エルヒアの館の周囲は非常に環境がいい。
木々は活き活きと葉を茂らせさわやかな風にこずえを揺らし、小鳥のさえずりに重なって耳をくすぐる。
陽射しを適度にさえぎった木陰に腰を下ろして、アルトは真っ赤に売れた果実にかぶりついた。
木の根元にはふかふかしたコケが生い茂り、本当に環境がいい。
「けど、やっぱ」
口を手の甲でぬぐって、アルトは舌打する。
「……いけ好かない。どいつもこいつもしけたツラしやがって」
せっかくの美声で呟いて、種と芯だけになった果実を投げ捨てる。
見かけるエルフたちは皆たおやかな衣を身にまとい、実に優雅に館の中を、あるいは森を歩いている。
美しいとしか形容できない彼らの所作はアルトには見慣れたものではあったが、好ましくもなかった。
僅かに口元に浮かぶ微笑や、自分の行儀の悪さに目を見開く様子、侮蔑を含むひそやかな会話。
「……フン」
慣れている。だが、それでもやはり気に障る。
立ち上がり、森の中を歩く。何か面白いものはないかと真紅の瞳が動き、とがった耳が音を拾う。
たん、と乾いた音が聞こえた。
聞き覚えのある音だ。獲物を取るための道具の音。野伏せりの生活に慣れたアルトはそう判断した。
ただしこの乾いた音は、獲物をしとめた音ではなく、そのための修練の音。
「あの見回りの奴らか? 」
自分を捕らえた武装したエルフの姿を思い出し、ちょっと冷やかしてやろうと足を向ける。
弓の扱いなら慣れているし、実践で鍛えた腕には自信がある。
髪をくくろうと頭に手をやり、昨日自分で切り落としてしまったことに気付く。
「……くそ」
そして思い出すのは、エルヒアのキザったらしい言い様。
思わず眉間に皺を寄せ、わけのわからないわだかまりを発散しようと修練所と思しきところに足を踏み入れる。
話し声は聞こえず、ただ矢を番え、放つ動作の音だけが聞こえる。
一人なのだろうか。
そう思い目をやると、そこには美しい衣の上に胸当てをつけた――
「エルヒア」
呟いたアルトの視線の先で、矢が的の中心に吸い込まれた。
吸い込まれたと、そう感じた。
「……あぁ、客人。昨夜はよく眠れたかな? 」
いつの間にこちらに気付いたのだろう、エルヒアが笑みを向けている。
「――まぁな。久方ぶりのベッドはそれなりに気持ちよかったけど」
惚けていた。その羞恥が肌に出にくい種族でよかったと、心底思う。
「けれど? 何か不満があったかな? 」
歩み寄るエルヒアに、口のはしを吊り上げてみせる。
「ホワイトローズの匂いは邪魔だな。むせるようだった。アンタの趣味か? 」
「あぁ、妹が好きなのでな。気を利かせたつもりだったのだが、気に入らなかったならすまない」
優雅なことだ、と言いかけて、アルトは話題を変えた。
「妹がいるのか? 」
「年は離れているがな。ロスエルというんだ。機会があれば会ってくれないか?」
微笑みかけるエルヒアの表情はどことなく今までとは違うようだった。
そんな顔をさせる妹を見て見たいと、思わないでもなかったが。
「……俺みたいな奴とアンタの妹じゃ、話が合わないんじゃないか?」
しり込みするアルトに、エルヒアは変らず微笑を浮べて話し続ける。
「いや。あれは外に興味があってね。君のように旅をしている人間なんかは格好の餌食だよ」
そう言われては、特に断る理由もない。
もともとあまりの待遇のよさに、少々居心地が悪くも感じていた。
一つくらい頼まれてやってもいいだろうと、手を組んでそっぽを向く。
「フン……別に、暇だし付き合ってやってもいいけど」
なら頼もう、と弓矢を片付けながらエルヒアは言い、その姿にアルトは改めて違和感を覚える。
けれどそれが何なのかはよくわからないまま、彼女は白い館の一際美しい部屋へと足を踏み入れた。
