと聞いたんですけど」
「は? 」
「……お兄ちゃん! 」
間の抜けた声をあげる隆也にこれ以上兄の本性を見せたくなくて、司は横の兄を小突く。
「いいから本題! 」
「む……なんだ、せっかく友好ムードを演出してやろうとしてるのに」
「いらないから! っつーかむしろひくから! 」
必死で止める司に、なにやら兄はぐずぐずと「でも」とか「しかしだな」とか言っている。
このままでは埒があかないと、司はなおもせっつく。
「そもそも俺もお兄ちゃんが何しに来たのかわかってないんだから、早く教えてよ」
「まぁ、そうか。つーかアレだ。ようするに責任とれるかどうかっつーのを問いただしに来たんだ、うん」
この流れであっさり口にすることではない。
ほほえましい(?)兄弟の会話と流し聞きしていた隆也も、思わず居住まいを正す。
「あります。司がその気なら、結婚しようと思ってます」
これもまた、司に言う前に、しかもこんな流れで口にすべきではない台詞だ。
「せ、先生っ! 話飛びすぎ! 」
予期せぬ告白に頬を染めた司が声をあげても、横の兄は落ち着いたものだ。
「いや、飛んでないぞ。責任取るっつーのはそういうことだ」
「だ、だってお兄ちゃん、俺まだ17だよ!? 」
「17でも女だ」
「司、嫌か? 」
ふいに隆也に声をかけられ、司は言葉に詰まる。
「いっ……嫌じゃない、けど……先生もひどいよ……こんな……」
当事者のくせにすっかり蚊帳の外状態の司は、おもいきり眉をしかめる。
悪い、と思わず反省した隆也の後は、しばらく沈黙が続く。
それぞれの視線が下がり、口をつけたカップの中身は温くなってゆく。
その長い沈黙を破ったのは兄だった。
「……司。お前は女だ。結婚もできる歳だ……先生と、何もしてないわけじゃないだろ? 」
「……」
司も隆也も、返す言葉がない。
「男はもちろん、女もそれなりの覚悟が必要なんだ。お前にその覚悟はあるのか?
お前のせいで先生が職を失うことになってもかまわないって、そう思えるのか?」
俯いた司が顔を上げようとした瞬間、隆也が口を開いた。
「そういうことについては、司の方が心配してくれてるんです。俺の方が、考えが浅いくらいで……
でも、覚悟はあります。何があっても、司と一緒にいます」
しっかりと兄と視線を合わせて語る隆也の言葉に、司は胸が熱くなる。
自分といるときの隆也はどこか余裕の対応ばかりしていて、こんなに真剣な表情は中々見られない。
それだけに、想いの確かさが息を詰まらせる。
けれど隆也に全責任を負わせるわけにはいかない。震えそうな声を絞り出す。
「俺だって、覚悟はしてる。何があっても先生と離れたくないし、誰に何て言われても……離れない」
あらためて決意を口にする司の潤んだ瞳を見据えて、兄は口を開いた。
「……そうか。わかった。じゃあもう俺がどうこう言うことじゃないな」
お兄ちゃん、と司が呟くのにかぶせるように、兄はさらに言葉を続ける。
「ただし。ばれないように……は、司も気を使ってるだろうからいいか
先生。できるだけ早いうちに、親にも会ってください」
司の台詞に浸っていた隆也が、慌てて膝に手をつく。
「あ、はい。その……司が卒業するときに、って考えてたんですけど……」
「それで充分です。その、うちの母親は司にちゃんと女として幸せになって欲しいらしくて
問題はあるでしょうけど、きっと喜ぶと思うんです。親父も……うん、まぁ、そんな感じで」
微妙なぼかし方がなんとも言えず隆也を不安にする。
だいたいこういう場合は父親の方が気難しかったりするものだ。
「あ、えーと……じゃあ、頑張ります」
「はい。で、JOJOの話なんですけど」
「お兄ちゃん! 」
思わずつっこむ司にかまわず兄は話し始め、隆也も面白半分に司を置き去りにして話に乗る。
しかし拗ねた司が勝手に台所に向かって隆也のマグカップで紅茶を飲み始める頃には、
隆也は司兄のトークの深さについていけなくなっていた。
引き気味の隆也と司を相手に、兄一人が満足げにしゃべり終わった頃には、秋の短い日はとうに傾いていた。
「さて。それじゃ俺は失礼します」
腰を上げた兄に付いていくように司も立ち上がり、それを見送ろうと隆也も腰を上げる。
玄関まで歩いて唐突に兄は振り返り、司の鼻先に指を突きつける。
「お前は残れ。食器ぐらい片付けていけ」
「え? 」
思いがけぬ言葉に目を丸くして立ち尽くした司に満足げな笑みを向け、兄は靴を履きドアを開ける。
「お邪魔しました。こいつ、よろしくお願いします」
「あ、は、はい……」
どこまでもマイペースな兄には実の妹も教師もついていけず、呆然とその背中を見送る。
ドアが閉まってしばらく後、隆也が口を開く。
「気を使ってくれた、のか? 」
「……わかんない。多分そうだと信じたい」
うーん、と額を抱える司を後ろからふいに抱きしめて、隆也は笑う。
「ま、どっちでもいいか。夕飯くらい食っていってもいいだろ? 」
「うん」
笑みを浮べた司は、これからのことを考える。
これから、夕飯を一緒に食べて、月曜日には学校で笑みを交わして、また週末には、ここで話をして。
穏やかな日々が続くことが、どこかで当然のように思えてきた。
「先生」
「ん? 」
「ずっと、一緒にいようね」
「うん。ずっと、だ」
甘い空気に浸る二人から少し離れたところで、兄は一人隆也の人物評定を下していた。
「司がいるとできないからな。うん。部屋も車も片付いてるし、嘘はついてないだろ
俺のようなヲタクでもなし職業も安定してるし、問題ないな」
駐車場で、近所の方々の不審な目に晒されながら。