ロードとの再会は、あの日のアークにとって沈みがちになるのをふせぎ励ました。しかしロードと分かれた今、思い出すとズルズルと懐古の念に囚われていくようだった。
あの日、ロードに誘われた夕餉の時間を断るのがどれほど難しいことだったか。同じ道程なら断る必要もなかっただろう。だが、すぐに別れる事を思えば食事を一緒にとる気にもなれず、かといって助けてもらった手前無下にする事も出来ず。アークの逡巡が分かったロードが気を利かせて次回にと言ってくれたのだ。
年若いとはいえ立派な成人男性であるにも関わらず、人との深い接触を忌避してきた自分はあまりに不恰好だと自嘲する。そして、不恰好な自分を幾らでも優しく見つめてくれる兄のような瞳に申し訳なさが込み上げるのだ。それは村を出るときに、頬に降れた姉の手を思い出させる。
姉もロードもアークに優しすぎた。彼らと離れて思い出す顔は、慰めになると同時にかすかな痛みを伴わせる。
目前で獣よけの火が揺れているのを見ながら、己のふがいなさに声を潜め笑った時だった。
「・・・・ぅ・・・んっ・・・・・・・・」
小さな声が背から聞こえ、彼女が起きたのだろうかと思い洞窟の中を見ると、どうやら寝返りをうっただけらしい。ほっと息をつき、見張りの番に戻る。アークは人の気配が身近にある違和感に慣れていない。
彼女を見つけてからここに運んでくるまで、今はまだ起きないで欲しいという願いは叶えられたが、それからずっと目を覚まさずにいる少女が心配だ。
抱えたときに余りの華奢で軽い体だった。スラリとした手足に細く折れそうな体躯、手当てをしたからこそ僅かに血の気が戻ってきてはいたが、それでも青白い小作りな顔、長い髪は汚れてはいてもきちんと手入れされているのが伺えた。
もしかしたら、どこかの貴族の娘かもしれない。それにしてはあまりに奇妙な出会いであったが。
旅なれたアークの手によって軽い手当てはしたものの、大した医療技術も、ましてや器具など持ち合わせていない。ここから医療が受けられそうな町まで行くにしても、少女を連れてではかなりな時間がかかってしまう。膿まないように清潔にするのが一番なのだが、町に行く前にこの暗闇に覆われて鬱蒼とした森が立ちはだかっているのだ。決して、けが人に優しくも容易い道のりではないし、少女を護衛しながらの旅は気を遣うに違いなかった。
それでも見捨てておくわけにもいかず、傷ついた少女のあどけない寝顔を見ていると、理由など知らずとも何とかしてあげたいと思ってしまうのだった。アークは未だ目覚めぬ少女を眺めて溜息をそっとつく。そしてこの長い夜にたまにくる睡魔と戦い、時にうたた寝をしながら過ごした。
「ん・・・・」
ゆっくりと彼女が目を開けると、ぼんやりとした景色がその瞳に写る。昨日は彼女の長い髪も土埃をかぶってくすんでいるように見えたが、今はブラウンがかった色が差し込んできた日の光に煽られて透けて見える。
大人になりきらぬ幼い顔立ちからして、十五、六といったところだろうか。きょろきょろと回りを見回しても、自分がいる場所に検討がつかないのか不思議そうな顔をした。
「どうして・・・・?」
ふと足下を見ると、丁寧に包帯が巻いてある。まさか夢だとは思わなかったが、それでもあのまま朝を、最悪には死を迎えるだろうと思っていたのだから、彼女の困惑は当然だった。
彼女が自分が誰かに救われたことを知っても、周りにそれらしい人は見当たらない。適切な手当てをしてもらい、かけ布までかけてもらっているので悪い人物ではないだろう事は分かるが、それでも不安は残るものだ。
ここがどこか確認しようと、立ち上がって外の様子を見に出たはしたものの、そこは最後に意識があったときに見た風景と同じだった。日差しが昼に近い事を告げている。
