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白い時間の過ごし方

〜kokoの徒然過去日記〜

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「じゃあエジプトに行けよ……」


詩人が書いた小説は満遍なくそれとなく詩的で、劇作家の書いた小説にはどこかにきっと完璧なセリフが潜んでいる。 たとえば冗長であった流れの中に、突然、切れ味の鋭い、これまでとこれからを集約したようなセリフが目の前に飛びだしてくる。

わたしは言葉を多く持たない。
「ニャア」とか「meow」とか、そんなもん。もちろんこれはわたしからすれば大変な誤解であり侮辱なんだけども、 いくら力説しようが、文字どおり鳴こうが喚こうが、伝わらないんだからしょうがないじゃない。
伝えたいことが上手く伝わらないときは、アプローチの仕方を変えてみるのが効果的だという。
アプローチの仕方を変えてみると、伝えたかったことが上手く伝わるかもしれない。
アプローチの仕方を変えたら上手く伝わりました!!!(32歳 会社員)
だが、わたしには無理だ。どうしょうもないくらいこれでもかと無理だ。だからわたしは、伝わらなかったら即諦める。 そんで寝る。つまり不貞寝。もちろんそのまま負けたままなのは癪だし、きちんとお返しをする。 もし相手がわたしを撫でたそうに見ていたらすぐに逃げるし、何かに集中しているようなら部屋のドアをガリガリやる。 10分おきに帰宅して仕事の邪魔をしてから、撫でさせる間もなく再び外に逃げる、という合わせ技も使う。 そして何事もなかったかのように「ニャア」と鳴く。
こうしてみると、案外、ひとつしか言葉を持たないというのは便利なのかもしれない。こちらの発言内容をすべて相手が好意的に解釈してくれるからだ。
「腑抜け呼ばわりされて黙ってられっかよ!」
「にゃあ(お前は玉なしだもんな)」
「お利口だね」なんて会話ができたりもする。

『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』でもっとも気に入ったセリフを今回はタイトルにしてみた。 セリフを発した人物の人柄と彼にまつわるエピソードの「すべて」がアリ地獄のようなこのセリフに吸い寄せられていく、 鳥肌ものの瞬間。
が、映画版ではこのセリフがカットされていました。わざわざエピソードを差し替えてまで。というか人間を描いた小説のはずが、 映画版では人物の性格が皆すこしずつ変えられていました。また、心の機微やそこから発生したはずの眼の動きなど 予備知識がないと理解しにくいシーンが多々ありました。映画版で一番よかった演技はチャリンコのペダルから足を踏み外すとこ、 一番の山場は序盤でタイトルが出たとこでした。
映画の主題歌はチャットモンチーで、単行本は装画が山本直樹、装丁が祖父江慎という気合の入りっぷり!
特に単行本はかなりかっこいいから給付金で買いなね。

KOKO

どなるど


『箱男』ならぬ箱猫(雌)です、はい。
書籍を整理する際に急造した棚の一部みたいだけど、まんまと乗っ取ってやった。とホクホクしたのも束の間、 これがどうやら箱男の箱とはだいぶ違う。見ての通り覗き穴がないし、押したり引いたりしてもらわないと移動ができない。 これじゃ観察者になりきれないどころか見世物だ。
とはいえ、周囲を囲まれるとどこか安定した感じがするし、何かに肌が触れているとこれは絶対的に安心する。そして何より、 見られているというのは自分の実在を保証されたような気がするよね。しない? 観察されている自分と、 観察者の存在を察知している観察者たる自分の二段構えというわけさ。
箱男に周囲から見た自分の絵を描かせたら、箱から足だけが出た姿を描くだろうか。周囲の人間はその絵を見て、 その通りだと口を揃えるはずだけど、箱男本人だけはどうしてか不安定な気持ちになる、という気がする。 まず全身像を視認できない(鏡の場合は、鏡像をその通り信じるという前提が必要)という誰にも共通する問題があり、 箱男の場合はさらに、個人として観察されることを自ら放棄したともいえるので、他人が見た自分がこうであると予想すること自体に 自身の否定が含まれてしまうからだ。
箱男は、箱の中で形を持たず霧状の何かとして存在していた。そして四面の隅という隅にまで密着して究極の安心を得ていた。 わたしの考える箱男はこういうものです。
あー、なんだか脈絡がなくだらだらとしている。これはわたしが箱男になれていない証拠で、本の内容にしてもその難解さ、 恐らく一割も読み解けていないだろうよ。っていうか、箱、自分で作ってないし。箱の製作を経ずして箱男にはなれんだろ。 行為ってのは境界をまたぐことだからね。
で、なんの話だっけ? そうそう、イタチっているでしょ。まあイタチに限らずなんだけど、彼ら人間に見つかったとき、 目を前足で隠すんだって。自分から見えなくなったから、相手も自分が見えてないって思うんじゃないかって話。笑えるよね。 まあ、この箱によく頭だけ突っ込んで、尻を叩かれてるわたしですが……。

