「アレン」 彼はいつでも、笑顔を浮かべている人だった。 「もしも俺かアレンのどっちかが死ぬときは、俺の本当の名前を呼んで欲しいんさ」 そう言った時も笑っていた彼は、こうなることに気付いていたのだろうか True Name Allen side カラン、と指でいじくっていたコインが、バランスを崩して倒れる。触れる支えを失った指先は宙に一瞬漂い、力をなくしてぱたんと机の上に落ちた。その小さな音さえも誰もいない談話室には空しく響く。片頬をテーブルにつけ、横転した世界の中にいるアレンはその姿勢のまま溜息をついた。手が動かない、足も動かない、まるで背中に大きな石が乗っているかのような気だるさ。その感覚にもう既に自分がコインを摘み上げる気力すらなくしていることを知る。 ここは教団の談話室。時計を見上げればその短針は12の目前、窓の外を見れば太陽など欠片も見えるはずがない。その時計と漆黒の闇は、日付が変わる寸前ということを表していた。この時期の夜の冷え込みはひどい。 アレンの部屋は狭く暗く、不気味なものがたくさん置いてある。壊された前の部屋の代わりに食堂に近いその部屋を分け与えてもらったが、そんな部屋にいるとどうしてもマイナスの方向にばかり走りそうで、まるでこの世界の中にたった一人だけ命をもっているようなそんな言いようのない寂しさに駆られる。そんな場所よりは、この談話室のような広い部屋の方が落ち着くのだ。 アレンはまた溜息をつき、さっきまで弄くっていたコインを無造作に落とす。ちゃりん、という高い金属音が耳につき、澄んでいるはずのその音でさえひどく耳障りに聞こえた。そしてまた、無音の世界が訪れる。だれもいない、ただ在るのは闇の静寂と闇の空気と、胸にぽっかりと穴が開いてしまったような虚脱感。いっそ泣くことが出来るのならどれだけ楽だろう、そんなことを考えてもまるで哀しいという感情が欠落してしまったみたいに、ただその喪失感が全身を支配する。 その時、静寂を二つの声が優しく破った。 「あ、……アレン、くん」 「………ち、テメェもか」 喪失感の原因となっている声と同じくらい愛しい2つの声。だがその虚脱感と喪失感のせいで身体が上手く動かないアレンは、重苦しい空気の中でゆっくりと首を上げ談話室の扉に向けた。そこには声から推測できた通り、リナリーと神田が立っていた。2人ともアレンと同じように毛布を抱えている。リナリーに隣に行っていいかを言葉にせず首を傾げる仕草だけで尋ねられ、アレンは弱々しく笑って同じく無言で返事をした。リナリーと神田はゆっくりゆっくり、その重い空気の中を歩いてきてアレンと同じソファーに座る。こんな時でも最低限のプライドは守るのか、神田は少し2人と距離を置いて。 「……どうしたんですか?」 「………アレンくんだって」 「僕は、その、……自分の部屋にいたくなくて」 「私も。神田もよね」 「………うるせ、」 否定の言葉ではない神田のそれは肯定を示している。そうですか、とアレンは口の中だけで呟いてそれきり黙った。リナリーも神田も口を閉ざし、また闇の静寂が談話室に訪れる。 ラビが、教団を裏切った。 レベル1のアクマを破壊するというごく簡単な数時間で終わるような任務から、2日経っても5日経っても帰ってこなかったのだ。連絡も通じない、ただその任務場所に、ラビ専用の団服と対アクマ武器だけを残して。アクマに殺されたという説もあったが、それにしては服がコートだけというのはおかしいし戦い慣れしたラビがそのような失態を起こすこともあまり考えられなかった。それ故探索部隊も動員してラビの捜索まで始めたのだ。 そして一週間ほど経ったあとに、捜索に出ていた探索部隊の1人が、その任務先から遠く離れた国境も越えるような場所で2人のノアを見つけたらしい。 ノアは探索部隊に気付かず親しげに話していたためその探索部隊は殺されずに済んだのだが、その代わりにあまりにも酷なものを見てしまった。 そのノアのうちの一人は、黒い髪をオールバックにした長身の青年。そして彼と話していたのは、くせのある赤い髪、眼帯で覆われた右眼、澄んだ翠の瞳、イノセンスの適合者として探索部隊に尊敬されているエクソシストの一人であった、ラビ。その額には、ノアの一族の証である聖痕が刻まれていたのだ。 その報告を思い出して、アレンは思わずきゅっと掌を握った。痛いくらいに腕に爪を立て、ぎり、と歯を食いしばり、言葉にしようのない悔しさと寂しさと疑問と痛みと哀しさに苛まれながらそれでも涙の出ない自分に嫌気が差す。ここで泣いてしまえばどんなに楽かはもう十分に知っているのに、涙腺は頑なにそのポジションを守ってくれている。いっそ壊れてくれた方がいいのに。 「………なんだ、おまえらか」 痛みを含んだ静寂の空気がまた破られ、3人はゆっくり扉の方を見た。そこにいるのは眼の下に濃い隈を作ったリーバー。日頃の疲労に加え、リーバー自身も弟分のように可愛がっていたラビの裏切りに彼も精神をすり減らしている。 「そろそろ自分の部屋に戻って寝ろよ。