Don't Leave me 第四章・16
けれどカルアンにまで魔物の手が及んだ以上、これ以上知らないふりは出来ない。
その時だった。
「ジラルドに会いに来たのか? けなげなことだな」
夜風に木々が揺れる音を押しのけて、真後ろから薄笑いを含んだ声が響く。
同時にアシェンの足はその場に縫い止められ、全身にどっと汗が吹き出た。
声を聞いたことは一度しかない。
けれどすぐ後ろに感じ取れる、エルゼの何倍も濃い存在感は間違いない。
魔奏者バベル。
その名を心に浮かべた途端、アシェンの目の前に彼はゆっくりと回り込んできた。
「……あ…………、ぁ……」
浅黒い肌が伸びてきて頬に触れる。
抵抗どころかまともに声も上げられない少年の、滑らかな頬をバベルは赤い瞳を細めてくすぐるように撫でた。
「ジラルドは、よほどお前のことが大事らしい。あまりにも大事で、大事にし過ぎていて、そのせいで奴は精神に変調を来し始めている」
恐怖に真っ白になったアシェンの心に、バベルが口にした言葉が突き刺さる。
精神に変調?
「僕の…………、せい、で?」
声まではまだ完全に縛られたわけではなかったようだ。
思わず彼の言葉をおうむ返しにすると、バベルはそうだと言うようににいと目元だけで笑った。
「数少ない同族として、あいつには誇り高き一族としての生を全うしてもらいたかったのだがな。だが、こうなっては仕方がない」
バベルの言葉が頭に入ってこない。
確かに最近、ジラルドの様子はおかしかった。
蕩けるように甘く優しく抱きしめてくれたかと思えば、肉を貪る餓えた獣のように激しく貫かれる。
それが自分のせいだというのか。
ジラルドを苦しめている原因は自分で、だから彼は何も言ってくれなかったのか。
混乱するアシェンのあごがいきなり引き上げられる。
驚いて見上げたバベルの目は、想像以上に近くにあった。
慌てて顔を背けようとしたのと、魔奏者の印である第三の目が燃え上がったのはほぼ同時。
元よりまともに抵抗できるはずもなく、アシェンは魔をも従える凶悪な眼光の直撃を受けてしまった。
「…………あ……、あぁ……!」
がくりと膝が砕ける。
ひどい寒さを感じている時のように全身が総毛立っているのが分かった。
けれど今アシェンが感じているのは寒気ではない。
冷たい夜風に撫でられる肌には、逆に熱がこもり始めていて……
「……あっ」
よろめいた体をバベルのがっしりとした腕が抱き留める。
ただそれだけのことにさえ、アシェンは甘い吐息を漏らした。
「感じやすいな」
傲慢につぶやいた男の指先が、服の上からつと二の腕を撫でる。
途端にアシェンはびくびくと震え、バベルの腕の中でなすすべもなく身もだえた。
相手はジラルドではないのだという、理性の訴えはあまりにもか細い。
圧倒的な快楽の前に全てが霞む。
甘美な熱に否応なくねじ伏せられ、屈服させられていくのが分かる。
それを屈辱と思う自由さえ、とうの昔に奪い去られている。
自分の術の具合を軽く確かめたバベルは、抱き締めたアシェンの耳元にこうささやきかけて来た。
「それにオレ自身、お前に興味が出て来た。あの偏屈男をああまでさせる、お前の価値を見せてもらおう」
かすかに耳たぶをくすぐる吐息にすら、今のアシェンの体は震えてしまう。
いや、と精一杯つぶやいた唇を苦もなくふさがれた瞬間、閉じた瞳から涙が零れた。
青い瞳を離れた雫が、あごを伝って地面へと落ちる。
その間に二人の姿は、夜の闇に溶けるように消えていた。
〈終わり〉
***
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