KOKO

Do‐Re‐Mi


好きなこと。読書、動くものの観察、寝ること。 何ものにも代えがたいと自身を持って言えるほど好きなのに、ただ羅列するだけだとどこか味気なく感じるのはなぜだろう。
『My Favorite Things』では、「薔薇の花びらの雫」「子猫の髭」にはじまってから、「私の鼻とまつげにつもる雪」 「白銀の冬が春に変わる頃」までたくさんのお気に入りが並ぶ。較べてみると、わたしに足りないものは感受性と具体性だということが判るね。
マリア先生に倣って言い方を変えてみると、わたしは、チョコレートに似たあの古本の匂いが好きだ。 文字小さくてそれでいて少し雑な印刷と、旧仮名遣いに見慣れる旧字体。なんだか目が疲れてきたなと思った時に、 ページを開いたまま顔の上にかぶせてみるとチョコレートの匂いがして、「ああ、昔の人はすごいなあ」などとあてもなく感慨に耽ってみたりするのが楽しい。

好きなものに熱中しているとどうしても時間が足りなくなって、いままで好きだったものを少しずつ忘れていってしまっている気がするけど、 これはほんのり悲しいね。「犬が噛んだり蜂が刺したり」するのとはちょっと違って、これはmy favorite thingsでは解決できない。 だってmy favorite thingが原因だから。なぜ広く浅くか狭く深くみたいな二者択一を強いられなけりゃならないんだろう。
いまやデュアル・コアなんてものが主流になってるくらいだから、いずれは同時に物事を考えることができるようになるかもね。 その時はきっと+αで前頭葉もパッキングしてもらおう。それがしあわせかどうかはまた別の話だけど、とりあえず今はまだ実現してないし、 時間のやつを恨むしかなさそうだ。
ちなみにタイトルのDOREMIはもちろん『ドレミのうた』なんだけど、ニルヴァーナにも同じタイトルの曲があって実はそっちも好きだったりする。 発音がdon't let me似てるなあなんて『Don't let me down』を連想したけど、ビートルズも好きよ。 ニルヴァーナとビートルズってのも妙な組み合わせだがね。

KOKO

婆さんや、飯はまだかい?


自由な外出を許されている。哀愁たっぷりに窓の外を見つめて待ち、相手が真後ろに来たタイミングで仰ぎ見て「にゃあ」、 これで大抵は窓を開けてもらえる。外は風があるから、いろいろな感覚を取り戻すのに良く、何かといえば、 わたしは出たり入ったりを繰り返している。
しかしわたしは遠出をしなかった。ベランダにて日光浴をし、庭に出て草を食べ、軟らかい土があれば思い出したように排泄し、 鳥が鳴けば取りあえずは狙う。これだけのことならば、そう遠くない場所で全て事足りるのだ。とはいえ外界というのは存外広いもので、 垣根の向こうの見知らぬ景色のそのまた向こうにも何かがあるらしい。あるらしいから行ってみよう、 と他所のネコは好奇心に誘われるまま遠出をし、場合によっては日が暮れても帰ってこずに飼い主を心配させたりするという。
わたしは半径50mがせいぜいだ。これでもネコであるから好奇心は多少なりともあるし、 遠出をしたからと言って帰り道を忘れるようなヘマはしない。しかしわたしの場合は、好奇心よりも恐怖心のほうが勝っているのだろう。 見知らぬ土地への恐怖ではない、むしろ知りすぎてトラウマになっているほどの記憶への恐怖である。 わたしは締め出されるのを恐れているのだ。そうしてまた、カーテンの向こうの明かりに向かってひたすら叫び続けなければいけない状況を。
30分もすれば不安がよぎった。まだいくらも経っていなくても、窓の開く音が聞こえれば急いで戻った。 人間の行動にはとかく敏感で、頭上のパラボラアンテナは宇宙基地よろしく、忙しなく前後左右に動かしている。