ゆるくウェーブした腰より長いプラチナブロンドが、ベッドの上に優雅な文様を描いている。
細く長い睫毛に縁取られた鳶色の瞳はきらきらと輝いてアルトを見つめて、薄紅の唇が動く。
「それで? そのお魚はどうなさったの?」
その声はか細いソプラノで、フルートの音のように響く。
「どうって、そりゃ食ったさ。適当にコイツでさばいて、焚き火で焼いてね」
アルトが手元の使いこまれたナイフをくるりと回すと、ロスエルは大きな目をさらに大きく見開く。
「まぁ! そんな大きなお魚じゃ、一人じゃ食べきれませんでしょう?」
「余った分は塩漬けにして干物を作るんだ。いい保存食になる」
天蓋つきのベッドであぐらをかいて笑うアルトの言い様に、ロスエルは気恥ずかしそうにうつむく。
「私、本当に何も知りませんの。そういったことは全部、お話や本から知るばかりで」
「いーんだよ、それで。あんたにゃここが似合ってるし、外は危ないし」
こんなデカイ虫がでるんだぞ、と身振りを交えて脅かすように言うと、さらに目を瞬かせる。
「でもアルトは、一人で旅をしているんでしょう?」
「ま、そりゃそうだけどな」
どこか得意げなアルトに、ロスエルは心底心配そうな表情を向ける。
「危険なことがたくさんあるんじゃありませんの? 最近はオークもよく現れると聞きましたわ」
「オークねぇ……奴らの寝床はだいたい決まってるからな、近付かなければどうってことはない」
実際、アルトは長旅の中でオークの寝床がありそうな場所には近付かなかった。
相手が一人なら負ける気はしなかったが、群れに立ち向かうのは確かに危険だ。
それを避けて通らなければならない自分の弱さがはがゆく、眉間に皺がよる。
「そうですの? でしたら安心ですわね」
しかし心底ほっとした声を出して胸をなでおろすロスエルに、笑みを向けてみせる。
「あぁ。あんたのオニイサマが心配するほどたいしたことじゃない」
どこか棘のある言い様に、ロスエルは一瞬目線を落とし口を閉ざす。
オークに襲われるのではないかというエルヒアの過ぎた気遣いへの不満が声に出てしまった。
しまった、と口を開きかけたアルトより先に、ロスエルは顔を上げる。
「そう、お兄様は心配性なんです。私のことを大事にしてくださるのは嬉しいけれど……
私が沢に下りるのさえいちいち報告させて、誰か人をつけなければ気がすまないんです」
薄紅の頬を膨らませて、弱弱しい声をほんの少し荒げて言うロスエルは。
「……ぷっ」
申し訳ないが、可愛らしい。少しも怒っている感じがしない。
「アルト! なんで笑ってますの。ひどいですわ」
「いや、悪い」
言いながらもアルトは自分の口を覆い、肩を震わせている。
頬を膨らませたままのロスエルは、視線を落とし、不機嫌そうに黙り込んだ。
それは子供の仕草のようで、アルトは一瞬エルヒアの気持ちがわかったような気がした。
彼女はどこまでも愛らしくて、子供のようで、保護欲をかきたてられるのだろう。
じっと鳶色の瞳を見つめると、ふいに見つめ返されて、たじろぐ。
「な、なんだ」
「アルトこそ。人の目をずっと見て」
「いや、怒ってるのかな、と、思って」
真紅の瞳が泳ぐ。
だが、視線を泳がせても映るのは慣れない繊細な装飾の施された部屋で、落ち着かない。
「怒ってませんわ。ただちょっと、残念に思っただけです」
今度は鳶色の瞳が泳ぐ。それを、真紅の瞳が追う。
「残念?」
「そう。アルトなら、私の気持ちをわかって、手伝ってくださると思ったのに」
横を向いてクッションを抱いたロスエルの瞳が、ちらりとアルトの様子をうかがう。
とがらせた桃色の唇は、同性から見ても充分愛らしい。
そうして、保護者の口出しに抗いたい気持ちもわかる。
「あー……手伝ってやらなくもない、ぞ。俺に出来ることならさ」