いきなり明日任務でも入ったら、どうするつもりだ」 「………自分の部屋で、眠りたくないの」 か細い声でリナリーはそう言った、静寂に満ちたその部屋の中では小さな声でも全員の耳に届く。アレンと神田も首を縦に振りはしなかったが、何も言わないことで同意を示した。リーバーは小さく溜息をついた。リーバーは彼らが精神面で衰弱しきっている理由を当然知っている、だから強気には出られない。ラビの裏切りによって衰弱しているのは自分も同じだから、その痛みを完全にとはいえなくても知っているから。 「……そうか。ならこの部屋でもいい、3人とも、少しでも睡眠を取れよ」 リーバーはそれだけ言って、まだ仕事をしているらしい科学班の研究室の方へ戻っていった。そしてまた痛みの静寂が訪れる。 黙っていても、考えることは3人一緒だ。明るい笑顔、特徴的な口癖、ムードメーカー的役割であった彼。いつでも笑顔を絶やさず、本当に太陽のようで、アレンも神田もリナリーもそれぞれに、彼を心の拠り所としていたのだ。そしてその大切な場所が、どこかへ消えてしまった。 最早哀しいとか辛いとか、そんなものを全て通り越して、全身を支配するのは脱力感。喪失感、虚脱感、ラビがそこから消えてしまっただけで、ぼくはこんなにも、こんなにも、 「アレン」 耳に心地良い声が耳の中で反響する。もしかしたらその声を聞くことはもう出来ないのかもしれない、もう過去の日常のように名前を呼んでもらうことは出来ないのかもしれない、もうあの笑顔を見ることは出来ないのかもしれない、もう彼に、会うこともできないのかもしれない。たとえ会えたとしても、殺しあわなくては、いけないのかもしれない。 戦争が終わったら4人でどこかに行きたいね、と、理想の未来を夢見て幸せな計画を立てたこともあった。リナリーや神田の出身国、アレンが大道芸で回った場所、ラビがログとして滞在した場所、全部行ったら何度生まれ変わっても足りないよってくらい、たくさん。それでもいつか、任務じゃなく旅先で出会った人をアクマと疑う必要もないときに、4人で行けたらいいねって話し合って、それでもつっぱる神田をアレンとリナリーとラビの3人で笑いながら。 「………ラ、ビ」 リナリーの普段は凛と鳴る声が、弱々しく独り言のようにその名前を紡いだ。その青みがかった黒の瞳は涙で潤み、つぅ、と血の気の失せた頬を涙が伝う。掛けてあげる言葉は見つからなくて(彼女も何か言葉を望んでいるわけではないだろう)アレンも神田もじっと俯いたまま、彼女のように素直に泣けない自分をもどかしく思いながら。 そして教団の時計が12時を示し、柔らかく静かな鐘の音が日付が変わることを知らせる。リーバーの言うとおり、そろそろ眠っておいた方がいいかもしれない。眠気の波は穏やかすぎて、眠る気にはなれないのだけれど。 「……少し、眠りましょうか」 それでも静かにアレンが問うと、リナリーは細く白い指で慌てたように涙をふき取り頷いた。だがアレンがソファーの背もたれに体重をかけると、きゅっとリナリーがアレンと神田の掌を包み込む。冷え切ったリナリーのその手は、カタカタと微かに震えていた。アレンが驚いてリナリーの方を見たがリナリーの顔は俯いたリナリーの髪に隠れ表情は窺えない、だがその震えから彼女がなにかにひどく怯えているというのは伝わってくる。 「アレンくん、神田………。ここで一緒に眠っても、いい?」 今にも泣き出しそうな、不安げな声。アレンが優しく、大丈夫ですよ、と声をかけると、リナリーは少しだけ顔を上げて安心したような笑みを口元に浮かべた。隣にいる神田は何も言ってこない、神田の無言の肯定だろう。神田だって精神が衰弱しきっていることには変わりないし、リナリーの手を払いのけるほど冷酷な人じゃない。むしろ、不器用ながらも彼は優しい人なのだから。 アレンは自分の掌を包んでいるその小さな手に、もう片方の掌を重ねた。イノセンスの宿る左手、彼が捨てた神の欠片が宿る左手。それを考えると無性に虚しくなる、この欠片こそが、自分と彼を繋いでくれたものだったのに。それを彼は、自分から、捨ててしまったのだから。 「ゴメンね……怖がりで、泣き虫で……。こうしてないと、神田もアレンくんも、どこかに消えちゃうんじゃないかって思えてくるの……」 「消えませんよ、大丈夫。僕も神田も、ここに、いますから」 「………絶対、だ、よ………?」 瞳いっぱいに涙を溜めて、それでもリナリーは笑みをアレンに向ける。アレンも優しく、リナリーを安心させるように微笑んで頷いた。リナリーは二人と手を繋いだまま潤んだ瞳を閉じ、ゆっくりと夢の世界へおちていく。ちらりと神田を見れば、神田ももう目を瞑っていた。だが寝息は聞こえなくて、ただ目を閉じているだけというのがすぐわかる。アレンも眠れる気はしなかったが、とにかくきつく眼を閉じた。 風にいたずらに揺れる紅い髪、謎めいた眼帯、常に爛々と輝く翠の隻眼、笑顔。 どれもこれもが懐かしくて仕方ない。 どれもこれもが愛しくて仕方ない。 それでも、どれもこれもが、憎まなければならない存在なのだ。 (07.10.13 Remake) |