『ゾウの時間 ネズミの時間』によれば、動物には生理的時間というものがあって、ヒトにはヒトの、 ネコにはネコの時間があるのだという。100年の寿命を持つゾウに対してネズミは数年しか生きないが、 しかしネズミは体内で起こるよろずの現象のテンポが速く、一生を生ききった感覚という話なら両者に差はないのではないか、 という話。哺乳類なら、どの動物も一生のうちに心臓が二十億回打つといい、それを時計に見立てれば同じだけ生きるのだと。
おそらくわたしの心臓も二十億回打つようになっているのだろう。生理的時間をもとにすればわたしも他の動物同様に わたしの寿命をまっとうできるというわけだ。しかし、どうだろう。わたしの生活はやはり人間の行動を中心としており、 人間と同じあの円形の時計、即ち物理的時間に従っているのである。
たとえば腹が減ったとしよう。わたしは急いで専用の餌皿に向かうが、どうしたことか人間の歩行速度は異常なまでに遅いではないか。もちろんわたしはその場で待機するのだが、果たしてこの時間は無駄なのかどうか。わたしの時間は人間よりもハヤいのだ。どんどん過ぎ行く時間をわたしは人間の時間に合わせるがために、やはり無駄にしているような気がしてならない。 人間に合わせると、どうしても時間をもてあましてしまう。ねこじゃらしを振るのはいいが、 もう三倍くらい早い周期で振りに来てもらわないと困る。そっちは一日一回と決めているのかもしれないが、 私の身にもなってほしいね。

KOKO

盆暮れ死活


始まりの記憶とは即ち呼び覚ますことのできる記憶の最初の項であり、記憶の始まりとはだいぶ意味が異なる。 現時点におけるわたしの始まりの記憶……
あの日は、夜だというのにカーテンから明かりが漏れる家がほとんどなかった。盆休みの真っ最中だったのだという。 わたしは餌を求めて、マンションのベランダを伝い、端から順に声をかけていった。明かりを感じさせない冷たい窓に声をかけ続けるのは、 薄気味悪いことこの上ない。叫んだ声はそのままそっくりその場に居座り、すでに何回叫んだのか、数えてみてもすぐに分からなくなった。 黒いガラスにきれいに写りこんだわたしが、必死の形相で、しかし無音の叫びをあげているのだ。 掠れた声と目の前にいる奇妙なわたし自身のせいで、わたしの意識はほとんど朦朧としていたと思う。
そのためか、初めてカーテンが開かれ眩いばかりの明かりが瞳に飛び込んできたときも、わたしは事態を把握できずにただ泣き叫んでいた。 実を言うと、この時のわたしは(保護されてからもしばらくは)あまりよく目が見えていなかった。 カーテンを開けた主がその場にいるはずなのに、わたしはそこには目もくれずひたすら照明の明かりに向かって助けを求めていたようだ。 がむしゃらに光にすがる、それほど追い込まれていたのだろう。
気がつくとわたしは、網戸によじ登って叫んでいた。いま思うとわたしはあの時、できるだけ光に近いところにいたかったのかもしれない。 無我夢中だったから、あまりよく憶えていないが。
とにかく、そのパフォーマンスが(といっても無意識のもの)功を奏して、わたしは水と少量のカリカリを与えられた。
すぐには口にしなかった。別に毒を警戒していたわけではなく、たまたまそのカリカリが成猫用のもので匂いが薄く、 それを餌だと認識できていなかっただけだ。水に浸して軟らかくなったところでようやくそれらしい匂いを感じることができた。
その夜、わたしはその家のベランダに間借りして朝を待った。無遠慮に照りつける真夏の太陽を思うと辟易したが、 それでも少しくらいは人間も増えるだろうと淡い期待を胸に、また、そのまま消えてしまいそうな自分自身を懐に抱いて、 丸くなって寝た。

KOKO

Comment allez-vous?


