炎色反応 第三章・32



***

イーリックがティスを連れて来た宿のあるこの街は、村の一回り大きいものといった風情だ。
時刻が時刻であるため周囲には誰もいない。
オルバンは下半身に何もつけていないティスを抱いたまま、レイネの青い指輪を輝かせた。
何の変哲もない地面から突然水が噴き出す。
ティスが驚いていると、オルバンは小さな噴水のような水の上に一歩足を踏み出した。
ふわりと視界が持ち上がる。
噴水の上に乗れただけでも驚きなのに、二人はそのまま街の外に向かって進み始めた。
「これは…」
「飛水(ひすい)。水の魔法使いがよく使う、移動用の魔法だ」
思わずティスが漏らした言葉に、オルバンは前を向いたまま淡々と答えてくれた。
その腕に抱かれたまま足元に視線を落とせば、まるで小川のような水流が自分たちを乗せて流れているのが分かる。
いい加減魔法使いのすることには慣れたつもりだったが、ティスは大きな瞳をぱちぱちさせてしまった。
やがて、街を離れた二人は森の中の打ち捨てられたような小さな小屋の前に辿り着いた。
オルバンが飛水から一歩足を下ろすと、二人を乗せていた小川は地に染み込むようにして消えてしまう。
ティスを抱いて中に入ったオルバンは、二つあるベッドに積もったごみや獣の糞を火で浄化した。
汚れを落としてしまえば、建物自体は案外丈夫らしくこれといった破損はない。
一晩宿として借りるには十分すぎるぐらいだ。
隣り合ったベッドの一つに下ろされる。
このまま抱かれるのかと思ったが、オルバンはあっさり離れて隣のベッドに入った。
室内の明かりはない。
半開きの窓から漏れてくる星明りだけが唯一の光源だ。
やっと、一人。
きれいになった布団に潜り込み、誰にも触れられていない体を自分で抱き締めると今になって震えが来た。
涙が目の奥からにじみ出る。
何が悲しいのかよく分からないけれど、後から後からあふれて止まらなかった。
間違っても泣き声など漏らすわけにはいかない。
だから毛布を噛み、きつく目を閉じていたのにばれていたようだ。
「泣くのをやめろ」
オルバンの声が聞こえ、びくっとして上半身を起こす。
隣のベッドのオルバンが、同じく体を起こしてこちらを見ているのが分かった。
「泣くな。うっとうしい」
冷ややかな言葉を吐く端整な顔立ちの中で、金の瞳が静かに燃えていた。
思えば彼に会ってから、違う意味では散々鳴かされては来た。
でもこんな風に、胸が痛くて泣きじゃくったことはなかったように思う。
「申し訳ありません…」
なんでも言うことを聞くと誓った。
それでイーリックの命を取らずに済ませてもらえたのだ。
ただちに涙を止めなければならない。
ティスは必死に目元をこすり、それでも止まらないため布団を掴んでごしごしやった。
だが止まらない。
涙腺が壊れてしまったのだろうか。
止めなければと焦れば焦るほど、どんどんあふれてくる。
オルバンが小さく舌を鳴らしたのが聞こえた。
「このオレ様が、お前ごときの願いを聞き入れてやったんだぞ」
苛々したようにつぶやいた彼の右手が上がる。
びくっと身をすくめたティスの濡れた目を、赤い光が射た。
火の精霊の指輪が、巨大な力を生み出す指輪が輝き始めている。
――とうとうオレも殺されるんだ。
冷たい戦慄が背筋を走った。
ティスは元々、オルバンに特別な理由があって選ばれたわけではない。
彼の機嫌が悪い時にたまたまそこを通りかかり、気慰みにと連れて来られた。
容姿とか、…淫乱の素質だとか、そういったものを気に入られているからここまで連れ歩かれただけ。
自分たちの関係は、最初からオルバンの気まぐれ一つにかかっている。
とっくの昔に飽きて、殺されてしまっていてもおかしくなかったのだ。


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