昨日と一つ違うところを上げるとすれば、それは近くで水の音がすることぐらいだろうか。水流を感じさせる音は、彼女にとってひどく心地よい。そうしているうちに、人が彼女の方に向かって歩いてくる気配がした。
ざわっとまわりの葉が揺れ、アークが水入れにこぼれそうなほど水を抱えてきたのだ。疲労を感じさせる顔をしていたが、前髪が少しばかり濡れていてすっきりとした表情をしている。
「あ・・・気がつきましたか」
アークは警戒していた少女と顔を合わせるとにこりと笑んだ。彼女がこくんと小さく頷く。まだ少し警戒心が残っているせいか表情は固かったが、彼が自分を救ってくれた人物だということは分かったのだろう。
「お加減は大丈夫ですか?痛いところは?」
「いえ・・・ありません。あの・・・あなたは・・・・?」
彼女の答えにほっとして、その問いに答えるため口を開きながら目線を合わせた。
「アーク、アーク・ロレンスです。知人の所に行くのにこの森の中を通りがかって、あなたが倒れているのが見えたので・・・」
「ありがとう・・・・アークさん」
おずおずとお礼を言う彼女に、年相応の微笑ましさと遠慮がちな性格を感じる。
「アークで結構ですよ。よければ、あなたの名前とどうしてあそこで倒れていたのか・・・・事情を話して頂けますか?」
彼女から見知らぬ人に見せる怯えを感じて、アークは姉から優しく見えると言われる笑みを向けながら、いつもより一層優しく聞こえるように注意を払う。
「話したくない事は喋らなくても良いですから。ただ名前は教えていただけませんと不都合でしょう?それに、これからこの森や怪我の事もありますから、出来ればあなたの状況を知っておきたいんです。協力できることがあるかもしれません」
そう言うと少女がわずかながらも頷く。警戒はしていても助けてくれたアークを悪く思っていないようだった。アークは近くの倒れ木を指して座るように促した。
二人が座ってから少しのパンと干し葡萄、それと綺麗で新鮮な水を彼女に渡す。時間も遅く暖かな朝食とは遠いが、それでも体力を補うことは出来るだろう。
少女は恐る恐る受け取り、まずはパンを一かけら次に葡萄を口に入れると果物が好きなのかほんの少しだけ表情が和らいだ気がした。そうして二人が簡素な朝食を食べ終わると、少しずつゆっくりと彼女の口が開き小さな声で話し始めた。
少女は名をテイラと言い、幼い頃の記憶がなかった。いや、正確に言えば曖昧な部分が多すぎるのだ。確かな記憶は、彼女の名前と一緒に暮らしていたという老夫婦との生活ぐらいなものだ。
それに、彼女のかなり悲惨な状況も分かった。老夫婦が相次いで亡くなった後、身寄りのない彼女は前に住んでいた所を追い出され、仕方なく町から離れるしかなかったようだ。その途中で賊に襲われそうになり、森の中に逃げ込み迷ったのだという。
「森に入る方が危ないと思わなかったのですか?獣もいますし、賊ならあなたよりはこの森の地理に詳しいでしょう」
軽率とも言えるテイラの行動に思わず責めるような口調になってしまったアークに、少女は体を小さく震わせ、更に小さな声で謝る。
「怒っているわけではないんですよ。ただ、あなたのような女性がこんな森の中を一人で歩いては危険すぎます。これから行く当てはあるんですか?」
「あっ・・・いえ・・・・」
ぎゅっと唇を噛み締めるテイラが痛々しく見えた。彼女の年齢で身寄りが無いというのがどれほど心細いものなのか、アークは知っている。寝ている時のあどけない顔からして、まだ成人は迎えていないだろうという予測は、テイラに首を横に振られ否定された。
「それなら、テイラは今年の秋で十七になるのですね?」
「はい」