よほど疲れていたのだろう。滅多なことでは油断しないわたしの、唯一ともいえる腹見せショットである。
よそのネコはよくこのスタイルで寝るというが、わたしには到底理解できないことだ。もちろん彼らが異常だと言いたいのではない。 ただわたしには出来ないのだ。原因は判りきっていて、全てはわたしの臆病さに端を発している。そしてそれらが、 思い出したくもない幼少期の記憶によるものだということもわたしは十分理解しているつもりだ。わたしは未だトラウマから 脱却することができずにいた。
わたしが日頃から物思いに耽りがちなのは、そうした記憶の入り込む隙間を埋めたいという気持ちがどこかにあるからなのかもしれない。
今日も他愛のないことを考えていた。「パンセ」とはフランス語で「思考・思想」という意味の語で、 かのパスカルの著書のタイトルにもなったものだ。「人間は考える葦である」のパスカルだ。
「人間はひ弱な葦である、しかし考える葦だ」というわけであるが、わたしはネコだ。そしてひ弱だ。 ひ弱を自覚しているからこそ己の臆病さも自覚している。ところで「パンサー」といえばこれは豹(ひょう)のことだが、 彼らはねこ科だ。
「パンセ」と「パンサー」つまり何が言いたいかというと、ネコだってものを考えるのに、何ゆえパスカルは考える役目を 人間に限定したのだろうか。それとも人間以外の動物は葦に例えるほどひ弱ではないということだろうか。 この理屈は解らなくもない。ドキュメンタリー番組などを見ていると、野生動物の生き様が人間よりも逞しいと感じることは多々ある。
さて、ここでひとつの疑問が生じる。人間に飼育されたネコは果たして葦より逞しいだろうか、ということ。 わたしの見解では、答えはノンである。とはいえこれは、ネコ全体というよりはわたし個人の答えといったほうが正しいかもしれない。 今更野性に戻れといわれてもわたしには恐らくできない。というより、恐ろしい。未だにわたしの行動原理の重要な部分を占める 過去の体験、それを再び繰り返せというのか。
このように、わたしの思考はいつも「負の記憶」に帰結した。逃れるためにした行為が、皮肉にもそれらを甦らせるのである。 考えるという行為は、本当に改善を前提とした行為なのだろうかと、時々不安になることがある。 考える葦は果たして葦よりも逞しいのか、と。

KOKO

路上生活者


頭を使うと眠くなるのは、脳も肉体の一部だからで、肉体疲労の回復には睡眠が一番ということなのだろう。
この度の給付金について考えていた。必要かどうか、ではない。それを考える段階はとうに過ぎているだろう。 わたしが考えるのは経済の活性化のためもっとも有効な使い道についてだ。その上で自分も満足できる使い道についても。
飯を食えば飲食業界、物を買えばメーカー、貯金だって金融業界の活性化につながる、ゴミに出してしまわない限り (ゴミが増えてもゴミ業界は儲からない。むしろ損する)どこかしらの業界が活性化するわけだ。だから金は使いさえすれば 何も問題ない。というのは間違い。
なぜ経済の活性化が必要かといえば経済成長が停滞しているからで、その原因となった産業に金を投じるならば、 それこそ金をドブに捨てるようなものでしょう。
と、ここで個人的な話に切り替わりますが、わたしは食品以外の安売り業界が嫌いです。100円ショップはもちろん、 某大手中古書チェーンにいたっては大がつくほど嫌いです。もちろん一銭たりとも金は落としませんから!
ここまで余談。
さて路上生活者は住民票がないから給付金は受けられません。おそらく彼らの大多数は無年金300万人に含まれるだろうね。 彼らもよく眠るという。しかしその理由は体力を浪費しないためだ。おそらく脳を疲労させないために、頭を悩ませることも 極力控えているだろう。頭を悩ませる段階はもっと以前にあったのだ。いまさらあれこれ批判的になったところで失うものの方が多い、 という点ではよっぽど彼らのほうが開き直れている。
わたしも素足で路上を徘徊する一人として、いろいろ思うところはあるのだが、改めて考えてみるとこれも余談だった。
なかなか紹介したい本に行き着かない。『箱男』?とも考えたが、内容は今回の日記と関連が薄い。 たしか『地下生活者』という本があったのだが、部屋を探してみても見つからない。というか実は読んでいない。 しかし作者の椎名誠は、何となく路上生活者と縁がありそうな気がするでしょう? もちろん路上での(あるいは草原での?) 生活に自らの意思が関与しているといないとでは天と地ほどの差があるわけだけど、差っていうのはやっぱ対象あってのものだし、 つまり関係あるんだよ。今回は椎名誠!

