Don't Leave me ・1



のどかな田舎町を少し外れた、人気のない丘の上を少し伸び過ぎた髪をなびかせた少年が息せき切って駆けていく。
初夏に相応しい半袖のシャツからすんなり伸びた手を大きく振って、彼は顔いっぱいの笑顔でこう叫んだ。
「ジラルドさーん!」
嬉しそうな声で名を呼びながら、駆け寄ってきた少年に丘の上にいた濃い銀髪の男はかすかに唇を緩めた。
裾の長い黄土色の衣に身を包んだ、息を飲むほどに冷たく美しい顔立ちの青年である。
しかしその表情はお世辞にも豊かとは言えず、寡黙で自ら言葉を発することも少ない。
それは生まれついての性質でもあったが、周囲の環境によるものも大きかった。
今は前髪の下に隠れた額の中央には、忌まわしき第三の目が隠れている。
魔奏者(まそうしゃ)と呼ばれる古い一族の血を引く証であり、古の契約に従って魔物を召喚しその意で自由に操れるとされていた。
そのため普通の人間からは嫌われ、こうして人里離れたところでひっそりと暮らしている。
孤独なその人生の中、唯一彼を恐れず他と分け隔てなく接してくれる人間。
それが危ないところを偶然救って以来、子犬のようにジラルドに懐いている少年・アシェンだった。
「おはよう、アシェン」
「おはようジラルドさん。はい、これ。キドニーパイ、好きでしたよね」
にこにこと邪気なく笑う少年の手には、布の被せられたかごがある。
ジラルドは切れ長の赤い瞳でそれを見て、それからゆっくりとアシェンの澄んだ青い目を見た。
少しだけ上を向いた鼻が愛らしい、ごく普通の少年である。
それほど整った容姿を持っているわけではないが、小動物のような無邪気さでかたくなだったジラルドの心を優しくほぐしてくれた。
そんな彼に、ジラルドは何気ない風にこう言った。
「嬉しいが…………いいのか、アシェン。昨日も来たばかりじゃないか」
「そんな、気にしないで。僕がジラルドさんに会いたくて来てるんですから」
素直なその言葉に一瞬だけジラルドは何か言いたそうにしたが、黙ったまま手を伸ばしくしゃりとその淡い栗色の髪をなでた。
「食べて行くか?」
「はい」
それは嬉しそうにアシェンは笑った。
裏のない笑顔を少しまぶしそうに見てからジラルドは彼を伴い狭い家の中に入る。
茶の用意を始めた家主の側で、アシェンは少々危なっかしいしぐさでキドニーパイを切り分け始めた。
一見素知らぬ風な顔をしながら、その実ジラルドは第三の瞳でアシェンをじっと見つめていた。




キドニーパイを食べながら、アシェンはいつものように他愛のない話をする。
「……でね、荷物が泥水の中にぶちまけられちゃって。兄さんはかんかんだし、父さんは泣きそうな顔しちゃうし」
家が行商人をやっているせいで、アシェンの耳には色々な噂話が入って来る。
それらをこのジラルドに話して聞かせる、それが最近の彼の楽しみだった。
初めて会った時はもちろんびっくりした。
木の実を集めに登った丘の上で山犬の群に襲われ、足を噛まれて引き倒された時のことである。
もうだめだと思ったその時に、野犬よりもっと恐ろしい怪物が現れたのだ。
黒い影のような何かが野犬を一飲みにした時は、次は僕の番だとアシェンは震え上がった。
しかし次の瞬間影はかき消え、代わって姿を現したのが凍り付くような美貌の青年。
彼は無言でアシェンの傷口に触れ、何か知らない言葉をつぶやいて血止めをしてくれた。
そのまま立ち去ろうとしたところを引き留めようとして、思いきりこけてしまったら黙って助け起こしてくれた。
お礼をしたいと言ったアシェンに、ジラルドはやはり無言で前髪をかき上げた。
そこには一際濃い赤色をした三つ目の目があり、淡い燐光を放ちながら明らかな意思を持ってこちらを見ていた。
「分かったな」
有無を言わせぬ一言を置いて、去っていこうとした彼をアシェンはもう一度引き留めて言ったのだ。
「僕、アシェンって言います。名前と住んでるとこ、教えて下さい。命の恩人に恩返ししなきゃ、僕の気が済みませんから!」
そこで初めてジラルドはかすかに表情を動かしてくれたのだ。


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