テイラはこくりと頷くと、世話になった老夫婦の顔を思い出して涙を堪える。唯一、自分に優しくしてくれた人たちだった。恩を返す事すらままならず、せめて墓を守っていきたいと思っていたのに、それすら出来なくなってしまった事が悔やまれる。
「本当なら成人した時に出る予定だったんです。私、でも、厚意に甘えてしまって・・・それで・・・」
男なら十五歳で女なら十六歳で成人と見なされ、生家を出て仕事に就くか嫁いで行くのが一般的だ。だが、テイラの話に聞く限り、質素で堅実的な生活をしていた老夫婦は他に親類もおらず、嫁ぎ先を探すのも儘ならなかったに違いない。
それとも・・・とアークは顔を曇らせる。テイラの記憶に関係するのかもしれない。
「これからどうするおつもりですか?」
「あ・・・近くの町で働く場所を探してみようかと」
殊更、声が小さく尻すぼみになっていくのは、この森を抜ける事を考えると恐ろしいからだ。追ってきていた賊は既に諦めているだろうが、弱い獲物に目を光らせる獣に対抗する手段はテイラに無いはずだった。
「行く当てはないのですよね?」
「はい・・・でも・・・」
現実に厳しくとも森を抜け、町で働き先と住処を探すしかない。身寄りの無いテイラにとって、己しか頼るものはないのだから。
またぎゅっと唇を噛み俯いてしまった少女を、どうしたものかとアークは眺める。もちろん、森を抜けるまでは護衛を兼ねてテイラに付き添うつもりでいたが、事情が事情なだけに森を出て、そのまま『さようなら』ともいかないだろう。
「確かな事は言えませんが、私がこれから向かおうとしている所なら、テイラが望むように出来るかもしれません。私の友人が侍女を雇いたいと言ってましたので」
「えっ・・・」
アークの言葉にテイラは俯いていた顔を上げて、深く濃い海の色を湛えた目とぶつかる。誰をもそれ以上の奥深くへ進むのを拒否するかのような深海の色がテイラの目を捉えて離さなかった。
「確実にとは言い切れませんが、テイラならきっと大丈夫でしょう。身元は私が保証します。それに希望していた侍女の職が既に無かったとしても優しい方ですから、あなたが次の職を見つけるまでは援助してくれます。テイラのような女性を放っておく方が怒られてしまうでしょうしね」
最後は軽い口調で言って彼女の様子を見る。テイラは突然の申し出に驚いているようだった。昨日の今日では無理も無い。それでも、逡巡するようなそぶりからしてアークの言葉に心惹かれているのは確かだ。
「もし、全て世話になるのが気になるのでしたら心配いりませんよ。私も暫くは世話になる予定でしたから。比較的、裕福な家なので一人ぐらい増えても問題ありません。テイラの怪我も気になります。せめて怪我が治るまで私と一緒に来てくださいませんか?」
懇願ともとれる態度の彼にテイラは思案した。アークに付いて行って、自分が本当に邪魔ではないと言い切れない。けれど、一人になり怖い思いをしたばかりのテイラにとっては魅惑的な誘いだった。
少しの間をあけてアークが苦笑しながら言う。
「とはいえ、会ってからそれほど時間も経っていません。すぐに信用しろというのも無理な話でしょう。あなたは怪我をしているのだから、今日はもう休んで。明日に備えて下さい。返事は明日で構いません。それと私は日が暮れてしまう前に、近くの川まで行って水を汲んできます。すぐに戻って来ますから、安心して休んでいてくださいね」
日はまだ高く、テイラはすぐに横になる気にはなれなかったが、傷ついた足ではアークに付き合うのは無理だろう。テイラは性分から厚意に甘えっぱなしというのは気になるが、どうする事も出来ない。
「あの・・・・ありがとう」
「気にしないで。それと、私の話を受けないにしても森を出て、安全な場所までは護衛させて下さいね」
2008/09/25