「そうか。君がそう言うなら私に止める権利はないな」
目の前で不遜な態度で腕組みして頷く少女に、エルヒアは実に落ち着き払った声をかけた。
「あぁ、世話んなったな。けど、もともと長居をする気もなかったし」
それに応じてもっともらしく言うアルトの台詞に、エルヒアの周囲に仕えている兵たちが胸をなでおろした。
彼らにとってアルトはよそ者でしかなく、エルヒアの命でしぶしぶ置いていたに過ぎない。
それなのに彼女と来たら、食べたいだけ食べたいものを食べ、彼らの用意した着物も着ず野伏の格好でうろつき。
そのうえ兵士たちにつっかかっては煙に巻いたりと、正しく好き放題の振る舞いだったのだ。
その手に余る客人が、ようやく出て行くという。
彼らにとってはさぞ嬉しいことだろう。
「まぁ、そんなわけだ。――と、これは礼だ」
す、と一歩踏み出したアルトの手には、細かな細工の施されたなめし皮が握られている。
控えめに光を受けて、褐色の手の内にあるそれは一瞬でその場にいる者の視線を独占した。
「礼にはおよばないが、これは――」
その、何にも加工されていないなめし皮にひかれて、エルヒアも一歩踏み出す。
「暇だったからな、少し手を……何か適当なものを作って、ロスエルにでもやってくれ」
アルトはエルヒアとは目を合わせず、彼の視線が向かうべき物を差し出す。
そこには、館の周囲に生える草花が、実に細かく彫りこまれていた。
目を移して、端から端まで見つめても、その全てがありのままの姿を写しこんだように生き生きとしている。
エルヒアが感嘆の溜息を漏らすのを聞いて、アルトは気まずそうに視線を泳がせた。
何もかも完璧にこなして常に鷹揚としている彼の感嘆の声は、人を喜ばせるよりもむしろ恐縮させてしまうのだ。
「これじゃ宿代にもなりゃしないだろうが、何もしないのは俺の気がすまないし――」
「ありがとう」
エルヒアの耳障りのいい声を聞いて、ようやくアルトは顔を上げる。
そうしてようやく、笑顔を見せる。
「おう。世話になったな。もう会うことはないだろうけど、アンタのことは忘れないよ、常緑の若君」
一瞬、エルヒアの返答が、所作が、遅れた。
「――ああ。私も忘れないよ。アルト」
ことさら美しく、優しく名前を呼ばれたことに不快そうな顔をして、アルトはきびすを返した。
そうして振り返ることも声を発することもなく、常緑の館を後にした。
薄暗い部屋の奥に、男がいる。
ほとんど日の指さない部屋で、男の周りには淡い光がただよっている。
ふわふわと、揺れるその光は彼自身が求めて呼び出した、ちいさな精霊たちだ。
彼らが照らすのは、彼の手元の分厚い書物。
そこに記されている文字は簡素でありながらどこか面妖な雰囲気を醸している。
それは彼らが長い間使ってきた、そして今では読める者も限られてしまっている古い文字だ。
彼はその文字を、文章を、その奥に隠されている意味を、一つ一つ紐解いている。
形の良い唇は薄く開き、音を発する手前で息は止まる。
ふわふわ、ふわふわと舞う光の精たちに照らされて、口と、目と、頁をめくる手以外は彫像のように動かない。
静かに静かに、ここ数日の無作法な客人が巻き起こした喧騒など忘れたかのように。
ふと、その彼の耳が震えた。
人間よりも鋭い聴覚が、彼の元に近寄ってくる足音を聞き分けたのだ。
「お兄様! お兄様!」
聞こえてくるのは、愛らしい妹の、どこか切迫した声。
瞬間、ぞっと背筋を寒いものが走り、光の精を消す。
手元の本を彼らしくない手つきで乱暴に本棚に戻し、扉を開ける。
「お兄様!」
ロスエルのただでさえ白い肌は常より白く、血が通っていないようだった。
穏やかな空気をまとわせて、午後の木漏れ日のように人を安心させるロスエルとは思えない。
「何か――」
言い掛けたエルヒアの声も遮って、ロスエルが悲鳴に似た声をあげる。
「アルトが、アルトが戻りませんの」
エルヒアを見上げる彼女の頬からは、幸せな薔薇色が消えている。
ただならぬ気配はわかるが、エルヒアには状況が飲み込めない。
「何を……彼女は、もう」
「違います、違うんです! 私が、アルトに頼んで……私のせいで」
震える瞼の奥には溢れんばかりの涙が波打ち、それを隠すように細い指で顔を覆う。
俯く頬に金の髪が垂れて、表情を隠す。
震える細い肩に手をかけ、エルヒアは自らに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「落ち着きなさい、ロスエル」
ぱっと、ロスエルが顔を上げる。
「アルトは、ツリガネ草の渓谷に」
その瞬間、エルヒアは走り出していた。
書庫の前で呆然と立ち尽くしたロスエルはしばしその背中を見つめていたが、
