何度も心の中で謝った。本当は貴方のそばを離れたくなかった・・。何よりも大切な人。命をかけて守ると誓った人。そして・・俺に「愛している」と囁いてくれた人。
たった1つの大切な約束 (前編)
「誰だ!」
フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムの良く通る声があたりに響いた。
その声に思わずコンラッドは苦笑いを一瞬だけ顔に浮かべ彼らと対峙するような形で姿を現した。
霧はまだ濃く彼らの姿は見えない。
そんな中、沙耶は辛そうに顔を歪めてからぽつりとその名を呼んだ。
「・・・コンラッド」
「え?」
沙耶が呟くと同時に霧がさぁっと晴れていく。
そこには大シマロンの軍服をきたウェラー卿コンラートが無表情のままたっていた。
「コンラッドっ!!」
ユーリがはっとしたように叫びヴォルフラムとヨザックが同時に剣を抜く。
「陛下、下がって。」
沙耶もまたユーリの肩をつかんで後ろに下がらせる。
「沙耶さん!?」
ユーリが驚いたように叫び沙耶の手をふりほどこうとしているが沙耶はそれを許そうとはしなかった。
ユーリの肩をつかむ手にぎゅっと力が入る。
やがてコンラッドが口を開いた。
「ここは危険です−。」
凛として良く通る声。
「兵がいる。迂回してください、抜け道があります。今のうちに」
その言葉に沙耶はぎゅっと拳を握りしめた。
いつもの人の良さそうな笑みではないほとんど無表情に近いコンラッドの顔。
それが何を意味するのか・・。
ヴォルフラムの剣を持つ手に力が入る。
「・・・ヴォルフラム・・」
その様子に気がついた沙耶はユーリから手を離すとヴォルフラムの剣の柄の部分に手を置いた。
「サヤ・・・」
「ヨザック、ヴォルフラム、剣をしまって。今は・・彼からはこちらに斬りかかってくる気配を感じないから。」
「師範、何を言ってるんですか!彼はもう−−・・・!」
ヨザックが納得いかないように沙耶に囁く。
しかし次の言葉が出てこなかった。
『敵です。』
その言葉はあまり残酷すぎて・・皆の心を重たくしてしまうから。
「大丈夫・・。もし斬りかかってきたりしたら・・その時は私が・・」
そういうと沙耶がユーリを背中に隠すようにしてコンラッドを見つめる。
穏やかではない会話を聞いてユーリはばっと顔を上げコンラッドにむかって叫んだ。
「・・・コンラッド!一緒に行こう、眞魔国へ帰ろう!」
「いえ、俺は行けません。」
冷たい突き放したような言葉−。
沙耶の肩をつかんでいたユーリの手が微かに震えている。
「どうしてっ!!」
それはユーリの心からの叫びに聞こえ沙耶も表情を硬くした。
「・・ユーリ陛下・・」
「俺の主はもう、貴方ではないのです」
−ユーリの身体が大きく跳ねた気がした。その漆黒の瞳はすぐに傷ついた色に染まっていく。
「・・・っ!」
ヴォルフラムの拳にギュッと力が入り微かに震えていた。
−『裏切り』−
彼だけはしないと信じていた。
彼は何があっても魔王陛下と共にいるとそう思っていた。
だからこそ皆の動揺は大きい。
「次にあった時は俺は・・本当に貴方の敵です。」
さらなるコンラッドの残酷な言葉を聞きユーリの身体から力が抜ける。
「陛下っ!」
「渋谷!」
それを後ろの気配で感じ取った沙耶と隣にいた村田が慌てて支える。
「・・ごめん・・大丈夫・・。」
抑圧のない声でユーリがそう呟いた。
コンラッドはそれを一別すると踵を返し再び霧の中へと消えていく。
少し離れたところで馬のいななきが響いてくる。
こちらに兵が待機しているというのは本当のようだ。
「確かに迂回した方が良さそうだ。急ぎましょう、閣下。」
コンラッドの姿が見えなくなったのを確認してから鞘に剣を収めながらヨザックがヴォルフラムに話しかける。
しかしヴォルフラムは凍り付いたかのように動かなかった。
その瞳は困惑と絶望・・そして悲しみに縁取られている。
「閣下!」
ヨザックがもう一度声をかけるとヴォルフラムがはっと我に返り頷く。
「あぁ・・そのようだな」
その時、沙耶がユーリを支えていた手を離した。
「ヨザック、ヴォルフラム・・・先に行ってて。」
「・・・え?」
その予想外の言葉にヨザックがいぶかしげに眉を潜めた。
「師範・・。何を考えてるんですか?」
「・・・いいから。あとで必ず追いつくから。陛下を・・」
その問いには答えずに沙耶は踵を返す。
「サヤ!・・まさか・・コンラートのあとを追うつもりか!?」
ヴォルフラムがはっと気がついたようにそう叫ぶが沙耶はそれにも答えずに歩いていく。
「・・・大丈夫。あとで合流しましょ?心配しないで」
そういって微かにこっちを見て微笑んだ瞳には何かを決意したような強い光が宿っていた。
ユーリ達のいる場所から少し離れた場所。
コンラッドはそこで自分に与えられた馬の元へ足を進めていた。
(ユーリ・・・)
さきほど自分がいった言葉に傷ついた光を宿していた漆黒の瞳が忘れられなかった。
あんな顔をさせたかったわけじゃない。
(貴方を傷つけることなんかできない。一番愛しい人だ・・。誰よりも何よりも・・。そして命をかけて守ると、今度こそ守ると決めた大切な人。)
『俺、コンラッドが大好きだよ、何よりも大切に思ってる。・・愛してるから』
いつかの情事のあと、コンラッドのベッドで耳まで真っ赤に染めながらユーリが囁いた言葉。
『俺も愛してる。ユーリの事が誰よりも何よりも大切だよ。』
そう答えたのは自分だった。
それなのに・・・ッ!