KOKO

朝日


なぜ隠れるかといえば恐れているからで、何をそんなに恐れているかといえば、何か解らない何かにとしか言いようがない。
オレンジと紺と黒が入り混じった終焉を予感させる夕焼け空だって、それが隣のぶちネコと同じ配色だと気付けば 途端に親近感が沸いてくるものだ。別の何かに例えられるということは、対象を許容できた証なのだろう。
前回わたしは、わたしが未来を持たぬことを明かした。これは災厄を予期できないということである。 無防備状態を常に強いられるということである。もちろん後ろを振り返ればセピア色の思い出が楽しそうに輝いて見える。 しかし思い出で飯は食えないとはよく言ったもので、生きるためにわたしは前を向かなければならないのだが、あれま一寸先は闇だ。
ややこしい話になるが、思い出に浸る行為にしてもそれはすでに闇に包まれた現実からの逃避という意味で現実の一部に他ならず、 ならばわたしははじめから前も後ろも闇に包まれていたのではないか。横を向いて気を逸らしてみたところでそれは同じで、 何から気を逸らしたかを考えればそれが現実=闇であることは明白であり、さて闇の中心にいるわたしは一体何を光に見立てて 焦がれていたのだろうかと思い馳せると、そんなものは皆目見当がつかない。あるいは未来というものが それに相当するのかもしれないが、未来を持たないからもちろん答えは得られない。ここまで考えてみて、 わたしが思い出すのは『死に至る病』である。
ただこの本は読むと気持ちが暗くなるから余り話したくない。闇のさなかで暗くなるとはこれいかに、という疑問は置いといて、 やっぱりわたしは新聞の方が好きさね。一見無機質に見える記述の羅列だが、かぶってみるとこれが案外温かい。 ちゃちな紙質ならではの音と感触もいい。マウスをカチカチやるよりよっぽどいいじゃないか。 近頃はネズミなんてのもとんと見なくなってつまらないね。人間にとってはネズミが出ずに(ディズニー)平和かな。 つまらないね。

KOKO

こちとら、ねこ


何かといえば、考えるのは過去のことばかり。特に、失敗の記憶というものは頻繁に回想されているように思う。 食卓に飛び乗ったら怒鳴られただとか、壁で爪を研いだら追いかけられたとか……。そういえば気の向くままに起こした行動は 大抵失敗に繋がっているような気がするね。これもまた生き辛い世の性なのかもしれない。
とはいえ、叱られてばかりというのも癪なので、こちらなりに対策を、つまり今後「何をしなければ叱られないのか」 というようなことを考えてみたことがある。が、うまくいかなかった。気付いた時にはすでに、壁に爪を立てていて、 食卓にジャンプするために身を低くしているのだ。なぜこんなことになってしまうのかといえば、 どうやらわたしを含めネコという生き物には未来を知覚する能力がないらしい。
「ねこの額があんまりせますぎたんで、神さまが前頭葉をパッキングする余地がきっとなかったのね」
『ねこに未来はない』という本にそう書いてあった。なるほど、それでか。わたしは妙に得心がいったものだ。 何しろ、どんなに熱心に対策を練ったって、それを実行する(正確には実行しない)未来の場面が存在しないのだから。 もう少し強引に話を展開するならば、過去を引き連れたわたしという存在は、今現在をしか生きていない。未来はなく、 前方の次の一歩は断崖絶壁、もちろんわたしはこのたくましくも柔らかな足裏でそれを飛び越えなければならないだろう。 あたかも食卓に飛び移るかのごとく、大胆かつ奔放に、というわけだ。
いやはや、恐れ入った。生き辛いのが世の性ならば、それに倣わないのもネコの性、全面抗争も厭わない。 なかなか人間には難しい生き方かもしれんね、と見下していたらシャッターをきられたの図。

KOKO

猫

イントロダクション


木登りしたら遠くが見えた。そういう当たり前の現象を、ふと新鮮に感じる時がある。垣根の向こうには畑があって、 昨日失礼して用を足した場所はたぶんあのあたりだろうけど、正確な位置はもう判らなかった。

それを忘れさせるだけの時間が、いつのまにか過ぎていたのだと気付く。白い雲のような、掴みどころのない時間が。 「その真っ白いカンバスにこれからあなた自身が彩色していくのです」みたいなロマンチックなものじゃなくて、 もっとこう、意地悪というか奔放な感じがする時間。どんなに強く願っても、時間は目を合わせてくれないんだな。
ところで、時間が白いってのは個人的な感想だけど、白い時間って言い方をしたらこれはきっと余暇を指すよね。 世知辛い世かよと嘆く一方、このご時勢、狩りなんてのは完全に余暇にするものになってしまった。 木登りすればチコチコと隣で暢気にメジロが鳴くし、庭には二羽どころか何羽もやって来るし。 別に狩らなくてもいいはずなんだけど、本能がそうさせるというか、なんというか。こんな言い方したら『寄生獣』を思い出すけど、 それはさておき時々鳥やトカゲを捕っている。
そのたびに思うのは、「こいつらは本当に同じ時間を生きているんだろうか」ってこと。生きている時も死んでからも、 彼らはいつでも同じ目をしている。あの無感情な目が同じ景色を見ているとは到底思えないんだ。
だから今度鳥を見たら、ちょっと首を傾げてみて欲しい。出来れば90°くらい傾げてみて、そしたら彼らは まるで死んでいるように見えると思うから。
こんな風にちいさなことを考えながら、自堕落に白い時間を過ごしております。

KOKO

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