やがて糸が切れたように崩れ落ち、きつく、ひたすらに、両手を合わせた。
――どこだ、ここは。
ぼんやりとあたりを見渡すが、明かりがないそこでは物の判別もつかない。
ただ、彼女は横たわっていて、その背が当たる感覚から行くと、岩肌もむき出しの、洞窟の中のようだった。
アルトの頭は重かった。いや、頭だけではない。腕も足も、全身が重く、思うように動かなかった。
なぜこんなことに、と記憶をたどっているうちに、異様な匂いが鼻をつき、掴みかけた記憶がよみがえる。
オークの匂い。渓谷でその匂いに気づいたとき、彼女は極めて不安定な体勢だった。
匂いに気付くより先に足音で何かの気配を感じてはいたが、それが何者なのかを判別することはできなかった。
普段の彼女ならば、足音に気付いただけで身を隠し、相手を見分けるくらいの慎重さを持っていた。
しかし、彼女はそのとき、あることに集中していて、それどころではなかった。
そうしてやっと匂いをかぎ分けられるくらいの距離になって、それがオークだと気づいたのだ。
それでも相手が1人なら、彼女の相手ではなかった。だが、運悪く、相手は2人いた。
振り向きざまに長剣を突き出し、相手の鼻先を掠めたまでは良かったが、その後が悪かった。
2太刀目を浴びせようと踏み出した足を不格好なこん棒で強打され、態勢を崩したところで、後頭部を狙われた。
それでも彼女は崩れ落ちることはなく、鋭い眼光で相手を射抜き、再び長剣を振るおうとして、鳩尾に一撃を受けた。
同時に恐らくは、頭を打たれたのだろう。
そこから、記憶がない。
自分の置かれた状況を把握して、アルトはわずかに頭を振り、手足の間隔を取り戻そうとした。
だが、動かない。
これはただ打撃を受けただけで動かないのではない。
何らかの薬物か、方術の類か。力ではどうする事も出来ないもので、彼女の自由は奪われていた。
しかし彼女は、殺されてはいない。それだけがたったひとつ、残された希望だった。
「……なぜ、だ」
小さく、呟くことはできた。この程度は体を動かせるらしいと確認しながら、アルトは必死で考えを巡らせた。
オークは好戦的で残虐な性質をもつ。
普通ならばおそらく、あの場で嬲り殺されていただろう。
それが何故、こうして自分は生きているのか。ご丁寧に体の自由を奪われ、なおかつ生かされているのか。
考えられる理由は、ごくわずかだ。
さらに長い時間をかけて嬲り殺すためか、あるいは――
「おきた、な」
耳に付いたのは、低く、くぐもった声。わずかに動く顔をそちらに向けると、醜いオークの姿があった。
松明を持った先頭のオークが、後ろに続いた数人のオークに顔を向ける。
「おれが、みつけた。おれが、さいしょだ」
その言葉の意味を反芻しながら、近づくオークの悪臭に吐き気を覚える。
体の自由さえきけば、目の前の足をけり飛ばして、頸椎に一撃をくらわせて、と考えを巡らすアルトに、オークの手が伸びる。
だが、それは彼女の予期したような打撃ではなかった。
黒く汚れた手は、彼女の衣服をはぎ取った。
「っ!」
力任せに衣服を破り捨て、彼女の褐色の肌を露にする。
それを阻止するように腕を振ることも、身体を捻ることも、脚を閉じることも叶わない。
ひやりとした岩場の感触が、そのまま寒気に変わった。
「て、めぇ……」
出せる限りの声を、憎しみをこめて絞り出し、真紅の瞳を向ける。
だがそれは、何の抵抗にもならない。
松明の明かりに裸体を照らされ、オークたちに嘲笑うような目を向けられた彼女は、無力だった。
頭が沸騰しそうな怒りと、屈辱と、そうして、全てから逃げてしまいたくなるような、恐怖。
目の前のオークどもをどうやって倒してやろうかなどという先ほどまでの考えは、もうどこにも残っていなかった。
オークの手が彼女の胸を這い、腹を伝い、秘所をまさぐる。
悪臭を放つ舌が胸をはいまわり、おぞ気が背を走る。
「くそ、やめ、ろっ!」
喉の奥から吐き出す声も、彼らにとっては愉快な効果音でしかない。
後ろで見ているだけのオークたちが、肩を揺らして笑っている。
そうして、アルトに覆いかぶさっているオークがにたりと笑う。
「おまえ、しょじょ、か?」
目の前に迫る醜い顔にそう言われ、血が逆流したように感じて、唾を吐きかける。
「うるせぇっ!」
叫んだ彼女に、それでもオークは笑う。
「えるふの、はだ、きもちいい、な」
そうして彼女の腕をとり、自分の股間を触らせる。
その行為のあまりのおぞましさに、アルトの肌が粟立つ。必死に力を込めて自制しようとしても、彼女の思い通りにはならない。
生暖かい感触のそこを無理やりにいじらされ、それが徐々に硬くなっていく感覚まで、否応なしに知らされる。