「・・・ユーリ・・ユーリっ!!」
コンラッドが拳をギュッと握りしめる。
その手は微かに震えていた。
その時だ、さくっとまだ新しい雪を踏みつけるような足音があたりに響いた。
「っ!!−−師範」
いつのまにかうつむかせていた顔を上げコンラッドがその名前を呼ぶ。
そこには漆黒の髪を風になびかせ感情を感じられない瞳の沙耶が立っていた。
「・・嘘だったんだ?」
沙耶は抑圧のない声でそれだけ呟く。
「・・・え?」
「『ユーリのことは俺が命をかけて守ります。魔王陛下だからだけじゃなくて俺はユーリを愛しているから。大切に思っているから。だから守るんです。』」
沙耶が小さく紡いだ言葉にコンラッドの肩が大きく跳ねた。
「・・・コンラッド、覚えてる?貴方は私にそういったよね?でも、それは・・嘘だったんだ?」
「嘘じゃない!」
とっさにコンラッドがそう答える。
「・・・だったら・・何故・・?・・何故、貴方は彼のそばにいないの!?何をしてるのよ、貴方は!!」
「それは・・・」
そう言葉を濁すコンラッドの顔を見て沙耶はそれ以上言葉を発することが出来なくなった。
いや驚きのあまり発せなかったのだ。
いつも柔らかな微笑みを称え随分男前といえる好青年。
しかし、今はその薄茶色に銀色の光彩を散りばめた瞳が濡れている気がしたから。
その綺麗な顎のラインにそって水が・・−涙がこぼれ落ちたように見えたから。
「コン・・・ラッド!?」
沙耶はその光景に思わず言葉を押し込める。
コンラッドが生まれてからずっと武術の師範としてそばにいたが沙耶がコンラッドの涙を見たことは皆無に等しかった。
20年前−ジュリアが死んだ時でさえ彼は泣かなかった。
ただ死んだ魚のような瞳をしていただけだった。
一瞬、見間違えかとも考えたが彼の瞳からはゆっくりとだが涙がまた一粒こぼれる。
「・・・っ・・!」
すぐにコンラッドはばっと沙耶に背を向けた。
しかし、その肩は・・・握りしめられている拳は・・
−小さく震えていた−。
「すいません・・師範・・。」
「・・・例え・・・」
沙耶の凛とした声があたりに響く。
「例え・・・他の誰が裏切っても・・。コンラッド、貴方は・・貴方だけは・・ユーリ陛下を裏切らないと・・ユーリ陛下のそばにいると私はそう信じていたわ。」
コンラッドは振り向かずに拳を握りしめているだけだった。
沙耶はそれを見ると小さく溜息をつく。
「・・・ユーリ陛下は貴方のために・・泣いていたわ、何度もね・・。私たちの前では気丈に振る舞っていたけど貴方を心配して、貴方を失ったかもしれないと・・・っ。・・お願いだからこれ以上、ユーリ陛下を悲しませないで。あの方の涙はもう、見たくない。」
それだけ言うと沙耶はくるりと踵を返して歩いていく。
「サヤ師範・・・」
沙耶が去ったあと、コンラッドは灰色の雲がたれ込めた空を見上げていた。
空からは真っ白な雪が降り続いている。
その雪を見ながらコンラッドは瞳をそっと閉じた。
−全てを覆い尽くしてくれ。この気持ちも・・・思いも。少なくとも今だけは・・・−