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白い時間の過ごし方

〜kokoの徒然日記〜

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四次元ポケットの中


ニトリの学習机のCMを見ていた時のこと。「お子様の成長に合わせて組み合わせを変える」とのことだが、 なるほど人間の住処とは不思議なものだなと思った。
身体のサイズに合わせて部屋の構造を変化させる。たしかにこれは理にかなった方法かもしれない。しかし、 その前にひとつ言いたいことがある。まずは四角い部屋に住むのをやめたらどうか。身体に直線をもたない人間が、 なぜなぜどうして立方体に住みやすさを求めるのか。人間は「無駄を前提にした工夫」を好む、わたしはそれがとても不思議だ。
『生き物の建築学』によると、自然界の生き物はコンクリートなど使わずに地下に巣を作り、 中には日本の九州ほどの敷地面積を誇る地下街を構築する種もあるのだという。もちろん空調設備を新たに設置しなくても、 換気はじゅうぶんになされる構造になっている。
人間の建築家の中にも、幾何学を用いずに家を立てようとする者はいる。かのガウディの建築などをみると、 そこには自然界の「巣」を連想させる構造や有機的な印象が直接的に感じられるだろう。
人間はもっと人間の身体にフィットした家に住むべきだ、と結論できれば話は早いのだが、実を言うと これはわたしの本音の半分でしかない。もう半分は何かと問われると答えに窮するのだが、というのも、 もう半分は人間特有の性質に由来するもので、わたし自身まだ正確なところが解っていない。
どうやら人間は、肉体のみならず精神の方も成長するようなのである。これはわたしの推測だが、 肉体が十分な成長を遂げてニトリの家具を必要としなくなったはずの成人がそれでも家を改装したがる理由はおそらくここにある。
精神の形とはどんなものだろうか。また、その精神に合った住居の構造とはどのようなものであろうか。 自然界に倣った有機的な構造なら少なくとも肉体にはフィットするだろうし、あるいは精神にもフィットするかもしれない。 球体はどうか。球面に設置できる家具を作れば模様替えのパターンは無限大だし、ある意味で万能型といえるかもしれない。 それとも究極的な幾何学構造? 箱に入ったときの不安と安心の入り混じったあの不可解な感情には きっと何か秘密が隠されているに違いない。いまのところはこの三つが有力だろうか。
ひきこもりの人間は、部屋の掃除を勝手にされると困惑し、時には発狂もするのだと聞いた。彼らは内面の成長を拒ばんでるから、 部屋の内部構造についても変化を必要としないのだ。以前と違う構造は、すなわち住みにくい構造だというわけである。むろん余談だ。
ちなみに私はネコでありながら人間の住処に暮らしており、自然界におけるなわばりを持たないため、 居心地の良い場所は与えられた環境の中で探すしかない。現在は二、三日置きに寝床を変えて、 何とかリフレッシュをはかっている状態だ。
はあ……マイホームが欲しい……なんて人間の真似をしてみるのが最近は楽しかったりする。

KOKO

靴下を履いた猫の足は臭いか?


彼はカナダで生まれた。いつも白いソックスを履いている。身体が大きいため、胎内で体毛を染める際インクが足りなくなった。 だからつま先は白いまま生まれた。わたしは小さかったから肉球までしっかり黒く染まった。この嘘のような嘘は、 実はちょっとだけほんとの話。ちなみに、プリンターのインクジェットは、騙されてるかと思うほどあっという間に空になる。 これは正真正銘ほんとの話。
さて、わたしは秘かに彼のことを哲学者と呼んでいる。
彼はよく窓際にたたずんでは外を眺めていた。その眼差しは真剣で、だけどどこか空虚だ。わたしが後からじゃれついても、 彼は二三度そのふさふさのしっぽを振るだけで、外に向けたその目を決して逸らそうとはしなかった。
「終わろうとしている世界をどんなふりをして人は生きていけばいい。俺にはわからない」
これは彼が言ったわけではなく、『パイパー』の劇中のセリフだが、彼も同じようなことを考えているような気がした。 わたしには何のことだがさっぱりわからない。終わろうとしている世界をそもそも想像できないから、 その上にさらに想像を重ねることなど到底不可能であるし、ましてや寝たふりなどをしようものなら、 次の瞬間には本当に寝てしまうだろう。わたしに未来を想像させるなよ、と言いたい。
むろん彼だって猫である。しかし彼は哲学者だ。我々には知覚できない事象についても難なく想像をめぐらすことができるに違いない。
いつか他人の記憶を覗ける日が来たとして、彼の記憶を覗いたわたしの頭はパンクしてしまうかもしれない。逆に、 わたしのとびきりの苦悩を覗いた彼が何食わぬ顔であくびをしたらと思うとゾッとする。わたしは要らない仔だろうか。
「いずこも同じ。生きるのに用のあるものは消費され、略奪され、この世から消え、生きるのに用のないものだけがいつまでも残っている」
しかし、生き残るのは、もしかしたらわたしの方かもしれない。何の根拠もなくそう思った。
これは余談だが、彼の本当の名前は「ドキ」という。ドキドキワクワクのドキだ。 しかしカナダ人は母語の性質からドキドキワクワクという語の意味を理解できない。そこでとあるカナダ人がこう言ったよ。
「ネコなのにドギーだなんて、キミは頭がイカれてるのかい?」HAHAHA!

