炎色反応 第三章・31
「忘れていません。今後もう二度と、決して、決してあなたには逆らいません」
ティスは床に這いつくばったまま、額をその床にすり付けた。
現在のイーリックは自分をさらい、愛をささやきながら散々に犯した男だ。
例え彼の命を助けることが出来ても、昔のような清い関係にはもう二度と戻れはしないだろう。
分かっているけれど、だからといって死んでいいなどとは思えない。
「お願いします。お願いします。お願い…」
右手にいきなり重圧がかかった。
オルバンが足を踏み出し、手の甲を踏みつけて来たのだ。
「う……っ、お、お願い、します…」
身長も体格も一回り違う男に、体重をかけて踏まれている。
骨の砕けそうな激痛に顔を歪めながら、ティスは繰り返した。
「お願い……、どうか、オルバン様…、ご主人様、お情けを……」
緩慢な動作でティスは、自分の右手を踏みつける足に顔を近づけた。
革で編まれた丈夫な靴の、泥だらけの表面に服従の証の口付けをする。
さっき出来たばかりの傷にも泥が付いて、ちりちりと痛んだが構っていられない。
「お願いします。その人を、お助け下さい…」
頼む内、オルバンの足からすっと力が抜けた。
ティスの頭を避けるように持ち上がった足が、今度は頭の上に影を落とすのを彼は感じた。
同じ力で頭を踏まれる。
予測される痛みにぎゅっと目を閉じ、ティスはもう一度繰り返した。
「……オルバン様。どうか、どうか、一度だけオレの願いを聞いて下さい」
震えながら祈るようにつぶやいて、どれぐらい経っただろうか。
オルバンの足が、何を踏むこともなく床に降りる。
彼は挙げていた手も降ろし、その拍子にイーリックを戒めていた水の力も消えたようだ。
苦しげにイーリックが咳き込むのにはお構いないしに、オルバンははっと顔を上げたティスを見下ろしている。
金の瞳の奥に炎を宿し、火の魔法使いは厳かにこう言った。
「二度と、オレに逆らうことは許さないぞ」
「はっ……、はい、はいっ」
「こんな幸運が、またあると思うな」
「思いません。感謝します。ありがとうございます…!」
不必要なぐらいこくこくと首を縦に振りながら言うと、彼は静かにその場に膝を折った。
衣をたなびかせた腕がティスの上を行き過ぎ、裾から浄火が零れ落ちる。
イーリックが短く声を上げたが、火はティスの体中の汚れを舐めつくして床に沈み込むように消えた。
続いてオルバンは、先ほどティスの頬に付けた傷口に手をやった。
レイネのものだった青い石がその指で光る。
オルバンがついと傷口をなでると、それはあっけなくふさがってしまった。
驚く暇もなく抱え上げられ、慌てるが、逆らわないと誓ったばかりだ。
痛む右手をのろのろと庇いながらおとなしくされるがままになっていると、オルバンは壁際のイーリックに近付いた。
咳き込むことこそもうないものの、茶の瞳には隠せない恐怖がある。
同じ世界で生きる同じ形をした生き物でありながら、この絶対の差。
怪物の手の中から奪い取った果実を、誇らかに食い散らかした愚かさに背筋が震える。
「感謝するんだな、人間。こいつの一生のお願いと、それを聞き入れてやれるオレの寛大さのおかげで助かったんだ」
抑揚のない声でそう言うと、オルバンは腕の中のティスをうながした。
「さあ、こいつが今後どうするべきなのか教えてやれ」
「ティス…」
さすがに名を呼ぶ以外出来ないらしいイーリックを、ティスはわずかな間黙って見つめた。
「……オレは死んで、生まれ変わって、このオルバン様のものになりました」
びくりと揺れるその瞳をまっすぐ見下ろし、言い切る。
「あなたは村に帰って、みんなにそう言って下さい。そして二度と、オレたちの前に現れないで下さい」
言い切って、ティスは目を閉じてオルバンに身を寄せた。
オルバンは今の台詞に満足したようだ。
くっと喉を鳴らし、黒い衣の裾を翻して悠然と部屋を出て行く。
怪しげな従業員たちには話は通してあるのだろう。
誰に止められることもなく、ティスはその腕に抱かれて宿を後にした。
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