「う、おお、お、て、きもち、いい」
耳障りな声が、間近に発せられる。
彼女の手の中でオークのそれは固くなり、先走りを垂れ流し始める。
彼女なりの必死の抵抗は何の意味もなさず、声は嘲笑を誘い、どうすることもできないその身体が、劣情に火をつける。
アルトの手で自らを高めていたオークは、息を乱し、ようやくアルトの手を解放する。
そして彼女の腰をつかみ、引き寄せた。
何の準備もできていない秘所に宛がわれたそれは、どくどくと脈打っていた。
「や――」
彼女が声を上げようとした瞬間、オークは勢いよく自らを突き立てた。
未開の肉体は異物を拒み、ひきつれたような痛みをもたらした。
それはまさしく、肉体をえぐられる痛み。
肉を、皮を、無理やりに引きずり出され、押し込まれる。
切り傷の痛みとは違う、病の痛みとも違う、生々しく、激しく、痛みという表現では生ぬるい痛み。
そして、それまで誰にも侵されたことのない、身の内を侵される屈辱と、怒り。
「……っ」
声を上げれば幾分かは和らげられただろう、その感覚を、しかし彼女は受け入れた。
逃げることはもとよりかなわない。
だが、諦めることはさらに、彼女のもとめるものではなかった。
ぎりぎりと歯を食いしばり、激痛を怒りに変え、瞬きもせずオークをにらみつける。
それでも。
繰り返される行為は痛みを増幅させ、彼女の息を乱し、耐えがたい時間は長く、より長く感じられる。
単純な、獣の動作が続くうちに、彼女の眼はときおり力を失いかけ、声を漏らしそうになり。
それでもなんとか、自分を保ち続けていた。
「う、うう、でる、ぞ」
言って、感覚の薄れた彼女の体内で其れが脈打ち、熱いものが放たれるのを感じた。
強烈な吐き気を催し、けれど無様な姿は見せられないと、歯を食いしばる。
ずるりと、引き抜かれた汚らわしいものとともに、生暖かい粘液がこぼれ、腿を伝う。
アルトの頭の片隅には、思い描きたくもない未来が浮かんでいた。
日毎このオークどもに蹂躙され、いつかその子を身ごもってしまうのでは。
そう考えると、気が遠くなるようだった。
「つぎは、おれ、だ」
その悪夢を裏付けるように、先ほどまで後ろにいたオークがアルトに歩み寄る。
相変わらず、体は動かない。
――あぁ、俺は、このまま――
絶望に心を侵されそうになったとき、ひゅん、と空気を裂く音が聞こえた。
はっとして視線を上げると、その音の正体が目の前にいたオークの頭を貫いていた。
どさりと、巨体が崩れ落ちる。
「そこまでだ」
よく通る、耳触りのよすぎる声。
そこにわずかに怒りの色をにじませて、淡い光を身にまとい、弓を手にしているのは、間違いなく。
「……える、ひあ」
思えば、彼女が彼の名を呼んだのは初めてだった。
突然のことにオークたちはざわめきたち、統制も取れぬままエルヒアへと襲いかかる。
矢をつがえていては間に合わない。
アルトが息を飲む間に、彼は腰にさした剣を手に取り、オークに切りつける。
さらにその後ろに控えていたオークの喉元を貫く。
狭い洞窟の中では多勢で囲むこともできず、次々とオークが倒れてゆく。
それはあまりにも鮮やかに、鬼気迫る勢いで。
彼女を盾にしようというところまで頭の回る連中ではなかった。
気づけば、最後のオークが地に伏していた。
これで、アルトとエルヒアの間を遮るものはない。
彼女の、あまりにもみじめな、ひどい有様を、ようやく彼は直視した。
服は引きちぎられ、足の付け根には凌辱の証が残っている。
その表情はもはや生気が抜けたようで、呆けたように彼を眺めるその瞳からは、涙がこぼれていた。
「……来る、な」
歩み寄る彼に気づいて、口を衝いて出た言葉はそれだけだった。
「来るな!来るなっ!」
あまりにも自分がみじめで。
彼女にとってはどうあってもいけすかない、この男に助けられなければならないことが。
この男を驚かすためだけに、浅はかなことをした自分の愚かさが。
男のようにふるまっていた自分が、女として最悪の状況にいることが。
それを、この男に見られることが。
しかしそう拒否をされても、彼女自身が動ける状況でないことは、彼にはすぐにわかった。
とっさにエルヒアは自分のマントを掛け、膝を折って彼女に確かめる。
「……動けるか?」
ひどく冷静な声で問われると、叫ぶことも愚かに思えて、息をのむ。
「…………っ」
微かに首を横に振る様子を見て、迷いなくアルトを抱き上げる。
腕もろくに動かせない彼女の体は重く、きつく結ばれた唇の端からは血がにじんでいた。
その様子から、彼女の自由を奪っているものの正体を推測し、エルヒアは対策を思い浮べる。
足もとに転がるオークの骸に目もくれず、彼は足早に洞窟を抜けた。