KOKO

毛虫みたいなものでね、つまり実体がほとんどない


我々はいったいどこまで自分を憎めるのだろうか。その前に、自分を憎むとはどういうことか。
ああ自分が憎い、自分が憎い、えいっと手首を切ってやれ。という一連の流れは、どうも嘘くさい気がする。 自傷という行為は、憎しみを発端としているかもしれないが、憎しみを込めて及ぶ行為ではない。そう思う。
憎しみというのは、もっとこう、自分を生かしておきたいという衝動のようなものではないだろうか。俺という者が存在する上で、 あいつのような者はいて欲しくないとでもいうような、極めて主観的で一方通行の感情。だからもし、 世間があいつの存在を許すというのなら、せめて俺の視界からは消えてくれ、俺の視界に入ってくるというのならなら、 その時は殺すぞ。
嫌いだが対象を観察したいという場合は、嫉妬や羨望の対象とみなしていると考えたほうが大抵はわかり易い。
それでは対象が自分だった場合はどうだろうか。常にそばにいてしまうのだから、やはり殺してでもいなくなって欲しいと思うだろうか。 もしそうなら自傷という行為は自己を対象とした憎悪とみてもいいはずだ。しかしそれだと生かしたいという感情が欠けてしまう。
殺したいほど憎悪 vs どうしても生かしたい渇望 というわけだ。
勝負は見えているよ。今現在生きているんだから、惰性がはたらく分、生きたい方が勝つに決まっている。 死に切れない自分にますます憎悪を抱いて、また悶々とするのもいいけど、きっともっと簡単な解決法があるんだろうね。
そのひとつが、「見えないことにする」ことだと思う。誰からも見えてないからどんなヘマをしても恥をかいても平気だし、 そもそも恥なんてかいてないし、恥をかかないなら原因を生み出す自分を恨む理由もなくなるし、憎悪もない。悪口を言われても、 たとえば「おまえの顔はきもい」と言われても、それってのはつまり、ある人間が「おまえの顔はきもい」 と発声した以上の意味はもたないで、「はもいおえ顔のきま」と発声したのと順序が入れ替わっているだけなんだと。
そうやって、だんだん、だんだんと対象(自分含む)の行動を客観的に見るようになって、いまこうしてタイピングしているのも、 指の運動とキーボードの構造が結果的にこういう文章を生み出しているに過ぎないんだと。そんなふうに思うと、楽だ。
とここまでが、自分を憎むとこんなふうになるのではないかというわたしの想像。想像だから間違ってることもあるし、 これを読んだ人が「簡単に片付けてくれるな」と殺したいほどの憎悪を抱くことだってあるしれない。でも、 だってわたしには解らない。猫だから。
中原昌也という人がどう思っているかなんて解るはずがない。だけど『闘う意志なし、しかし、殺したい』 をこんなふうに考えながら読んでみると面白い。リアリティの詰まった、 というかガラスの破片(リアル)を握って創出したガラス玉みたいな。乱暴な芸術だ。

KOKO

急がないなら止まれ


印刷された新聞を読むのに読者が平均35分をあてるのに対し、web上のそれでは月に35分だという数字が出ている。 そんな記事を新聞で読んだ。浮いた時間は有効に利用されているのだろうか。
わたしは信号が赤から青に変わるのを待つのが好きだ。猫は車が来るとかえって予測不能な動きをし、 結果轢かれてしまうというのもおそらく事実だろうが、そういうことではなく待っていることが好きなのだ。
そんなわたしの脇を人々はぐんぐん通り過ぎていく。彼らはよく信号無視をする。それほど緊急を要するのかと訊ねれば、 ほとんどはそうでもないと答えるだろう。安全は確認したから、その上で時間を浪費する理由はないと、むしろ威張るかもしれない。
たしかにその通りだ。車が来ているかどうかなんてちょっと見ればすぐにわかる。ただ、彼らが見ているのは大抵車だけである。 そこで信号が変わるのを待っている人にはほとんど無関心だ。
老人や子どもは、誰かが渡ったのを見て一緒に歩き始めることがある。わたしは猫だから、渡ろうが止まろうが、 わたしの行動に左右される人はいないと思うが、しかし同じ人間なら、彼らは呆れるくらいに信用するものだ。 結果、信号無視をした人に続いたがために事故にあった人もいるだろう。
そういうことを考える時間は、果たして信号無視をして得た時間より価値がないだろうか。誰も待つ人がいなくなった赤信号の前で、 ひとりそんなことを想う。
新聞は、ページを捲るごとに情報の密度が深まっていく。見出しだけを読むのでは、車だけを見て信号無視をするひとと変わらないようにも思う。 多少こじつけじみた書き方になったが、こういうことが日常に溢れているのは事実だろう。
本の題名は失念したが、向田邦子さんが「食事のときに箸置きをつかうくらいのゆとりを持ちたいものだ」 というようなことを書いていたのを、わたしはふと思い出した。

KOKO

喰ってしまえば夢も現も


動物は種によって一秒間に感じ取れる画像のコマ数が異なる。これは以前書いた一生を生ききった感覚にも関係するのだが、 例えば映画を見て、ヒトが映像として認識するのに対し、ハエは32コマ/秒のそれをパラパラ漫画のように一枚一枚認識している。 (『昆虫――驚異の微小脳』を参照のこと)
つげ義春の漫画を読んでいて、ふとそんなことを思い出した。
どこか歪であるのに不自然でないという、彼の描く人物に共通する印象は果たしてどこからくるものか。わたしはある仮説を立ててみた。 ――彼は認識できるコマ数が通常の人間のものより少なかったのではないか、 あるいは認識するコマ数をある程度自由に変えられたのではないか。
これはカメラの露出時間にたとえてみると解り易いかもしれない。普通三回シャッターを切って三枚の画像を写すところを (通常なら一枚につき一枚の絵が描ける)、同じ露出時間で一回シャッターを切るのだ。もちろんこのままだと後者の画像はぶれてしまう。 (ぴんとこない人は、北極星を中心にして周囲の星が円を描く天体写真を思い浮かべてください。あれです。)
そこで彼がどうするかというと、通常三枚分の対象物の動きを平均化したところに線を描く。 歪であるが不自然でないというのはこういう仕組みからくるわけです。もちろんテキトーに言っています。ですがまだ続けます。
これって何かに似ていると思いませんか? そう、絵画技法のひとつ、キュビスムです。 ただ、二次元平面への三次元空間の還元というよりは、運動性の絵画的表現という意味合いの方に近いでしょう。
これが自在に操れるようになるとどうなるか。たとえば夢なんかはかなり整理しやすくなるかもしれない。 捉えどころのない連続した要素をある程度平均化した状態で認識できるとすれば、 もともとは現実の断片なのだから目が覚めても記憶に止めやすい、ということが、あるいは、もしかしたら、あるかもしれない。 『必殺するめ固め』なんかは、わたしなら「くっだらねぇ夢!」の一言で済ましてしまうことだろう。
そういえば、先日、近所のノラに追いかけられる夢を見て、目が覚めてもしばらくは大変な恐怖を感じていた。 この類の夢はわりと頻繁に見るけど、酷いときには飛び起きるやいなや椅子の下に逃げ込むことだってあるくらいだ。 普段のらくらとした生活をしている分、そういうインパクトのある出来事が余計にでしゃばって夢に出るのだろう。 そんなこともあってか、わたしは分析する間もなく夢を忘れてしまうことが多い。日常的にもっと豪胆に構えるくらいでないと、 とてもじゃないが夢に対して優位には立てないだろうってこと。するめ固めを掛けられた亭主に対して、 「なによ絶望的になったりして」と平然と言ってのけるような逞しさよ。
ただひとつ言い訳させてもらうと、我々は平均して日に14時間ほど寝る。つまり夢の情報量が人間の比ではないのだよ。 だからきっと多分、人間より臆病だと考えるべきではないと思うね。

KOKO

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